花を纏う夜
湯浴みを終えた雪那は、まだ少し火照りの残る身体を夜風へさらしながら、静かな廊下を歩いていた。
昼間の賑わいが嘘のように城内は静まり返っている。
雪那と蓮華の衣裳を決めた後、炎竜王と蓮華は、仕立て師達と共に準備のため一足先に夏の国へと戻っていった。
廊下を歩く雪那の両手には、蓮華から渡された小さな木箱が大切そうに抱えられていた。
部屋へ戻ると、暖炉には火が入り、柔らかな橙色の光が室内を照らしていた。
雪那はほうっと息を吐き、寝台へ腰を下ろす。
木箱を開けば、中には大小様々な硝子瓶が整然と並んでいた。
髪へ艶を与える香油、肌に塗り込んで乾燥を防ぐ花蜜。
透き通る硝子へ閉じ込められた淡い琥珀色や薄桃色の液体。蓋を開けると、椿や梅、金木犀を思わせる優しい香りがふわりと広がった。
『宴当日まで、毎日使ってくださいませ』
そう言って木箱を手渡し笑っていた蓮華の姿が脳裏に浮かぶ。
『女は準備している時間も楽しむものですわ』
一つずつ瓶を取り出して、教えてもらった順番に肌に塗り込んでいく。
「準備も、楽しむ……」
湯上がりでまだ少し湿った髪へ櫛を通せば、さらさらと絹糸のように流れ落ちた。
手のひらへ香油を数滴落とし、毛先からゆっくりと馴染ませる。甘く柔らかな花の香りが髪を包み込む。
「……いい香り」
こんな穏やかな夜を、自分のためだけに過ごす。それは雪那が思っている以上に、心を満たしてくれる時間だった。
そう思った、その時だった。
扉が静かに開き、湯浴みを終えた蒼玄が部屋に入ってくる。
「戻った」
「お帰りなさいませ」
低く落ち着いた声。その深紅の瞳が、寝台に腰掛けた雪那と、並べられた硝子瓶へ向けられる。
「……何をしている」
「蓮華様からいただいたんです。宴まで毎晩、髪へ塗ってくださいって」
蒼玄が雪那の傍まで歩み寄る。木箱に入った瓶を手に取り、蓋を開ける。ふわりと花の香りが漂った。
「花か」
「香油だそうです。髪が綺麗になると仰っていました」
蒼玄はもう一度雪那の髪を見る。暖炉の明かりを受けた濡羽色の髪は、しっとりと艶を帯びていた。
「今でも十分綺麗だと思うが」
あまりにも自然な口調に、雪那は一瞬動きを止める。耳にじわりと熱が集まる。
「……も、もっと艶が出るとか……」
「今以上にか」
「はい……たぶん」
少し俯きながら答える雪那を見て、蒼玄は僅かに目元を和らげた。
蒼玄は雪那の隣に腰を下ろすと、香油を塗り込んだばかりの髪を一房指に絡める。
指先を滑らせるたびに、花の香りがふわりと立ち上る。
蒼玄が静かに手を差し出す。
「貸せ」
「……え?」
「櫛だ」
雪那は言われるがままに素直に櫛を渡す。
蒼玄は雪那の後ろへ移動すると、長い黒髪へゆっくりと櫛を通した。
「あ、あの……?」
「前を向いていろ」
驚きで振り返ろうとしたのを、静かに制止され、雪那は落ち着かない気持ちのまま前を向く。
武骨な手が、何度も何度も雪那の黒髪を優しく櫛で梳いていく。その心地よさに、雪那は猫のように目を細めた。
一通り梳き終えた蒼玄が、絹のように滑らかな黒髪を満足そうに眺める。
「ありがとうございます」
「あぁ。これからは毎晩俺がやろう」
「ま、毎晩ですか?」
「不満か?」
今度こそ雪那が振り返ると、蒼玄はそのまま雪那の指を引き、寝台の上で抱き締める。
動くたびに、雪那から甘く滴るような花の香りが立ち上る。その香りを堪能するかのように、蒼玄が雪那の頭に頬を寄せる。
「い、いえ。嬉しいです……」
「なら問題はないな。それで、服は決まったか?」
「はい。蓮華様が、沢山選んでくださって」
昼間の穏やかな時間を思い出し、雪那が頬を緩める。しかし、自分が唯一お願いしたことを思い出し、不安そうに瞳を揺らす。
「あ、あの……蒼玄様の瞳と、同じ色を纏いたいなどと……ご迷惑ではありませんか?」
「そんなことを言われて、嬉しくない番がいると思うか?」
見上げると、暖炉の橙色を反射し、紅色が増した瞳が雪那を見つめていた。
雪那の不安を振り払うかのように、額に口付けが落ちてくる。くすぐったいようなその感触に、雪那は甘えるように蒼玄の首筋に擦り寄る。
「……初めて、自分のために、何かを選びました」
「あぁ」
「好きな色も、似合う物も、まだ分かりませんが、とても、とても楽しかったです」
蒼玄の温もりに包まれ、雪那は夢心地のように瞳を嬉しそうに蕩けさせる。
「お前の好きな物が分かるまで、何度も仕立てればいい」
「……ふふ。では、次は蒼玄様の好みを教えてください」
穏やかな会話がふと途切れ、蒼玄の大きな手が雪那の顔を上向かせる。
薄い唇が、啄ばむように雪那の唇に重なる。
「ん……」
角度を変え、温もりが交わる。最後に、戯れのようにちろりと唇を舌先で舐められて、離れていく。
「お前が好きなものなら、それが俺の好みだ」
甘く滴るように、とっぷりとした愛情が注ぎ込まれるようだった。
暖炉の火が静かに揺れる。
宴まで、あと僅か。
二人だけの穏やかな夜は、静かに更けていった。




