リエルの場合
《リエル・サナ》
リエルにとって、ミナという少女は最初から少し苦手な存在だった。
もちろん、リエルが心の声を聞けない相手(つまりほとんどの人間)はそもそも苦手なのだが、それを差し引いても、ミナは接しがたい相手であった。
フランのように、笑顔の裏に真の自分を隠しているから、ではない。
ミナの笑顔には、何の他意も、何の裏側も、何の混じり気も感じられなかったからだ。
普通、人が笑顔になる時は、その人の中にある感情が、その人独自のフィルターを通して表出している。
ユーロのように、自分のワクワクを抑え切れなかったり。
クローネのように、相手を安心させようとしたり。
あるいはフランのように、見せてはいけない感情をその裏に隠そうとしたり。
誰もがそれぞれの理由で笑うが、それらの笑顔には必ずその人の人間性、クセがある。
「感情」や「意図」や「伝えたいもの」が、その人の判断を一瞬通して、顔の表情へと変換される。
笑顔はそうした、ひどく複雑で打算的なものなのだ。
だから、リエルは上手く笑えない。
リエルの心を、笑顔に変換するフィルターは、上手く機能していない。
全ての感情を吸収して、どこかへ押し込めてしまう。
笑う必要性も、笑うメリットも、笑う意味も全てが無い環境で生きてきてしまったからだろう。
そうだ、笑顔なんて、メリットが無ければ出てこない。そんなものだ。そのはずだった。
でも、ミナはそのようなフィルターを一切持っていないように見えた。
彼女の笑顔には、「笑顔」以上の意味がいつも存在しないのだ。
楽しい時に、嬉しい時に、笑うべき時に条件反射のように笑う。
そう意図しているのではない。演じているのでもない。それはまるで、生まれたばかりの赤ちゃんの笑顔のようだった。
彼女の笑顔は、純白すぎた。
それが、リエルには、恐ろしかった。
◇
「これは、なに?」
もうすっかり慣れてきた定型文を使って、ミナはユーロに言葉をせがむ。
最近では、目に付く物の名前は一通り聞いたためか、動作や抽象的なものの言い方を習っている。
「それは、『歩く』」
『宿舎』の共用スペースをぐるぐる歩きまわっているミナに、ユーロが教える。
「これは?」
「それは、『走る』」
「これは?」
「それは、『跳ぶ』」
「これは?」
「えっ、それ何の動きだ?」
部屋の中央でクルクル回りながら両腕をひらひらさせているミナ。
答えが思いつかないユーロに代わって、クローネが横から口を挟む。
「『踊る』、かな?」
すると、ミナは二人の前にぴょんと飛び出て、
「おぼえた! あるく、はしる、とぶ、おどる! ユーロ、クローネ、ありがと、です!」
くるくるとそれらの動きを繰り返して見せた。
「ミナちゃん、いつもすぐ覚えるね」
「本当にな」
二人が感心していると、突然ミナはぴたりと立ち止まって、
「あ、ユーロっ」
ユーロの腕を二回引くと、座り込んで手のひらを見せた。
「これは、なに?」
「何って、それは、手のひら……えっ?」
黙って見ていたリエルも、思わず「え」と声を出してしまう。
ミナの手のひらから、小さな炎が浮かび上がったからだ。
たちどころにそれは消え、次に手のひらの上で小さな雷がバチバチと音を立てる。
みるみるうちに、それは小さなつむじ風になり、水滴になり、氷の粒になった。
「あのね、ぜんぶ名前はおぼえたの。ひ、かみなり、かぜ、みず、こおり。でも、このぜんぶは、なに? ぜんぶ作るのは、なんていう?」
ユーロは、しばらく目をしばたかせると、
「それは……スキル、なのか?」
「すきる?」
「スキルっていうのが、俺たち人間が一人ひとつだけ使える、特別な能力なんだ。わかるか?」
「……わかる、かも……わからないかも……」
ミナは記憶喪失だ。自分の名前や、元々使っていた言葉、そして歩き方などの生きるのに必要な記憶は残っているが、自分の過去に関するエピソードを一切覚えていない。だからそれが引っかかって、こういった言葉の説明も理解してもらえないことがある。
「例えば俺のスキルは、『役に立つ物がわかる』こと。そこに転がってる風車や車輪や石は、全部俺のスキルで見つけたものなんだ」
「あ、私のスキルは、『魔獣の言葉がわかる』ことだよ。魔獣は、前に教えたよね」
ミナは真剣な顔でそれらを聞くと、次に、リエルの顔を見た。
期待されている。
リエルは少しためらった。この少女に、自分のスキルを言いたくはない――しかし、結局は少し考えて、言うことにした。
「私は、心の声が聞こえます。私に心を開いている相手なら、誰でも、です」
あえて、それを強調した。
ミナも例外ではない、ということを伝えるために。
「それならワタシの声、きこえてる、ですか?」
リエルは黙って首を振る。
そう、つまりミナは、リエルに心を開いていないのだ。
ところが、
「そう。ココロをひらく。うーん、こう、ですか?」
「え?」
何も聞こえない。何をしようとしている?
