第1話 知り合いのいないパーティー会場で
女がまぶたを開くと、そこはパーティー会場でした。
場の雰囲気は、まさに絢爛そのもの。
金属のワイングラス片手に談笑する貴族と、よどみなく給仕をこなす使用人たち。優雅かつ上品な空気が流れています。
そんな空間にいながらも、女は無遠慮に小首を傾げました。
――みんな、誰?
彼女はヒントを求めるように周囲を見渡します。
――あれって……?
目に留まったのは、アンティーク調のテーブルでした。銀の皿の上に並ぶ料理は、見慣れないものばかり。ウロコのついたしっぽ肉や、紫と金色の混じったシチュー。果てには人より大きな魚のカブト焼きなんてものまで。
とっさに天井を見上げると、電灯はひとつもありませんでした。
広間を照らしている灯りは、もっと柔らかくて小さい光――ロウソクやランタンばかりです。
女の脳内はハテナマークで埋め尽くされ、眉間の皺が濃くなっていきました。
――日本……じゃないよね? 私はどうしてこんなところにいるの?
彼女は必死に頭を回して、自分の記憶を遡っていきます。
そしてすぐに目を大きく見開き、息を呑みました。
――あれ? 私の名前……なんだっけ。
女は頭を振って、もう一度意識を集中させます。
しかし結果は同じ。自分の名前は一文字も思い浮かびません。
――小さい出版社でライターをしていたのは……うん、間違いない。それなのに……。
その時です。
突然、頭に激痛が走りました。
針で刺されたような痛み、なんてものではありません。まるで編み針で脳をかき回されるような苦痛で、女は奥歯を強く食いしばりました。
――なんなの、一体っ!
追い打ちをかけるように、耳鳴りが響きました。
最初は蚊の羽音みたいに小さいものでしたが、どんどんと大きくなり、やがてスピーカーのような爆音へと変わっていきます。
そして、前触れもなく、ふっと消えました。
自分の息すらも聞こえない、静寂。
頭の痛みが消えて、体の感覚もない。
まるでオーケストラの演奏がはじまる一秒前のよう。
《《《消えろよ》》》
無音を破ったのは、男の声でした。
《《《このブス。もう顔も見たくねえんだよ》》》
女が恐る恐る目を開けると、そこは、さきほどのパーティー会場ではありませんでした。
日本のマンション。その一室。
眼前には金髪の男が立っていて、手には包丁が握られていました。
……血がべっとりとついた包丁が。
床には紅い液体が湖のように広がっています。その元をたどっていくと、女のわき腹がパックリと開いていました。
《《《もう。早く終わらせてよ。私、飽きちゃった》》》
男の背後にいた女性が、顔を出しました。
女よりも若くてキレイで、そしてヘビじみた笑みを浮かべています。
《《《待ってくれ。もう少しで終わるから》》》
男がゴミ捨て場に向かうような気だるい足取りで、女へと近寄ります。
一歩。
一歩。
一歩。
男が目の前に迫ると、女の視界がかすみ、体が自然と倒れ込みました。
彼女の目に映るのは、生ぬるい朱色だけ。
ずっとずっと、自分を生かし続けてくれた、命の液体。
ああ。もったいない。
そう呟きながら舌を伸ばし、舐めとった時でした。
まるで血の池に溺れたように視界が暗くなっていきます。
そして次に目を開けた時に広がっていたのは、キラキラと輝くパーティー会場。戻ってきたのです。若い男女が演奏に合わせて、ワルツを踊りはじめていました。
――さっきのは……。
女は震える指先で、自分のお腹に触れました。
濡れてもいないし、切れてもいない。
しかし心臓は痛いほどに高鳴ったままで、今度は胸を強く押さえつけました。
――そっか。私は死んだんだ。あいつに裏切られて……。でも、じゃあ、なんで生きてるの?
答えを探して周囲を見渡すと、目の前に皿が置かれていました。
かぐわしい匂いに誘われて覗き込むと、中身はガラスのように澄んだスープ。そしてその水面には、女の顔がぼんやりと写っており、口をポカンと開けていました。
――誰、これ。私じゃない。……ううん、生まれ変わった私ってこと?
