第1話 婚約破棄されたので、心のダンベルを持ち上げます
異世界恋愛×筋肉の新感覚小説になってます笑
ぜひ最後まで読んでみてくださいー!
「レティシア・フォン・ヴァルト! 貴様のような可愛げのない女との婚約は、今この時をもって破棄とする!」
王宮の大広間。
クリスタルのシャンデリアが煌びやかに輝く夜会の最中、王太子カイル殿下の高らかな宣言が響き渡った。
優雅に奏でられていた弦楽の調べが止まり、ざわめきが波紋のように広がる。
貴族たちの視線が、一斉に私――公爵令嬢レティシアに向けられた。
私は今夜も淡いブルーのシルクドレスに身を包み、扇で口元を隠して立ち尽くしている。
周囲から見れば、突然の宣告に言葉を失い、ショックを受けているように映っていることだろう。
私の目の前には、カイル殿下に腕を絡ませた愛らしい男爵令嬢、ミナ様の姿があった。
彼女は勝ち誇ったような、それでいて私を哀れむような瞳で見上げている。
「……カイル殿下。それは、本気でございますか?」
私は震える声で尋ねた。
カイル殿下はふん、と鼻を鳴らし、軽蔑の眼差しを向けてくる。
「本気だとも! ミナから聞いたぞ。貴様、影で彼女に嫌がらせをしていたそうだな? 教科書を隠したり、ダンスの練習を邪魔したり……」
もちろん、そんな事実は一切ない。
そもそも私には、他人の教科書を隠すような暇など一秒たりともなかった。
私の生活は、いかに効率よく大腿四頭筋を刺激するかという一点のみに捧げられているのだから。
「それに何だ、その態度は! 私が話しかけても上の空。デートに誘っても体調が優れませんと断るばかり。たまに会えば、無表情で私を睨みつけてくる!」
睨んでなどいない。
あれは貴方の話があまりにも長く退屈だったため、ドレスの下で密かに行っていた空気椅子の限界が近づき、表情筋が強張っていただけだ。
殿下の言葉が熱を帯びるにつれ、周囲の貴族たちのひそひそ話が耳に入ってくる。
「ああ、なんてことだ……」
「氷の令嬢と呼ばれたレティシア様が、あんなに打ちひしがれて……」
「やはりショックなのだろう」
彼らの同情的な視線が痛い。
けれど、彼らは大きな勘違いをしている。
私の膝が小刻みに震えているのは、悲しみのせいではない。
これは、歓喜の武者震いなのだ。
やった。
ついにやった。
心の中で、私は極太の腕を天に突き上げ、勝利の雄叫びを上げていた。
これで、あの地獄のような日々から解放される!
「貴様のような冷酷な女には、次期王妃の座は務まらない! よって婚約破棄の上、罰として北の辺境へ追放処分とする!」
北の辺境。
その言葉を聞いた瞬間、私の背筋に電撃のような衝撃が走った。
北の辺境といえば、王国の最果て。
極寒の気候と、険しい山脈に閉ざされた土地。
そして何より、凶暴な魔獣たちが我が物顔で跋扈する、人類生存の最前線エリアだ。
普通の令嬢ならば、絶望のあまり気絶してしまうかもしれない。
だが、私にとっては違う。
魔獣の宝庫ということは、つまり新鮮で高タンパクな赤身肉が食べ放題ということだ。
王都のひ弱な家畜とは違い、厳しい野生を生き抜いた魔獣の肉は、筋肉を育てるための最高の栄養源になる。
それに、辺境ならば王都のような窮屈なドレスコードも存在しないだろう。
朝から晩まで、誰の目も気にせず筋トレに没頭できる。
岩を持ち上げようが、丸太を振り回そうが、白い目で見られることはない。
ありがとう、カイル殿下。
貴方は私を捨てたのではない。
私に自由という名のゴールドジムへの会員証をくれたのだ。
実を言うと、私はもう限界だった。
前世でボディビル大会の日本代表を目指し、日夜トレーニングに明け暮れていた記憶を持つ私にとって、この深窓の令嬢生活は拷問そのものだったのだ。
日傘を差しての優雅な散歩など、有酸素運動にもならない。
アフタヌーンティーに出てくるのは、筋肉の敵である砂糖と脂質の塊ばかり。
何より辛いのは、このドレスだ。
コルセットで内臓ごと締め上げられ、何枚もの布を重ねたそれは、可動域を制限する忌まわしい布の檻でしかない。
筋肉の成長を阻害し、血流を滞らせる悪魔の衣装。
私はずっと耐えてきた。
公爵令嬢として、王太子の婚約者として、ふさわしい振る舞いを求められてきたからだ。
愛する筋肉を脂肪の下に隠し、か弱いふりをする毎日は、精神的にも肉体的にも過酷なストレスだった。
それが今、終わろうとしている。
「……う、ううっ……」
私はこみ上げる笑いを誤魔化すために、とっさに両手で顔を覆った。
肩が激しく上下する。
必死に口角を下げようとするが、油断するとニヤけてしまいそうだ。
「ふん、今さら泣いても遅い! 衛兵、この女を屋敷へ送り返せ! 明朝、直ちに出立の準備をさせるんだ!」
カイル殿下が冷酷に言い放つ。
私は震える肩を抱きしめたまま、か細い声を絞り出した。
「……承知、いたしました……」
涙声を装って答え、優雅にカーテシーの礼をとる。
その一瞬、嬉しさのあまり大殿筋に力が入りすぎてしまい、床を強く踏み込んでしまった。
足元の大理石から、ミシッという不穏な音が鳴る。