「きこえない、ですか? では、こう?」
(リエル、聞こえてる?)
「!!」
(よかった、聞こえたみたいね)
突然ミナの心の声が入り込むようになった。
心に言語という概念は無いのか、やけに流暢な言葉で聞こえる。
「どうした、リエル。ミナの心の声、聞こえたのか?」
「……あ、は、はい」
(嬉しいよ。これなら、言葉が通じなくても、リエルといっぱい話せるんだね)
おかしい。
これが心の声?
これではまるで、普通の会話と同じではないか。
そう、例えば今のユーロのように、
(そうかそうか、ミナも心を開いてくれたんだな。これで皆リエルの声が聞こえるから、戦闘の時はなるべく声を出さなくても……いや、いかんいかん、こうやって誰もかれもを戦闘には巻き込まないって決めたじゃないか。ああやばい、これも聞こえてるよな。リエルごめん、つい戦闘に役立てたくなるけど、こういうのを察して飛び出したりしないでくれ、頼むから、いや本当は嬉しいんだけど、じゃなくて、ああああ)
あるいは今のクローネのように、
(リエルちゃんどうしたんだろう、そんな真剣な顔して。誰かの変な声聞いちゃったのかな。もしかして私、じゃないよね? あれ、あれ、変なこと考えてないよね? リエルちゃんの寝顔可愛かったとかぁぁあって違う! 今! 丸聞こえ! やっぱり私のせいで悩んでるんじゃ、ごめんねごめんねリエルちゃん、嫌われたかな、もう寝顔見せてくれないかも……ってそうじゃない、もうダメぇ)
表層心理といえども制御なんて利かず、平気な顔をしながらもこうやって次から次へと垂れ流しになるものだ。
それとクローネのことはもう慣れているので今更嫌ったりなどしない。ただ今度からは逆向きで寝る決意はしたが。
(リエル? どうしたの? 聞こえてない?)
リエルは首を振った。ミナはにっこり微笑む。
そう、これだ。
笑う時に、何の心の声もしないなんて、有り得ない。
これはただの会話だ。混乱も動揺も出てこない、伝えたいことだけを伝えられる、口での会話となんら変わりが無い。
まさか、リエルに伝えるべき声と伝えない声を制御している?
そんなことが、果たして可能だとは思えないが。
(あのね、まだ言葉が難しいから、どうやって説明したらいいかわからないの。だからお願い、今から言うことをユーロ達に伝えてくれないかな)
「……わかりました」
リエルは納得の行かないものを抱えたまま、頷いた。
「お師匠、クローネお姉ちゃん。今からミナさんの言葉を、伝えます」
◇
私がさっき見せたのは、私の言葉では、『グリム』という名前みたいなの。
記憶が無いから詳しいことはわからないけど。
でも、ユーロが教えてくれたスキルっていうものは、グリムとは少し違うかも。
グリムは、自然界の法則を、少しだけ『使いすぎる』ための技術。
心を読むみたいな難しいことはできない。ほんのちょっと普通以上のことができるだけ。
それに、なんとなく私だけじゃなくて、もっと他の人も使っていたような気がするの。
あと、私の記憶には、『アーツ』っていう言葉がある。きっとそれが、ユーロの教えてくれたスキルと同じものだと思う。
私はどうやら、アーツを使うことはできないみたい。
自分でもよくわかってなくて、ごめんなさい。
◇
「グリム、か……」
全てを聞き終えて、ユーロは深く息をついた。
「これは、ミナの記憶を探す、重要な手がかりになる気がするな」
リエルは不安だった。
ミナは一体、何者なのか。どうして心の声を制御できるのか。どうしてそんなふうに笑えるのか。どうして記憶喪失で不安にならないのか。どうしてユーロの隣に自然にいられるのか。どうして素直に好意を伝えられるのか。どうして。
そこまで考えて、リエルは気付いた。
自分は、本当は、ミナを羨んでいただけだということに。
(リエル、伝えてくれて、ありがとう)
この笑顔は、決して作り物ではない。
心の声を制御できたとしても、その裏で何か別のことを考えていたとしても、この笑顔を作ることはできない。
だから、ミナの好意は、本物だ。
好意を伝える言葉も、本物だ。
心で嘘をつくことはできない。それは、リエルが一番良く知っている。
だから、リエルは少し頑張って、唇を引き結んでみた。
そして、両側の口角を無理やり上げる。
「……また、伝えたい時は、いつでも言ってください」
この笑顔に、メリットはないとしても。
心がそうしたいと願ったから。




