休息
夕暮れ。
廃寺に、静かな気配が戻っていた。
一日で終わるはずのない供養は、
気づけば、もう過去のものになっている。
俺は堂に立ち、阿弥陀如来を見上げた。
傾いた光が、仏の顔に差し込む。
その口元が、わずかに緩んだように見えた。
風が抜ける。
いつものように、火を起こす。
鍋の中で、野菜がやわらかく煮えていく。
粥の匂いが、境内に広がった。
皆、黙々と食べる。
だが、その表情には、わずかな緩みがあった。
「あっし、村の人から、あちこちの修繕を頼まれまして」
茂が口を開く。
「そうか……では、この村に残るか?」
俺は火を見ながら問う。
「いえいえ、そうではなく……」
茂は首を振る。
火の明かりが、その横顔を揺らす。
「次に戦がどこかで起こるまで、少し滞在してはどうかと。あっしが稼いだ金は、全部入れますので」
静かな提案だった。
猿が、すっと立ち上がる。
「じゃあ、おいらも手伝うよ」
間を置かず、声が重なる。
「じゃあ俺も手伝おう」
「私も手伝います」
俺とれんは言う。
火がぱちりと弾ける。
茂は一度うなずき、周囲を見回した。
「では、こうしましょう。あっしの手でないと無理なところは、あっしが。それ以外は、皆さんにお願いする形で」
誰も異を唱えない。
小さく、頷きが重なった。
夜が、静かに寺を包み込んでいく。
……
それから、日々は静かに流れていった。
朝はまだ薄暗いうちから動き出し、
村のあちこちへ足を運ぶ。
崩れた塀を直し、軋む戸をはめ直し、
屋根の抜けた箇所に手を入れる。
土と木と鉄の匂いが、手に残った。
報酬は、決して多くはない。
金の代わりに差し出されるのは、野菜や米、
どこからか拾い集めてきたような品々だった。
だが、それで十分だった。
鍋に火を入れれば、湯気は立つ。
腹を満たすものがある。
それだけで、持ち金は減らない。
乱れた世の中で、
飢えずに済むというだけで、
この場所は悪くない。
廃寺の屋根の下、
夜になると、静かな安堵が降りてきていた。
……
一月が過ぎた頃だった。
村の外れに、ざわめきが流れ込む。
五里ほど先で、戦が始まったという。
修繕の仕事は、ちょうど途切れていた。
道具をまとめ、荷車に載せる。
誰も迷わない。
静かに、村を後にする。
「ちょっと寂しいね」
れんがぽつりと言う。
俺は、その頭に手を置き、軽く撫でる。
少し離れたところで、猿がそれを見ている。
じっと、羨むように。
俺は小さく笑い、
その頭も同じように撫でてやる。
猿の目が、わずかに潤む。
「良い村でしたね。また来たい……」
茂が、振り返りながら言った。
俺は顔をそむける。
「俺はごめんだ」
短く、吐き捨てる。
「なんで?良い村なのに……」
れんが裾を引く。
俺は足を止め、腰を落とす。
その目を、まっすぐに見る。
「俺らは、戦場を供養して回る」
一拍。
「また来るということは――ここが、もう一度戦場になるということだ」
風が、止まる。
誰も言葉を返さない。
やがて、茂が小さく息を吐いた。
「まぁ……一期一会も、悪くはないもんです」
れんが、少しだけ笑う。
「今度は、修理に来るといいんじゃない」
その言葉に、空気がわずかにほどける。
「そうだな。それなら悪くはない」
俺は、もう一度れんの頭を撫でた。
村は、背後で静かに遠ざかっていった。
……
荷車の軋む音が、道に細く残る。
土の道を、俺たちは引いていく。
風は乾き、どこか遠くで煙の匂いが混じっていた。
途中の町に入る。
人の気配はあるが、どこか落ち着かない。
貰い物や、集めた装備品を差し出す。
鉄や布が、金に変わる。
重みが、わずかに形を変える。
その金で、食料を買う。
米や野菜、味噌。
袋の中で、音を立てる。
長居はしない。
再び道に出る。
荷車を引き、進む。
やがて、空気が変わる。
風に、焦げた匂いが混じる。
戦場は近い。
その手前に、ひとつの影。
崩れかけた屋根、傾いた柱。
廃寺だった。
俺たちは足を止めることなく、
その中へ入った。
……
廃寺に、数日ほど留まった。
屋根は抜け、柱は傾き、
それでも風はしのげる場所だった。
見回りは、猿が引き受ける。
小さな身体で、軽やかに山道を抜けていく。
朝に出て、夕に戻る。
足音もなく、影のように現れる。
その間、茂は黙々と手を動かしていた。
朽ちたお堂の板を打ち直し、
近くの祠にも手を入れる。
木槌の音が、乾いた空気に響く。
俺とれんは、堂の中を整える。
積もった埃を払い、
火を起こし、食事の支度をする。
煙が上がり、
わずかな温もりが広がる。
日が傾くころ、猿が戻る。
何も言わず、ただ目だけで合図を送る。
その繰り返しだった。
静かな準備が、
ゆっくりと積み重なっていく。
……
廃寺に入って、五日。
昼の静けさを裂くように、猿が飛び込んできた。
土埃をまとい、息も整えずに言う。
「勝敗が決した」
それだけだった。
俺たちはすぐに動く。
荷車を残し、高台へ向かう。
風が変わる。
湿った、重たい匂いが混じる。
頂に立つと、景色が開けた。
戦場。
地面は黒く濁り、
ところどころに赤が滲んでいる。
血と鉄、
そして、かびたような腐臭が、風に乗って届く。
すでに動いている者たちがいた。
足軽たちだ。
倒れた者のそばにしゃがみ、
生死を確かめ、
首や装備を手早く奪っていく。
無言の作業だった。
れんは視線を落とす。
その小さな肩が、わずかに沈む。
「いつ見ても……悲惨な風景ですね」
茂の声が、低く落ちる。
俺は猿を見る。
かつてのような、先を急ぐ焦りはない。
ただ、拳を強く握りしめている。
その指先が、白くなるほどに。
俺はその場に腰を下ろした。
風の中で、ゆっくりと息を整える。
目を閉じ、声を落とす。
読経が、低く流れはじめる。
隣で、れんが口を動かす。
猿も、茂も、少し遅れてそれに続く。
不揃いだった声が、次第に重なっていく。
「……ずいぶん、さまになったものだ」
俺は一言、そう漏らす。
三人は顔を見合わせ、
わずかに視線を逸らした。
照れたように、口元が揺れる。
再び、声が響く。
風がそれを運び、
広がっていく。
やがて日が傾く。
光が薄れ、影が長く伸びるころには――
足軽たちの姿は、もうどこにもなかった。
戦場には、静けさだけが残る。
俺は立ち上がる。
「俺らも帰ろう」
その言葉に、猿が顔を上げる。
「もう足軽たちは行ったよ。行かなくていいの?」
視線の先には、まだ残る影。
俺は首を振る。
「これから夜になるにつれ、さらに陰の気が強くなる」
一拍。
「障るぞ」
風が、ひときわ冷たくなった。




