11.逃避行の始まり
失敗の予感が、ゲルシュニッヅを貫いた。彼はピッポ・ポップスの心を、過小評価しすぎていたのだった。
「やはり、ペレンの子孫だ……奴を追わなくては。」
ゲルシュニッヅはラプターを呼び寄せた。間もなく恐ろしい獣が唸りながら、丘の元にやってきた。
ラプターとは、魔王がゼズノゴールで育てている太古の猛獣の呼び名である。どのような魔術を使ったのかは誰にもわからないが、どんな生物にも勝る、恐るべきどう猛さを以て誕生し、そして人間を喰らって成長する。今回の任務にあたってそのうちの三頭が解き放たれ、パタフルへ向かう三人の子の恐るべき足として、使役されているのだった。
ゲルシュニッヅはラプターの背に飛び乗ると、直ちに手綱をつかみ、鞭をふるった。ラプターは闇をつんざく鋭い雄叫びをあげると、俊敏な動きで、たちまちのうちに森へ入っていった。
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ピッポはさっき自分が通った道を、全速力で走っていた。彼の頭は疲れていたが、やるべきことはわかっていた。まずエレンの家へ向かわなくてはならなかった、もう手遅れかもしれないが。そして可能ならば、一度自分の家に戻らなくてはならない。彼は手ぶらだった、宣言通り旅に出るならば、水や食料は必須だ。
「ペップたちに別れを告げる時間はなさそうだなあ。話したとして、いったい誰が理解してくれるというのだろう」
ピッポはこう思った。おそらく彼らとは二度と会えないだろう、とピッポには思われた。なんて大きく、重く、とんでもない選択をしてしまったのだろう……ピッポはそう感じざるを得なかった。
間もなく後ろから何かが走ってくる音がしてきた。ゲルシュニッヅに違いない!ピッポはすぐに道を外れ、深い茂みの方に隠れた。間もなくゲルシュニッヅの騎乗するラプターの醜く、恐ろしい姿が見えてきた。悪魔の形相をしていて、口からは鋭い牙がのぞいている。魔王の子の乗り物をみるのは初めてだ。まるで図鑑に出てくる恐竜のようだ、とピッポは思った。
ピッポの隠れる木の目の前で、ゲルシュニッヅが手綱をひいた。ラプターが停止する。ピッポは恐怖に怯えながらも、必死で息をこらえた。ゲルシュニッヅはゆっくりと、左右を見渡した。ラプターが苛立たしげに、かぎ爪をカチカチと鳴らす。ピッポは大きな木の裏に隠れていたので、向こうが道を外れない限り、見つかるはずはない。しかしなぜか、もうばれているのではないかとの疑念がよぎった。むしろ諦めて、道に戻ろう、ゲルシュニッヅの前に姿を現そうという考えまでが出てきた。ピッポの足が勝手に動き始めた。
しかし、ピッポは今までのような、弱い男ではなかった。彼はすぐに気づいた。これはゲルシュニッヅの罠だ。いつものように魔術を用い、人の心を操るつもりなのだ。ピッポは目を閉じた。あまりにもいろいろなことがあったので疲れていたが、不思議と頭の中は澄んでいる。ピッポは邪念を取り払えるよう、強く念じた。念じ続けた。
間もなく追手は手綱をふるい、ピッポから遠ざかっていった。何とか窮地を切り抜けられたようだ。ピッポは目を開き、息を吐くと、どうすべきか考えた。道に戻れば、あの十字路を一度左に曲がるだけで、迷うことなくエレンの家に到着できる。しかし道は広く、障害物もない。魔王の子にいつ見つかってしまうかわからない。
「森の中を進んで、エレンの家までいくしかないな」
ピッポはこう考え、森の中へと入っていった。
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「最近のピッポはどうもおかしい。やっぱりあの話について考えてる……」
ペップは思った。
<樽々亭>では大宴会が開かれ、皆酔っぱらって騒いでいた。演奏隊が『パタフル讃歌』のメロディを奏で、その中心でパンクが演奏に合わせ、情熱的な踊りを披露している。その一方、いつも輪の中心にいるペップが一人で考えていたので、皆は不思議がった。いくら何でも帰りが遅すぎるピッポのことも、話題に上がっていた。
大きな拍手が起こった。『パタフル讃歌』の演奏が終わったのだ。
