第1話 ルアーナ嬢の初恋
「お姉様のご飯よ」
わずかに開かれた扉の隙間から放り込まれたのは、カビが生える寸前のパンだ。いや、既にカビが生えているパンかもしれない。手に取って鼻を近づけると、言いようのない悪臭がした。
「それを食べたら、廊下の掃除をしておくこと。サボったら明日の朝食は抜きだから」
バタンッ、と派手に音を立てて部屋の扉が閉められる。いつものことだ。ルアーナはそっと息を吐いて、パンをテーブルの上に置いた。
母親が他界し、父が愛人を正式な妻に迎えてから五年。
愛人の娘であったオルガから、ルアーナは執拗なまでの嫌がらせを受けている。
「……はあ」
ベッドに寝転がり、天井を見上げる。朝までに廊下の掃除をしなければ、またオルガが部屋に乗り込んでくるだろう。
見ないふりを決め込む父親、オルガほどではないが嫌がらせをしてくる義母。
数年前まで伯爵令嬢として蝶よ花よと育てられていたルアーナの人生は五年前に一変した。
しかし、彼女の瞳は輝きを失っていない。
コンコン、と窓が叩かれた。風の音かと勘違いしそうになるほど小さな音だが、ルアーナがこの音を聞き逃すことはない。
慌てて窓際に駆け寄り、カーテンと窓を開ける。すると、軽やかな身のこなしで一人の男が部屋に入ってきた。
揺れる銀髪、ルビーのように美しい赤い瞳。気怠そうな雰囲気と色気をたっぷりと纏った、アメーリア伯爵家の執事である。
ああ、今日も格好いいわ、ノルベルト……!
義母は正式な伯爵夫人になると、前妻と親しくしていた使用人全員を解雇にし、新しい使用人を何人も雇った。
その内の一人が、このノルベルトである。
「お嬢様。……今日も、こんなもので申し訳ありませんが」
ノルベルトが懐から取り出した包みの中には、サンドウィッチが入っていた。チーズとハム、そしてレタスが挟まっている。
「そんなことないわ。すごく助かるもの」
「……こちらは、俺が処分しておきましょう」
テーブルの上に置かれたカビの生えたパンを懐にしまい、ノルベルトはすぐに窓枠へ手をかけた。
こうしてノルベルトがルアーナに食事を持ってきてくれていることがバレれば、オルガが黙っていないからだ。
ノルベルトには、ルアーナに優しくするメリット等ない。にも関わらず彼は、働き始めてからずっと、こうしてルアーナを助けてくれる。
(……きっと、可哀想だからと同情してくれてるんだわ)
「ではお嬢様。失礼します」
「……ええ。おやすみなさい、ノルベルト」
頭を下げ、ノルベルトは窓から姿を消した。ここは三階だというのに、彼はいつも軽々と窓からやってきて、窓から帰っていくのだ。
優しくて、格好良くて、おまけに運動神経までいい王子様。
ルアーナにとって、ノルベルトは完璧な人間だ。
ただ、この初恋には二つ障害がある。
一つ目は、彼がアメーリア伯爵家の執事であること。
そして二つ目は、彼がルアーナより二十歳も年上だということである。
◆
「相変わらず掃除もへたくそね、お姉様」
廊下の窓枠をそっと人差し指でなぞると、オルガはにやにやと笑いながら埃のついた指をルアーナの頬に押し当ててきた。
「これじゃ、朝ご飯はあげられないわ」
どれほど真面目に掃除をしても、オルガの気分次第で朝食はなくなる。
きっと今日は、元から朝食を与える気等なかったのだろう。
「……なにか言ったらどうなの?」
「……ごめんなさい。やり直すから」
慌てて窓枠を拭く。そのまま部屋へ戻ろうとすると、待ちなさいよ、と呼び止められた。
「今日はお姉様に知らせたいことがあるの」
「……知らせたいこと?」
「そう。ノルベルトのことよ」
ノルベルト、という言葉につい反応してしまう。動きを止めたルアーナを見て、オルガが楽しそうに口角を上げた。
「彼、今日でクビなの」
「……え?」
ルアーナの耳元に口を寄せると、オルガはゆっくりと囁いた。
「残念だったわね、お姉様」
全身から血の気が引いていく。乱れた呼吸を整えるように息を吸うと、オルガが顔を覗き込んできた。
「これでもう、お姉様の味方は誰もいないわよ?」
笑いながらオルガが去っていく。
(どうしよう。私のせいで、ノルベルトが仕事を失ってしまうなんて……)
なにより、ノルベルトと会えなくなってしまうことが悲しい。
瞳から涙が溢れてくる。拭っても拭っても、涙が止まることはなかった。