ブロンドヘアの少女。
お人形みたいな整った顔の作りをしています。しかし、クリクリとした瞳がフクロウのように愛らしく、馴染みやすい印象を与えていました。
――ははは……信じられない。かわいすぎるでしょ。夢じゃないの?
女が困惑していると、突然歓声がわき起こりました。
顔を上げると、観衆たちの真ん中にいたのは、演奏中のオーケストラ。
指揮者が手に持った棒を天高くかざした瞬間、歓声はより一層激しくなりました。指揮棒の先端から、ルビーのように輝く火球が噴き出したのです。それらは蝶の形へと羽化して、ノスタルジックな音楽に合わせながら会場を飛び回りました。
その中の一匹が眼前の皿に舞い降りた光景を見て、女は吸い寄せられるように指先で触れてしまいます。
――ほんのり温かい。
何度かつついていると、蝶は怒ったように女の鼻先まで飛んで、小さな打ち上げ花火のように弾けました。
目を丸くして呆然とする女でしたが、徐々に彼女の頬が紅潮して、瞳が輝いていきます。
明らかにARやVRじゃない。
現実で、現実とは思えないことが起きている。
魔法だ。
今のは魔法なんだ。
――私、異世界にいるんだ!
パチパチパチパチ。
会場中に拍手が鳴り響く中、女はふと気づきました。ひとりの青年が近づいてきていることに。
「ルヴナン。ごめんね、ひとりにしてしまって」
彼の容姿に、女は瞬きも忘れました。
よく磨かれた大理石のように艶やかな肌に、薔薇のように赤い髪。所作のひとつひとつが洗練されており、一目見るだけでも身分の高さがうかがい知れます。
しばらく呆気にとられる女でしたが、すぐに自分が話しかけられたのだと察して「えっと」と声を漏らしました。
――ルヴナンって、私……?
「大丈夫? ちょっと無理させちゃったかな?」
あまりにも自然に顔をのぞき込まれて、女は思わずのけぞってしまいました。
――この体の恋人、なのかな?
女はとっさに作り笑顔を浮かべて、とにかく口を開きます。
「ご、ごめんなさい。ちょっとボーッとしてしまって……。えっと……」
言葉に詰まる女を見て、青年は寂しそうに眉を下げました。
「まだ記憶がはっきりしていないんだね? 僕はキャダバー・カタヴル。君の……その、旦那さんなんだ」
青年――キャダバーは頬を赤らめながらも、女の瞳を真っすぐと見つめて言い切りました。
「……旦那さん」
「そう。まだ新婚だけどね。今日は君のお披露目パーティーなんだ」
旦那さん……旦那さん……旦那さん……。
女の耳には、何度も反響して聞こえました。
――前世でも結婚したことなかったのに……。
女は青年の顔をマジマジと観察します。
――かわいい人だ。でも、タイプじゃないなぁ。もっとワイルドだったらよかったのに。
見つめ続けたせいで、ふたりの目が、ふいに合ってしまいました。キャダバーが頬を緩めて笑いかけると、女は顔をつい背けてしまいます。
――まあ、でも、及第点かも。
そんな女の気持ちを知ってか知らずか、キャダバーの口元がさらに緩みました。
「一緒に踊ってくれませんか? ルヴナン・カタヴル」
「え、ええ。もちろん」
純白の手袋をはめた手を差し出されて、女はその手を取りました。
「ありがとう。ルヴナン」
そして引っ張られた刹那、女の体がガクリとつんのめりました。
まるでハイヒールが折れたような感覚でしたが、彼女はなんとか体勢を持ち直します。
そして、言葉を失いました。
「……え?」
青年の手には、たしかに女の腕が握られています。
しかし、手から肘まで。それだけしか握られていませんでした。
「……とれ……てる……?」
自分の目が信じられないとばかりに瞬きを繰り返した女は、自分の腕の断面を前に、息を呑むしかありませんでした。
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