「ペップ、何を考えているんだい、ピッポのことかい?」
踊りを終えたパンクがペップの卓に歩いてきて、尋ねた。ペップは顔を上げ、軽く頷いた。
「ピッポなら大丈夫さ。そろそろ戻ってくるに違いないよ。さあ歌おう」
「そうさ。ペップ!またパタフル讃歌歌ってくれや!」
「聞かしてくれい」
酔っぱらった者たちが、口々に叫ぶ。皆も賛同し、ペップ・コールを合唱し始めた。
「ペップ!ペップ!ペップ!ペップ!……」
しかしペップの顔は険しく……何かを決意したような表情をした。そして彼は立ち上がると、言った。
「ごめんだけど、僕はピッポを探してくる。それじゃ、みんな……元気で」
ペップはコートを羽織ると、慌ただしく出て行った。後に残された村民たちは首を傾げた。
「……元気で、って、まるでしばらく会えないような言い方じゃないか」
パンクがぼそりと呟いた。
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そのころピッポは、森の中で木々と戦っていた。するどくとがった枝があちこちに突き出て、ピッポを邪魔してくる。いくら進もうが、景色はずっと変わらない。方角など、とっくにわからなくなっていた。
「道を使うべきだった……」
ピッポがそうつぶやいた瞬間、地面が突如消滅した。足が虚しく空をかき、ピッポは叫び声をあげて滑り落ちた。2メートルほど落ちると、また硬い地面がやってきて、ピッポは尻もちをついた。
「いてて……」
ピッポは振り返り、自分がちょっとした崖から転落したことを知った。痛みをこらえて立ち上がり、前を見る。すると、今までは木々に隠れて見えなかった明かりに気づいた。街灯の明かりだ……そしてそのぼんやりと暖かな明かりに照らされる、エレンの家が見えた!
「やった!」
ピッポは喜びの声をあげ、急いで走り始めた。枝をかきわけ、一目散でエレンの家へと駆ける。
しかし彼は突然立ち止まった。背筋が凍るのを感じる……ピッポはまたも、あの冷たい声を聞いたのだった。
「エルバッド、裏庭は見たか……」
ゲルシュニッヅに似た声だが、より低くて、よりくぐもっている。ピッポは気づいた。この声こそ、エレンの話す三兄弟の長男であることに。ピッポは早まる心臓の鼓動を抑え、木の裏に身を隠した。
この声の持ち主、エルバッド、そしてゲルシュニッヅ。魔王の三兄弟全員が、パタフルにいるのか!ピッポは息をひそめて、会話を聞いた。
「全て探した。奴はここにいない。べナードめ……父上が何とおっしゃるか」
エルバッドのものと思われる返答を聞いて、ピッポはほっとした。「ここにいない」ということは、エレンは上手いこと逃げおおせたのではないか?ピッポは目を凝らし、ブーツを履いた二つの黒い影を見た。どちらもゲルシュニッヅにそっくりだが、仮面の形はそれぞれ異なっている。彼らの傍らには、さっき見たのと同種の獣が二頭いた。唸りながら、あたりを見回している。
「ゲルシュニッヅめ……遅いな。我々のみでべナードを追うか?」
バルガロスが提案した。しかしその時ラプターが駆けてきて、ゲルシュニッヅが合流した。
「私の考え通り。あの青年・ピッポこそ、ペレン・ポップスの子孫だ。悔しいかな、奴は逃げた」
ゲルシュニッヅは苛立たしげに言った。その報告は、明らかにバルガロスとエルバッドを怒らせたようだった。二人はシューシューと唸ると、
「ただの若造に逃げられてどうする、逃げられたのか?」
バルガロスが強い口調で尋ねた。ゲルシュニッヅはさざ波が丘での一部始終を簡潔に語った。
「奴はただ者ではない。魔王の子の誘惑に抵抗できるとは……」
ピッポは静かに隠れながらも、自分が「ただ者ではない」と形容されるのを聞いて嬉しくなった。
「ピッポ・ポップスの捜索が先か?それともべナードの捜索が先か……」
エルバッドが尋ねる。長男のバルガロスが、少し思案してから答えた。
「ピッポ・ポップスは旅に出ると言ったのだろう?ならばべナードを頼るだろう……ポップスは、ここに来るはずだ」
ピッポはぎくりとした。思考が読まれている。バルガロスは話すのを止め、感覚を研ぎ澄ました。そして仮面の下でにやりと笑うと、こう言った。
