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鏡花水月  作者: 安達夷三郎
第四章、闇に佇む者
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13話

私達は湾岸沿いの高い建物に訪れた。

軍部には四つの掟がある。

一、上官に従うこと。

二、報連相を怠らないこと。

三、組織を裏切らないこと。

四、受けた攻撃はそれ以上にして返すこと。

その順番はそのまま、重要度の順でもある。

だからその日、私がカフェラテを淹れている最中にかつての上官から連絡が掛かってきた時は、あやうく口にくわえていたパンを落としそうになった。

正式に退役届を出して軍を抜けているとはいえ、数年も音沙汰のなかった上官からの直接の呼び出し。戦場で何度もお世話になった恩師からの頼みを断るという選択肢など最初から存在しなかった。

地球から母星まで行くには、どれほど急いでも半日くらいはかかってしまう。私は心を落ち着かせるようにゆっくりと身支度を整え、家を出た。

✳✳✳

そして今、軍に残ったかつての戦友達の物珍しそうな視線を浴びながら久々の挨拶を済ませ、最上階直行のエレベーターに乗っている。

「何だか、この冷たい空気、久しぶりだね」

エレベーターが音もなく上昇していく中、桃李が居心地悪そうにジャージの襟元を引っ張った。

隣に立つ重治は、いつも以上に背筋を伸ばし、かつて軍服を纏っていた頃のような冷徹な目つきに戻っている。

「覚悟はできているな。数年ぶりの招集だ、ただの思い出話であるはずがない」

「分かってる……」

チーン、と静かな電子音が響き、最上階の重厚な扉が開く。

深紅の長いカーペットが敷かれ、戦車でも突破できないような壁に囲まれた湾岸エリアを一望できる総督府直轄の特別会議室。

そして窓を背にして立っていたのは、数年前と変わらない、どこか苦労性の滲み出た懐かしい上官の姿だった。

「……よく来てくれた。急な呼び出しを許してほしい」

上官の声は、かつて戦場で聞いた時よりも、どこかひどく疲弊しているように聞こえた。

「上官も元気そうで、娘さんは元気ですか?」

私がそんなふうに尋ねると、上官は相好を崩して少し照れくさそうに笑った。

「ああ。今日は娘がお弁当を作ってくれたんだ」

「さすが、嫁と娘大好き上官」

桃李のからかうような言葉に、重治がすかさず冷ややかな視線を向けながら口を挟む。

「惚気話には付き合いませんよ」

「手厳しいな」

挨拶もそこそこに、上官は机の上に一枚のホログラム端末を起動させる。

「魔都と呼ばれる地区は知ってるか?」

「はい。確か、どちらの法も届かない場所だとか」

重治の言葉に、上官は無言で頷きながらホログラムを操作した。光の中に浮かび上がったのは、魔都の中心街にあるカジノの無残な残骸の写真だった。

「防犯カメラやセンサー類は全て事前に細工され、壊されていた。残念ながら、犯人の明確な人相風体は映っていない」

上官はふう、と重い息を吐き出し、私達を見つめた。

「お前達はかつて戦場でとても活躍してくれた第一部隊だ。本当は平八も召集したかったんだが、通信を繋げた瞬間に挨拶もそこそこに切られてしまってな」

「そう、ですか……」

重治が表情を変えずに相槌を打ち、桃李は気まずそうに視線を泳がせた。

上官のその言葉で、私たちは一つの確信を得ると同時に、喉の奥がカラカラに乾いていくのを感じていた。

上官は、自分の教え子がテロリストとして国を揺るがしているなんて、微塵も思っていない。

ただ、かつて最も信頼し、数々の無茶な戦局をひっくり返してきた私達の部隊―――第一部隊の力を、この国家的危機において純粋に頼ろうとしているのだ。その中には当然、切り込み隊長だった平八の戦力も含まれている。

