第156話 人魚族のソラナ
私がマリアと初めて出会ったのは、風もなく穏やかな天気の日だった。
私と同じくらいの背丈がある人間族の女の子は、この岩礁に座って海の中を覗き込んでいた。
「うわああ!」
目の前を泳いでいる小魚に手を伸ばそうとした少女は、体勢を崩してそのまま海の中に落ちてしまったのだ。
人間族の子供は、海で溺れて死ぬこともある。母様にそう聞いていた私は、この子が死んでしまうのではないかと心配になり、近くまで泳いで手を伸ばした。
「うわっぷ! うわっぷ!」
案の定、彼女は泳げなかった。
私の頭を抑え込んで、必死に水面に顔を出そうともがいている。
「抱えてあげるから、もう大丈夫だよ!」
「ゴホッ! ハアハアハア!」
私が手を貸してあげて尾びれで水を蹴ると、私たちの身体は胸から上を水面から出した状態になる。
彼女はもう息が楽にできると分かって安心したのだろう。私の顔をまじまじと見つめて疑問を口にした。
「何であなたは、水の中で平気なの?」
「私は生まれてからずっと、水の中で暮らしているからよ」
私にとって当たり前の事、それを彼女は聞いてきたのだ。では、私も彼女に対して聞いてみよう。
「何であなたは、陸の上で平気なの?」
「えっ? 私は生まれてからずっと、陸の上で暮らしているんだもん」
それから私たちは、なぜかその会話がおかしくなって笑い合った。
彼女には足がある。でも私には足が無い代わりに尾びれがある。
それぞれに違う世界で生きているのに、彼女とは話をしていて安心できたし楽しかった。
彼女は名前をマリアと言った。私に初めて人間族の友達ができた日だった。
それから10年間、私たちはここで長い時間話をした。時にはこの海で、一緒に潜って貝を獲ったり海藻を集めたりして遊んだ。
私も逢う日を楽しみにしたし、彼女もここによく来た。
ある日、マリアが『私、エクストラヒールが出来るようになったのよ』と私に言った。
「エクストラヒール?」
「そう、無くなった腕や足を元通りに回復させる魔法だよ」
それがどういう意味なのか、その時には分からなかった。
「ソラナは足が無いから、陸の上で歩くことが出来ないでしょう?」
「うん、歩けないわ」
「でもね、エクストラヒールでソラナにも足を生やすことが出来るらしいんだ!」
「私に足を?」
私に足を生やすという意味が分からなかった。
ずっと海の中で不自由なく暮らしてきたのに、足を生やしてまで陸上に上がりたいとは思わなかったのだ。
「私はソラナのいる海を泳ぐ事も出来るようになって、海の中の遊びが楽しかったわ。今度はソラナに私たちのいる陸上に来てもらって、私たちの遊びも体験してもらいたいの」
そうか……マリアは私にも海と陸の両方の楽しみを分かち合いたいと思っていたのね。私だけ海の中の事しか知らなかったから。
そんなマリアの優しさは、私の胸を温かくした。
マリアから色んな話を聞いているうちに、とうとう私も陸上を歩いてみたくなった。
「マリアのエクストラヒールで、私の足が生えるのね」
「そうだよ」
「じゃあ、お願いしようかな」
「うん、分かった」
マリアは失敗しないようにと一度大きく深呼吸をして、私に魔法をかけた。彼女の心を覗くと、私に足がある姿を強く思い浮かべていることが分かった。そしてそれは成功した。
エクストラヒールで足が生えると、それまであった尾びれは小さくなって消えていった。でもそれは1日ほど経つと元に戻ってしまうのだという。
「最初はうまく歩けないかもしれないわね」
マリアはそう言ったが、不思議な事に私の足は最初から無理なく“歩行”をすることができた。
あとでマリアのお父さんに聞いた話では、人魚族には遠い昔に陸上で歩いていたころの記憶があるからだとのこと。
「ここがマリアのお家ね」
「ようこそいらっしゃいました、ソラナ」
大きな家に住んでいるのだなと感心していると、この家は本当の家ではないと彼女は言った。
なんでも、“別荘”とかいう2つ目の家だというのだ。
人間族は何で家を2つも持つ必要があるのだろう?
