第4話 甘い香り
彼はいつもより帰りが遅かった。
時計の針が一周しても、家の中は静かなままだった。
子どもはもう寝ている。
私はリビングの明かりだけをつけて、スマホを何度も見ていた。
既読のつかない画面。
それだけが、部屋の中で浮いている。
深夜になりようやく玄関の音がした。
ガチャ。
「ただいま」
いつもと同じ声。
少し甘い香りがした。
「おかえり」
そう返すと、彼は靴を脱ぎながらスマホを見た。
「こんな遅くまで起きてたん?」
「ちょっと遅くなっただけやん」
誰に言うでもない、独り言みたいだった。
「連絡ぐらいしてや」
その言葉に、彼は大きくため息をついた。
「帰ってきてるねんからええやん」
「結婚して子どももおるねんから、束縛みたいなんやめて」
「ほんまにしつこいし、しぶとい女やな」
少し間が空いてから、彼は笑った。
「ゴキブリやん」
私は何も言い返せなかった。
彼はそのままソファに座ると、すぐに目を閉じた。
数分もしないうちに、いびきが聞こえ始める。
規則正しい呼吸。
まるで何もなかったみたいな静けさだった。
私は毛布をかける手を止めたまま、立っていた。
暗闇の中で、その音だけが続いている。
その音を聞きながら、ふと気づいた。
私はいつからか、この人の言葉に違和感を覚えるようになった。
ゴキブリ。
その言葉だけが、静かな部屋の中で何度も繰り返されていた。彼のいびきは、途切れることなく続いている。