「むしろここに来ているというべきか……奴はすぐそこにいる、探せ!」
「まずい!」ピッポは逃げ道を探し後ろを見たが、すぐ後ろには登ることなど不可能な崖がある。逃げ場はない……しかし指示を受けたエルバッドとゲルシュニッヅが道の方を探しに行ったので、ピッポはほっとした。ここにしばらく隠れていれば、窮地を切り抜けられるかもしれない。ピッポは少し後退し、より目立たなさそうな茂みに隠れなおした。
だが次の瞬間、バルガロスがピッポのいる茂みの方を向いた。彼にピッポの姿は見えないはずだが、まるでピッポの位置が分かっているかのようだ。バルガロスは無言のまま、まっすぐ茂みに向かってきた。ブーツが草をふみわけ、静かな音をたてる。ピッポは動くことも出来ず、ただ恐怖に震えてうずくまった。
もう目と鼻の先だ……ピッポは息を殺したが、もう駄目だと思った。鉄のブーツが、ピッポの隠れる茂みの前で止まった。そして剣が抜かれ、草を突き抜けて、ピッポに向かって伸びてきた。その切っ先が、遂にピッポの首筋を捉えた。ピッポは自分の運命を悟り、静かに顔をあげた。
「見つけたぞ。ペレンの曾孫よ」
バルガロスは嘲るようにそう言うと、ピッポの手をひっつかみ、連れ去ろうとした……が、出来なかった。
空から何かが飛来し、バルガロスをはたいたのだ。バルガロスは怒り狂い、剣を掲げ、突如現れた邪魔者を殺すべく振り下ろした。しかし邪魔者はそれを避けると、旋回してもう一度バルガロスに向かい、その仮面を鋭いカギ爪で引き裂いた。バルガロスは叫び、顔を覆い、剣を振り回した。邪魔者は空を縦横無尽に飛び回り、バルガロスを翻弄した。あたりに黒い羽根が舞う。
ピッポは何が起こったのかわからず、唖然としていた。空から飛来したのは一体何なんだ?しかしこれが逃げる最後のチャンスであることなのはわかっていた。ピッポは迷うことなく茂みを飛び出し、バルガロスの真横を走り抜けた。
バルガロスは冷静さを取り戻し、すぐさまピッポを追うべくラプターを招集した。しかしラプターはいなくなっていた。エルバッドもゲルシュニッヅも見当たらない。やむなくバルガロスは自分の足でピッポを追うこととなった。
ピッポはがむしゃらに走る中、自分がどこに行ったらいいのか皆目わからないことに気づいた。せめてエレンの向かった先がわかればいいのだが……そんな時、ピッポの上空から、大きな鴉がおりてきた。鴉はピッポのすぐ横を掠めると、「パタフル大通り」を東の方へと飛んで行った。その姿はたちまちのうちに見えなくなった。
ピッポはこんな状況でなければ、地面に座り込んでしまいそうなほど驚いた。なぜなら、鴉が言葉を発したのだから。鴉は確実にこう言った。
「私が時間を稼いだ。パタフルを出て、ベッポン街に行きなさい……『鍋の上の牛』でまた会いましょう」
ピッポはひどく混乱していたが(そもそもこの鴉が敵か味方かもわからない)、今のところは鴉に従うほかないと感じた。ベッポン街の『鍋の上の牛』。とにかく、そこに向かおう。ピッポは走り続けようとしたが、ふと立ち止まった。
ピッポは後ろを振り返った。生まれ育った樽村の明かりが、遠くに瞬いているのが見える。いつもと変わらない、平和な風景……ずっとここにいたかった。でももう僕は選んでしまったんだ。もう振り返ることは許されない。ピッポは最後に樽村を目に焼き付け、走り始めた。逃避行の旅が、始まったのだ。さて、どうなることか……
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バルガロスはようやくラプターを見つけ、それに騎乗してピッポを追った。間もなくエルバッドとゲルシュニッヅも合流した。三人の心は怒りと恐れで満たされていた。とにかく、一刻も早く、エレン・べナードとピッポ・ポップスを見つけなくては。三人はラプターに鞭をふるい、先を急いだ。
この章で第一部は終了となります。ピッポはまだパタフルすら出発できていませんが……
第二部では議会国家アルデマンドに至るまでの、ピッポの旅路が中心となります。
是非お読みください。




