第10話 国家存亡の危機? 私のプロテイン流通網を守るために出陣します
王太子からの復縁要請を手紙ごと粉砕してから、三日が過ぎた。
北の辺境、鉄壁の砦は今日も平和だった。
「ん〜っ! 今日も素晴らしい朝ね!」
私は食堂で、朝食のゆで卵(白身のみ十個)を剥きながら窓の外を眺めていた。
中庭では、私が考案した「マッスル・ブートキャンプ」に参加する騎士たちの掛け声が響いている。
「ワン! ツー! マッスル!」
「脚が震えてからが本番だ!」
「昨日の自分を超えていけ!」
彼らの動きは洗練され、肉体は見違えるほど大きく強くなっていた。
以前は装備していた鎧が、今では筋肉の膨張に耐えきれず、半袖のように弾け飛んでいる者もいる。
実に喜ばしい光景だ。
「レティシア、調子はどうだ」
シグルド様が、山盛りの蒸し鶏を持って隣に座った。
彼の腕もまた、私の指導によってさらに太くなっている。
上腕二頭筋に浮き出る血管が、まるで地図の川のように美しい。
「最高ですわ、シグルド様。ここの生活は楽園そのもの。空気は美味しいし、ストレスもないし、何よりタンパク質が枯渇することがない」
「そうか。君が満足してくれているなら、私としても鼻が高い」
シグルド様は嬉しそうに微笑み、私の肩に手を置いた。
その時だった。
食堂の扉がバンッ! と激しく開かれた。
「だ、団長! 大変です!」
飛び込んできたのは、伝令の兵士ではなく、この砦に出入りしている行商人の男だった。
彼は顔面蒼白で、息も絶え絶えになっている。
「どうした? 魔獣が出たか?」
シグルド様が冷静に尋ねる。
しかし、商人の口から出た言葉は、予想外のものだった。
「ち、違います! 王都です! 王都グランドルが……魔獣の大群に包囲されました!」
「何だと?」
食堂の空気が凍りついた。
食事をしていた騎士たちが手を止め、商人を見る。
「数日前に結界が消滅したらしく、今は数千の魔獣とワイバーンが空を覆っているそうです! 物流は完全にストップ! 南からの街道も封鎖され、王都は孤立無援の状態です!」
「数千か……。やはり、あの『可愛げのない女』発言の代償は大きかったようだな」
シグルド様がため息をつく。
王都の危機。
それは本来、国を守る騎士として見過ごせない事態だ。
しかし、ここは辺境。王都からは遠く離れているし、私たちを追放した王太子を助ける義理はない。
「放っておけばいいのではありませんか?」
私はゆで卵を口に放り込みながら言った。
「自業自得ですわ。自分たちで招いた種ですもの、自分たちで刈り取るべきです。私たちはここで、ベンチプレスのマックス重量を更新するのに忙しいのですから」
冷たい言い方かもしれない。
でも、あそこに戻ればまた「筋肉禁止」の生活が待っている。
そんなリスクを冒してまで助ける理由がない。
商人が、泣きそうな顔で私にすがりついた。
「そ、そんなことおっしゃらないでください、レティシア様! 王都が滅びれば、この北の地だって無事では済みません!」
「いいえ、ここは自給自足できています。魔獣肉は豊富ですし」
「で、ですが! 物流が止まるんですよ!? 今朝届くはずだった『南方産の最高級カカオパウダー』も、『東方の奇跡のスパイス』も、すべて王都の倉庫で止まっているんです!」
ピクリ。
私の手が止まった。
「……なんですって?」
「え?」
「今、何と言いました? カカオパウダーが……届かない?」
商人はコクコクと頷いた。
「は、はい。レティシア様が注文されていた、『魔獣肉の臭みを消し、チョコレート風味に変える魔法の粉』……あれも、王都が封鎖されたせいで入荷未定に……」
ガタンッ!