蜘蛛の巣状の亀裂が入った感触が靴底を通して伝わってきたが、幸いにもふわりと広がったドレスの裾がそれを隠してくれた。
誰にも気づかれていない。
私は内心で冷や汗をかきつつ、悲劇のヒロインを演じきって会場を後にした。
◇
公爵家の馬車に揺られ、屋敷に戻った私は、自室に入るなり侍女たちに命じた。
「下がってちょうだい。一人になりたいの」
「ですがお嬢様、そのようなお顔で……」
「私たち、お嬢様が何もしていないと信じておりますから!」
涙ながらに訴える忠実な侍女たち。
彼女たちの優しさは胸に染みるが、今はとにかく一刻も早く一人になりたかった。
このままでは喜びが爆発してしまう。
「ありがとう。でも、お願い。少しだけ休ませて」
そう言って彼女たちを部屋から出し、重厚な扉に鍵をかける。
カチャリという金属音が、自由の合図のように響いた。
静寂が訪れた部屋。
私は鏡の前に立ち、大きく息を吐き出した。
「……ふぅーっ!」
まずは、髪を複雑に結い上げていた宝石付きのピンを次々と引き抜く。
銀色の髪がサラサラと背中に流れる。
次に、首元の窮屈なチョーカーを引きちぎるように外す。
そして、ドレスの背中の紐に手をかけた。
本来なら侍女の手を借りて二十分はかかる脱衣作業だ。
だが、もう我慢の必要はない。
「んっ、ふんっ!」
私は背中の広背筋を一気に広げた。
バヂンッ、という乾いた音と共に、ドレスのホックがすべて弾け飛ぶ。
高価なシルクのドレスが、抜け殻のように床へ滑り落ちた。
鏡の中の私は、シンプルなシュミーズ姿になった。
だが、まだ終わりではない。
私の身体には、まだ秘密の拘束具がついている。
二の腕、太もも、そして腹部。
肌着の上から装着された、鉛色の無骨なベルトとリストバンド。
これらはただの重りではない。
我がヴァルト公爵家に代々伝わる、魔力を込めて作られた『封印の鉛』だ。
見た目の体積からは想像もつかないほどの質量を持つ、特級の修行道具。
「……解除」
私が短く呟くと、魔導具に施されていた質量封印が解け、本来の重量が戻る。
その総重量、実に百二十キロ。
ドスンッ!!
ズシンッ!!
床に落とした瞬間、屋敷全体が揺れるほどの重低音が響いた。
窓ガラスがビリビリと震え、花瓶の水が波打つ。
階下で執事が「地震か!?」と叫ぶ声が微かに聞こえたが、今は気にしないことにする。
ようやく、私は本当の意味で自由になった。
身体が羽根のように軽い。
重力から解き放たれたような爽快感が全身を駆け巡る。
「はぁ……はぁ……」
私はゆっくりとシュミーズを脱ぎ捨て、下着姿になった。
等身大の鏡が、私の真実の姿を映し出す。
華奢に見える手足?
折れそうな腰?
いいえ、違う。
そこにあるのは、極限まで絞り込まれ、鋼のように鍛え上げられた肉体美だった。
「見て、この上腕三頭筋……」
私は鏡に向かって、ボディビルのポージングをとった。
照明の光を浴びて、白磁の肌の下にある筋肉が美しく隆起する。
一つ一つの筋繊維が、まるで彫刻のように鮮やかに浮かび上がっていた。
ドレスという鎧の下で、ひっそりと、しかし着実に育て上げてきた私の愛しい恋人たち。
「キレてる……! 今日は特に三角筋のハリが良いわ!」
思わず自画自賛の声が漏れる。
今まで、この筋肉を隠すためにどれだけ苦労したことか。
常に猫背気味にして大胸筋の厚みを誤魔化し、歩くときは忍び足を使って大腿四頭筋の躍動を殺す。
魔導具の重りでわざと動きを鈍くし、「か弱い令嬢」を演じてきたのだ。
王太子が「反応が鈍い」と文句を言っていたのも無理はない。
百二十キロの重りを身につけたまま、マナー通りにスープを飲むのがどれほど至難の業か、彼には一生理解できないだろう。
あの優雅なティータイムは、私にとってはインナーマッスルを極限まで酷使するアイソメトリックトレーニングだったのだから。
「でも、もう隠さなくていいのね」
私は床に落ちた重りを、足の指先だけで器用に摘み上げ、放り投げた。
鉄球のような重りが、空中で軽いお手玉のように舞う。
明日からは北の辺境だ。
聞くところによれば、そこは屈強な騎士団ですら音を上げる過酷な土地だという。
巨大なグリズリー、空を裂くワイバーン、そして伝説級の魔獣たちが闊歩する、まさに筋肉のエデン。
王都での生活では、これ以上のバルクアップは望めなかった。
重りによる負荷にも慣れてしまい、筋肉の成長が停滞期に入っていたところだ。
新しい刺激、新しい負荷を、私の筋肉は渇望している。
「待っていなさい、北の大地」
私は窓を大きく開け放ち、北の夜空を見上げた。
冷涼な風が、熱を帯びた肌に心地よく吹き抜ける。
私の瞳には、不安など微塵もない。
あるのは、まだ見ぬ強敵への期待と、さらなる高みへの渇望だけ。
「そして……私の理想のトレーニングパートナーたち!」
私は手近にあった鉄製の燭台を手に取ると、握力測定の要領で力を込めた。
硬い鉄が、まるで粘土のようにグニャリと曲がり、飴細工のようにねじ切れる。
手のひらに残った鉄屑をパラパラと落とし、私は不敵に微笑んだ。
これが、悪役令嬢と呼ばれた私の、念願の「筋肉留学」の始まりだった。




