第32話 ヘイストは、まだ解かない
「樫村さん伊織のアーケインを外して、俺にヘイストかけてください」
朔が樫村に向かって叫ぶと、樫村は確認するようにじっと朔を見つめたが、言われた通りにした。
《迅速付与》
朔の体が緑色の薄い光に包まれる。
そこに怒り狂ったトロルが棍棒を振るう。後ろに飛んだ朔だったが、着地の瞬間よろめき倒れそうになる。
それをみて眉根を寄せる樫村。
バランスを立て直した朔は、間合いを詰める為に地面を蹴る。ナイフを振ろうとする朔だが、今度は距離が近すぎてぶつかりそうになる。
慌ててブレーキをかけて横に飛ぶ朔。再び着地の瞬間に体がブレる。
「ヘイスト、解きますか!」
樫村が珍しく大きな声を上げた。
朔はすぐに首を横に振り「もう少し待ってください」とだけ言って、じっとトロルを見据える。
「どうしたんや、朔。様子おかしいぞ」
「ヘイストかけるなんて無茶ですよ。オリンピック選手でもないんですから」
成瀬がそう言って、追撃をかけようとするトロルの肩にマジックボルトを当てる。
「間に合わせます」
自分が思っていた以上に体の動きが速く、脳がついていけない。ブレーキがうまく作用しない。それなら……。
朔はゆっくりと横に移動する。今の眼の前には堂本がいて朔を庇っている。しかし、今の朔は盾を必要としてなかった。
堂本が正面から外れたことを確認して地面を蹴る朔。視界がブレ視野が狭まる。その視界の片隅で、トロルが棍棒を振り上げたのがかろうじて見えた。
しかし、朔は止まらない。そのまま前に進み、いつもより少し早いタイミングを意識してナイフを振ると同時にフォースタップを目に向かって放つ。
「グッ」
目には当たらず、鼻に当たったフォースタップは、一瞬だけトロルの動作を遅らせる。ガツン。朔のナイフが足の肉を切り骨に当たる。
止まらない。
その衝撃でナイフを手放しそうになるが、ナイフをぐっと握り直して、どうにかこらえて、棍棒を振り下ろすトロルの横をすり抜ける。勢いのままバランスを崩し、そのまま転びそうになりながら、どうにか止まって体勢を立て直す。
「朔!」
堂本の声が聞こえる。
「大丈夫です!」
返事をしながら、朔はすぐにトロルへと向き直った。
思うように体を制御できないし、動く体に視界が上手く対応できず相手の動きがハッキリ見えない。……それでも攻撃は入る。
トロルが朔の方を睨みつける。
堂本が盾の横から剣を伸ばしてトロルの太ももを刺す。
「俺も主役や、忘れんな」
叫んで自分の方に注意を向ける堂本。
トロルは小さく呻いた後、堂本に棍棒を振り下ろす。
その姿を確認した朔は、すかさず地面を蹴った。
ガッ。
刃がトロルの脇腹を浅く切り裂く。
「グオッ!」
朔はそのままトロルの横を通り抜け、今度は早めに速度を落として、最初のブレーキを弱めにかける。数歩よろめきながらも、今度は大きくバランスを崩さなかった。
「多分……いける」
朔は小さく呟く。
完全に扱えているわけじゃないし、相変わらず速すぎる。それでもさっきよりはマシだった。だが、まだ視界と体が合わない。
「来ました!」
成瀬が声を張り上げた。
朔が視線を向けると、20メートルくらい先のところに棍棒を持ったトロルが、こちらに向かってゆっくり歩いてきている。
もう一撃。そう思った。と同時に、朔の体が動いていた。
向かってくる朔に棍棒を振り上げる、傷ついたトロル。
集中してきたせいか、今度は視界のブレが少なくなってきている気がする。
トロルの目に向かってフォースタップを放つ、それが直撃して振り上げた棍棒がとまる。
その横を駆け抜けながら、朔はトロルの太腿へナイフを走らせた。深くは入らないが、確実に肉を裂き、そのまま通り過ぎる。
数歩。
さらに数歩。
朔は足を広げて速度を殺し、今度はほとんどよろめくことなく止まった。
「はっ……はっ……」
息が荒れる。いくら身体が速く動いても、体力まで無尽蔵になるわけではない。
短い距離とはいえ、全力で何度も地面を蹴ったせいで、胸が激しく上下している。
朔は息を整えるために、自分に《サイレントヒール》を使った。熱を持っていた脚から少しずつ重さが抜け、張りつめていた胸の苦しさも和らいでいく。
その間に眼の前のトロルの様子をみる。何度も切りつけられて、あちらこちらから出血している。はじめは攻撃してきた朔に怒りの眼差しを向けてきていたが、その圧も衰えているように感じられる。
「ふぅ……」
大きく息を吐く。完全に疲れが消えたわけではない。
それでも、先ほどまで肺を締めつけていたような息苦しさはなくなっていた。
朔は呼吸を二度、三度と繰り返す。もう息は乱れていない。
「堂本さんこいつは頼みます。伊織は援護と樫村さんを、樫村さんは引き続き付与をお願いします」
朔はこちらに向かってくる無傷のトロルを見ながらいった。
「何言うてるんや、それやったらあっちは俺が止めるから、お前はこいつにトドメさせ」
堂本の言っていることは正しい。傷ついたこいつを先に倒して、それから全員でもう一匹を相手にする。
考えるまでもなく、それが一番安全だ。
……なのに。
朔の目は、こちらへ向かってくる無傷のトロルを追っていた。
胸の奥がざわつく。さっきまで、まともに扱えなかった身体。
速すぎて見えず、止まることさえ満足にできなかった。
でも、少しずつ修正できてきている。
この次は、もっと……。
そう思った途端、弱ったトロルへの興味が急に薄れた。
危ないことくらい、わかっている。今ここで立ち止まったら、もう一度この位置には戻れないかもしれない。そんな言い訳が朔の頭に浮かんで消えた。
この位置に戻りたいんじゃない。
……行き先はその先だ。
「堂本さん。俺いきます」
朔はコンバットナイフを握り直した。