私は椅子を蹴倒して立ち上がった。
「なんてこと……!」
私は頭を抱えた。
これは一大事だ。国家存亡の危機どころの話ではない。
魔獣の肉は、確かに栄養価が高い。
しかし、独特の獣臭さがあり、毎日食べていると味に飽きてくるのが難点だった。
そこで私が心待ちにしていたのが、味変アイテムの輸入だ。
カカオ、ベリー、バニラエッセンス。
それらがあれば、味気ないプロテインライフが、バラ色のデザートタイムに変わるはずだったのに。
物流。
それは筋肉を支える生命線。
いくら現地で肉が獲れても、それを美味しく食べ続けるためのスパイスや、新しいトレーニング器具の素材は、王都を経由して入ってくるのだ。
「王都が滅びれば……私の『美味しいプロテイン計画』が頓挫する……!」
私の瞳に、怒りの炎が宿った。
王太子がどうなろうと知ったことではない。
だが、私のカカオパウダーを人質に取られているとなれば、話は別だ。
「シグルド様!」
私は隣の巨体を仰ぎ見た。
「出陣しますわ! 今すぐに!」
「……理由はカカオか?」
シグルド様は呆れたように、しかし愛おしそうに私を見た。
「カカオだけではありません。ゴムチューブの原料、新しいダンベルの鉄、そして可愛いトレーニングウェア! 王都は物流の心臓部。あそこが止まれば、私たちの筋肉ライフの質(QOL)が下がります!」
「なるほど。筋肥大のためには、ストレスのない食生活と環境が不可欠。つまり、王都救出は筋肉を守るための防衛戦というわけか」
「その通りです! さあ、行きましょう!」
私の理論(屁理屈)を、シグルド様は一瞬で理解してくれた。
さすが私のパートナーだ。
「総員、聞けぇぇぇッ!!」
シグルド様が立ち上がり、腹の底から声を張り上げた。
食堂の窓ガラスがビリビリと震える。
「これより、我々は王都へ進軍する! 目的は王太子の救助ではない!」
騎士たちがざわつく。
「我らが師範代、レティシア様の『カカオパウダー』と『物流網』を魔獣の手から奪還するためだ!」
「「「うおおおおおおおっ!!」」」
騎士たちが拳を突き上げた。
普通なら「なんだその理由は」と士気が下がるところだが、彼らはすでに筋肉教の信者。
「師範代のプロテインの味」がいかに重要か、身を持って知っているのだ。
「物流を守れ! 筋肉のために!」
「カカオを救え! チョコレート味のために!」
異様な熱気が食堂を包む。
もはや誰も、王国の平和や忠誠心など口にしていない。
あるのは、純粋な食欲と、筋肉への執着だけだ。
◇
出陣の準備は迅速だった。
一時間後には、砦の前の広場に五百名の精鋭部隊が整列していた。
壮観だった。
かつては普通の騎士団だった彼らが、今では全員、首が太く、鎧がはち切れんばかりのマッチョ軍団に変貌している。
馬たちでさえ、高タンパクな飼料と引く手綱の強さに鍛えられ、サラブレッドというより重戦車のような体つきになっていた。
「レティシア、君の装備はそれでいいのか?」
馬上のシグルド様が尋ねてきた。
彼は漆黒のフルプレートアーマーに身を包み、背中にはあの大剣を背負っている。
威風堂々とした姿は、まさに北の守護神だ。
対する私は。
「ええ、これが一番動きやすいですから」
私は特注の戦闘服を纏っていた。
伸縮性の高い素材で作られた、ノースリーブのボディスーツ。
その上から、急所だけを守る軽量のミスリル製プロテクターを装着している。
露出した二の腕と太ももが、北の寒風に晒されているが、寒さは感じない。
私の筋肉が発する熱量が、寒気を凌駕しているからだ。
「美しい……。特にその大腿四頭筋の張り。戦場で見せつけるには惜しいほどだ」
シグルド様がまたしても熱っぽい視線を送ってくる。
これから死地へ向かうというのに、この人はブレない。
「ありがとうございます。戦場は最高のアピール(ポージング)の場ですもの。魔獣たちにも、私の仕上がりを見せつけてあげますわ」
