言いかけた言葉
あの日から、
ずっと同じ場所にいるのに、
どこか落ち着かなかった。
⸻
夜。
「今」
ハル。
短い通知。
いつも通り。
でも、
少しだけ指が止まる。
(まただ)
何が、とは言えない。
でも分かる。
この“いつも通り”が、
少しだけ違う。
⸻
「いる」
送る。
すぐ既読。
「行く」
それだけ。
⸻
外。
夜の空気。
慣れた道。
でも今日は、
足取りが少しだけ重い。
理由は分かってる。
分かってるから、
余計に意識しないふりをする。
⸻
いつもの場所。
ハルがいる。
目が合う。
「おう」
「うん」
それだけ。
⸻
隣に立つ。
距離は同じ。
何も変わってないはずなのに、
呼吸のタイミングだけが合わない。
⸻
「飯いく?」
ハル。
「ん、どこでも」
紗月。
いつもの会話。
いつもの流れ。
⸻
なのに、
どこかが引っかかる。
言葉の間。
視線の置き場。
沈黙の長さ。
全部が少しずつズレてる。
⸻
カフェ。
適当な店。
座る。
向かい。
近い。
でも遠い。
⸻
「なぁ」
ハル。
紗月は顔を上げる。
「なに」
一拍。
ハルはコップを見たまま、
少しだけ黙る。
⸻
「この前さ」
止まる。
(来る)
分かる。
何が来るか。
⸻
「……いや」
そこで一回切る。
⸻
紗月は息を止める。
(今のは)
⸻
ハルは笑う。
でも軽くない。
いつもの軽さじゃない。
⸻
「やっぱいいわ」
そう言って、
水を飲む。
⸻
(逃げた)
そう思ったのに、
胸の奥が少しだけ苦しい。
⸻
会話は続く。
でも戻らない。
いつもの“どうでもいい会話”に。
⸻
帰り道。
風が少し冷たい。
並んで歩く。
⸻
「さっきの」
紗月。
ハルは一瞬だけ見る。
「ん」
⸻
言葉を探す。
でも、
うまく形にならない。
⸻
「なんでもない」
結局そう言う。
⸻
ハルは少しだけ息を吐く。
「そ」
⸻
その一言で終わるはずだった。
⸻
でも終わらなかった。
⸻
駅。
人が増える。
いつもの別れの場所。
⸻
立ち止まる。
いつもなら、
ここで「じゃ」で終わる。
⸻
でも今日は違う。
⸻
ハルが先に言いかける。
「なぁ」
⸻
止まる。
⸻
「俺さ」
⸻
その先が来る前に、
空気が変わる。
⸻
紗月は分かる。
(これ、やばい)
⸻
言ってはいけない何かが、
もう口の中まで来てる。
⸻
でも止められない。
⸻
ハルも止まらない。
一瞬だけ目が合う。
⸻
「いや」
また止める。
でも今度は、
さっきみたいに軽くない。
⸻
逃げてない。
ただ、
踏み込むのを怖がってるだけ。
⸻
沈黙。
長い。
でも誰も動かない。
⸻
人が横を通る。
音だけが流れる。
⸻
その中で、
二人だけ止まってる。
⸻
紗月が先に口を開く。
「なに」
⸻
ハルは少し笑う。
でも、目は笑ってない。
⸻
「……いや、別に」
⸻
その瞬間。
はっきり分かる。
⸻
(今、言おうとした)
⸻
同時に、
紗月も気づく。
⸻
(私も、聞きたかった)
⸻
でも、
どっちも言えない。
⸻
言ったら、
終わる気がするから。
⸻
駅の音が遠くなる。
⸻
「じゃ」
ハル。
短い。
いつものやつ。
⸻
「うん」
紗月。
⸻
でも、
動けないまま一瞬だけ残る。
⸻
目が合う。
⸻
言いかけて、
やめる。
⸻
それだけで全部が崩れそうだった。
⸻
離れる。
歩き出す。
⸻
背中が遠くなるのに、
なぜかまだそこにいる気がする。
⸻
家。
ドアを閉める。
⸻
静か。
⸻
スマホを見る。
⸻
ハル。
「帰った?」
⸻
「帰った」
⸻
既読。
少しして。
⸻
「そっか」
⸻
それだけ。
⸻
紗月はスマホを見たまま動かない。
⸻
(さっき)
⸻
あの一瞬。
⸻
言いかけた言葉。
⸻
聞きたかった言葉。
⸻
どっちも同じだった気がする。
⸻
でも形にしたら、
戻れない。
⸻
だから止めた。
⸻
止めたのに。
⸻
胸の奥だけが、
ずっと動いている。
⸻
ベッドに倒れる。
天井を見る。
⸻
静か。
でも落ち着かない。
⸻
(このままでいい)
⸻
そう思うのに、
もう一つの声がある。
⸻
(このままじゃ、終われない)
⸻
スマホが鳴る。
⸻
「またな」
ハル。
⸻
短い。
⸻
紗月は少しだけ迷ってから、
返す。
⸻
「うん」
⸻
既読。
⸻
「だな」
⸻
画面を閉じる。
⸻
静か。
⸻
でももう、
前みたいな静けさじゃない。
⸻
言わなかった言葉が、
ずっとそこに残っている。
⸻
そしてそれはもう、
消えない。




