第5話 夜明け
彼のいびきは、途切れることなく続いている。
規則正しいその音を聞きながら、私はソファの前に立ったままだった。
時計を見る。
午前二時を少し過ぎている。
昔は、この時間になると不安だった。
帰ってこないことが怖かった。
嫌われることの方が、もっと怖かった。
でも今は少し違う。
怖いというより、静かだった。
私は毛布を彼の肩まで引き上げる。
その瞬間、甘い香りがまた微かにした。
知らない匂いだった。
私は手を止めた。
問い詰めようとは思わなかった。
スマホを見ようとも思わなかった。
たぶん、知ったところで何も変わらない。
それよりも、気づいてしまったことの方が大きかった。
私はずっと、彼の言葉だけを信じてきた。
「しつこい」
「暗い」
「ゴキブリみたい」
繰り返されるうちに、それはいつの間にか私自身になっていた。
でも、本当にそうだったのだろうか。
私はゆっくりソファから離れ、消えかけたテレビを消した。
部屋が静かになる。
その静けさの中で、初めて自分の呼吸が聞こえた気がした。
奥の部屋では、子どもが寝返りを打つ小さな音がする。
私はその音を聞きながら、壁にもたれた。
そしてふと思う。
私は前みたいに笑えるだろうか。
息を吸うたび、胸の奥が少しだけ重かった。
カラスの泣き声が微かにきこえる。
朝が来る。
昨日と同じ朝のはずなのに、何かだけが静かに変わっていた。
彼はまだ眠っている。