私は愛馬に跨り、騎士たちの前に進み出た。
「みんな! 聞いてちょうだい!」
私の声が響く。
「王都は今、地獄らしいわ。数千の魔獣、空を覆うワイバーン。普通の騎士なら絶望して逃げ出す状況よ」
騎士たちが静まり返る。
「でも、今の貴方たちは違う! この二週間、地獄のスクワットに耐え、泥のようなプロテインを飲み、限界を超えてきた! 今の貴方たちの筋肉は、鉄よりも硬く、岩よりも重い!」
私は拳を掲げた。
「魔獣? いいえ、あれはただの動く有酸素運動マシンよ! 数千匹? いいえ、あれは数千回のレップ数(回数)よ!」
「「「おおおおおおっ!」」」
「王都の軟弱な貴族たちに見せてあげなさい! 本物の強さを! そして、私のカカオパウダーを取り戻すのよ!」
「「「イエス、マッスル!!」」」
鬨の声が轟いた。
もはや騎士団ではない。
これは、筋肉による、筋肉のための、筋肉十字軍だ。
「全軍、出撃!」
シグルド様の号令と共に、私たちは南へと駆け出した。
蹄の音が地響きとなり、大地を揺るがす。
目指すは王都グランドル。
待ってなさい、カイル殿下。
そして私の大切なカカオパウダー。
最強の「筋肉」が、今、到着する。
◇
その頃、王都グランドルは崩壊の時を迎えていた。
「ひぃぃぃっ! くるな、くるなぁ!」
王城のバルコニーで、カイル王太子は無様に腰を抜かしていた。
眼下には、城壁を乗り越えて侵入してきた魔獣の群れ。
王都の市街地からは火の手が上がり、人々の悲鳴が絶え間なく聞こえてくる。
近衛騎士団が必死に応戦しているが、多勢に無勢だ。
次々と防衛線が突破されていく。
「カイル様ぁ! なんとかしてくださいよぉ!」
隣では、婚約者のミナが泣き叫んでいる。
彼女の「聖女の祈り」など、圧倒的な暴力を前にしては何の役にも立たなかった。
「無理だ……もう終わりだ……」
カイルは絶望に顔を歪めた。
空を見上げると、巨大なワイバーンが滑空し、鋭い爪で塔を破壊している。
瓦礫が降り注ぎ、王宮が揺れる。
「誰か……誰か助けてくれ……」
「レティシア……」
カイルは無意識にその名を呼んだ。
あの日、自分が捨てた女。
可愛げがなく、無愛想で、しかし誰よりも頼もしかった女。
もし彼女がここにいたら。
あの不思議な力で、奇跡を起こしてくれたかもしれない。
だが、遅すぎた。
彼女は北の果て。
今から助けに来てくれたとしても、到着する頃には王都は廃墟になっているだろう。
ドォォォォンッ!!
城門が破られる音がした。
巨大なサイクロプスが、王城の前庭に侵入してくる。
その一つ目が、バルコニーにいるカイルたちを捉えた。
「あ、あ……」
カイルは失禁した。
死ぬ。
食われる。
サイクロプスが棍棒を振り上げた、その時だった。
ヒュゴォォォォォォォッ!!
遥か彼方から、何かが飛んできた。
砲弾?
いや、違う。
それは、一本の「槍」だった。
いや、よく見るとそれは槍ではない。
巨大な「鉄骨」だ。
ドスゥゥゥゥンッ!!
音速を超えて飛来した鉄骨が、サイクロプスの頭部を正確に貫いた。
巨人が断末魔も上げずに崩れ落ちる。
「……え?」
カイルは目を疑った。
何が起きた?
誰がやった?
地響きが近づいてくる。
魔獣の咆哮を掻き消すほどの、力強い蹄の音。
そして、地平線の彼方から現れたのは、土煙を巻き上げて突進してくる黒い集団。
先頭を走るのは、漆黒の鎧を纏った巨人の騎士。
そしてその隣には――。
銀髪をなびかせ、輝くような筋肉を露わにした、美しい戦乙女。
「れ、レティシア……?」
カイルが呟いた瞬間。
戦乙女が馬上で立ち上がり、拡声魔法を使って叫んだ。
その声は、戦場のすべてを圧して響き渡った。
『道を開けなさい、雑魚ども(魔獣たち)! 私のカカオパウダー配送ルートを塞ぐ者は、一匹残らずスクワットの刑に処します!!』
意味の分からない、しかし圧倒的に力強い宣言。
最強の援軍が、王都に到着した瞬間だった。