「あいつめ、通信を繋いだ瞬間『今忙しい、オッサンの惚気話には付き合わん』とだけ言って一方的に切りやがった。まったく、誰に似てあんなに口が悪くなったんだか」

「あ、あはは、あいつらしいっていうか、相変わらずマイペースっていうか……」

桃李が引きつった笑みを浮かべ、必死に話を合わせる。その横顔には大量の冷や汗がにじんでいた。

「まぁ、あいつの生存確認が取れただけでも収穫だ。今はそれどころじゃないからな」

上官は小さく首を振り、ホログラムの画面を切り替えた。そこに映し出されたのは、魔都の入り組んだ立体地図と、いくつかの赤く点滅する監視網のデータだった。

「本題に入ろう。今回、公式に軍を退役したお前達を呼んだのは、軍の正規ルートでは動けない作戦だからだ。魔都に潜む『犯人』は、総督府の警備システムや軍の動向を完全に熟知している。正面から部隊を突入させれば、拉致された被害者の命はないだろう」

上官はそう言うと、机に両手をついて私達の目を真っ直ぐに見つめた。

「拉致された幹部の安否、そして犯人の足取りを掴んでくれ。もし今も平八と連絡を取り合っているのなら、このことを伝えてくれ。あいつの戦闘力ならこれ以上ない味方になる。もちろん、お前達四人は軍を抜けた身、リスクが高すぎる、断ってもらっても一向に構わない」

上官はそこで一度言葉を詰まらせ、ふっと視線を床に落とした。その肩がわずかに震える。

「いや、僕個人としてはむしろ断ってほしい」

「え……?」

上官の口から出た予想外の言葉に、私は思わず小さく声を漏らしてしまった。桃李も目を見張り、重治の眉がわずかに動く。

上官は机についた手にじわりと力を込め、苦しげに視線を落とした。その背中は、かつて戦場で私たちの不条理な突撃を必死にカバーしてくれていた時と同じ、どうしようもないほどの優しさに満ちていた。

「建前としては、最も信頼できるお前達に極秘任務を依頼した。だが……これは元上官としてではなく、お前達をあの戦場に送り出してしまった一人の大人としての本音だ。もうこんな血臭い世界に関わらず、どうか穏やかに、幸せに暮らしてほしい。お前達は、まだ人生をやり直せるから」

上官はそこで一度言葉を切り、どこか切ない笑みを浮かべた。

「すまんな。矛盾したことを言って」

上官なりの、最大限の優しさであり、私達を二度と戦場へ戻さないための不器用な壁だった。

私達の間に数分の沈黙が生まれる。

「……お気遣い、感謝いたします」

沈黙を破ったのは重治だった。彼はつんと背筋を伸ばしたまま、深く、静かに一礼した。

「重治、お前……」

「失礼します」

重治はそれ以上上官に何も言わせないように、踵を返して歩き出しました。私と桃李も、上官の切なげな表情を背中に受けながら、その後に続く。

最上階の重厚な扉が閉まり、エレベーターが下行を始めた瞬間、桃李が壁に頭を打ち付けた。

「あー、もう!クソ、上官が優しすぎるのが一番キツいわ!平八が犯人だなんて一ミリも疑ってないのに、俺達のことを心配して……!」

「で、受けるの?」

私の問いかけに、重治は前を見据えたまま即答した。

「もちろん、受けない」

軍の公式な依頼として動けば、私達は『軍の駒』として平八を追うことになる。もし平八が本当にこの事件の犯人だった場合、軍人として関われば、最終的に待っているのは法の名の下での殺し合いだ。そんな結末は、ここにいる誰も望んでいない。

だから、重治の『受けない』という言葉が、私には何よりも嬉しかった。

「公式の任務としては拒絶。だが、元第一部隊のプライベートな身辺整理として、俺達で平八を見つけ出し、事の真相を問い詰め、もし本当にトチ狂っているなら……俺達の手でぶん殴ってでも連れ戻す。軍に引き渡すためではなく、あの人の前で頭を下げさせるために、だ」

その言葉を聞いた瞬間、桃李の顔から焦燥感が消え、いつものいたずらっぽい笑みが戻る。彼は首の後ろで両手を組み、ニヤニヤして言った。

「俺は賛成。やっぱそうこなくちゃな」

「私も」

「よし、決まったな。今日は宿で寝るか。地球に帰った頃には、どうせ日付をまたいでいるだろうからな」

重治がそう締めくくると、エレベーターは静かに一階へと滑り込む。

私達は建物を後にした。

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