「分かったわ、敵が攻めてきた場合の備えなのね」
「うーん? 分かんない」
マリアは分かんないらしいが、多分そうなのだろう。
そして3回目の訪問の際に、私はマリアの弟さんに出会ったのだった。
◇◆◇
ある日マリアは『お嫁に行くことになった』と、私とお別れしなければならないと、そう言って顔を曇らせた。
私たち人魚族の一生は人間族のそれより3倍くらい長い。マリアがもうお嫁に行く年頃だったのだと初めて気づいた自分が情けなかった。
(私にまだまだ先の事だよね)
「ねえ、マリアとはもう逢えないの?」
「暫くは無理かもしれない……でもいつかきっと逢えるわ。その時にはソラナと初めて出会ったこの岩の上で、ソラナを呼ぶから」
「私も、マリアがここに来るのを毎日待つわね」
あれから20年経っても、マリアは戻って来なかった。
でも昨日、突然マリアがあの岩の上で、初めて出会った思い出の場所で、海を眺めていたのだ!
彼女を見た瞬間に、私は嬉しさを抑えることが出来ずに彼女に飛びついてしまった!
「マリア! マリア! マリアー!」
私が頬ずりしている女の子は、紛れもなく分かれた時と同じ姿のマリアだった。
そう、マリアの筈だ。でも……何かおかしい……。
「うわっぷ! うわっぷ!」
マリアが初めて海に落ちた時と同じように、息が出来なくて慌てている。
どうして? 人間族って何十年も経つと泳ぎを忘れてしまうのかしら?
「その人はエミリー、泳げないから!」
すぐに、傍にいた人間族の男の人がそう言った。
えっ?! マリアじゃないの?
本当だ……嘘じゃない。彼の心の中は、とてもよく把握できて不思議だった。
それから私は、この世にもうマリアがいないのだという悲しい現実を読み取ってしまった。
『いつかきっと逢えるわ』と言ったマリアにはもう逢えないけれど、このエミリーという彼女の娘さんを見ていると、まるでマリアがそこにいるかのような錯覚をする。
あれから私も少しは大人になった。
マリアが大人になるのは早かったけれど、やっとまた私と同じ年代の彼女に巡り合うことが出来た。
マリアが言っていた『いつかきっと』は嘘ではなかったと気づいた。
「ソラナさーん、いますかーー?」
そんなことを考えている時、岩礁の上方から私を呼ぶ声が聞こえてきた。
マリア、いや、エミリーさんと一緒に来ていた男の人だ。
私に何の用事だろう? と首をひねりながら水面から顔を出した。
「うぉ! ああ、良かったソラナさん」
彼の心を読むと、本当にびっくりしたようだ。今度から音もなく水面に顔を出すのはやめよう。
「えーっとですね、エミリー、マリアさんの娘のエミリーは今、エクストラヒールの訓練中でして、習得までにあと2~3日ほどかかるらしいのです。それを伝えに来ました」
やはり、マリアと同じくエクストラヒールが出来るようになるのだ。という事は彼女も私の足を生やすことが出来るようになるのよね。
「私のために、エクストラヒールを訓練しているのね」
「うーん、彼女は貴女のためというよりも、あなたも含めたみんなのためにエクストラヒールを覚えようとしているんだと思いますよ」
そうだったわ、マリアもそんな考え方をする子だった。
彼が口にした言葉とは別に、彼の心の中には勘違いをした私に対する思いやりが感じられた。
それにしても、彼の心の中はすんなりと入れて把握がしやすい。
人によっては心の中が読める人と読めない人とがいるけれど、彼の心の中は私にとってかなり相性がいいみたい。
彼の名前は、アルフレッド・ノーマウント。この国の伯爵という立場の貴族様だった。でも、貴族らしくない気さくな人柄に、いつしか私は興味を抱いていた。
それから、彼としばらく話をしていたら、彼のずっと昔の記憶までもが見えてきた。
なぜか彼には遠い別の世界で生きてきた記憶がある。
そして、その世界で生きた30年ほどの知識と経験が、この国の政治や経済、国家元首として必要な様々な要素をほぼ満足している事に気付いてしまった。
そしてマリアの子、エミリーさんは今、いろんな人達から王女様になって欲しいと捲し立てられている。
でも彼女には難しい。そんな教育なんて微塵も受けていないのだから。
「ねえ、アルフレッドさん?」
「何ですか? ソラナさん」
「あなたが、この国の国王になってください」




