32・靴を返しに
始まりはフェリクスだった。
夜空を見上げていた彼が急に俯いて、そのまま動かなくなったのだ。
「……? フェリクス?」
異変を感じ話しかけるが、彼からの返事はない。
そしてその変化はフェリクスだけではない。
オレリアやモニカさん、部長──さらにはバルコニーにいた他の生徒も、急に糸が切れたみたいに動かなくなっていた。
「ねえ、みんな。どうしたのよ。一体なにが……」
そう言いながら、フェリクスの肩を持って揺さぶる。
すると彼は顔を上げて、
「行かなくちゃ……」
と呟いた。
その双眸には生気が宿っていなかった。
どこか空虚なもので、目の焦点は私ではなく虚空に向けられている。
「ちょ、ちょっと、様子がおかしいわよ。それに行かなくちゃ……ってどこに……」
「靴を返しに……」
そう言って、フェリクスは私の手を振り解く。
そしてゆらりとした動きで、歩き出してしまったのだ。
「フェ、フェリクス! 私の話を聞いてってば!」
慌てて、フェリクスの肩をもう一度掴む。
しかしフェリクスの歩みは止まらない。
まるで見えないなにかに引っ張られているかのように、ふらふらとした足取りでバルコニーを後にしようとしている。
無理やり止めようとするけど、この時のフェリクスは何故だかすごい力で、私ではその歩みを遮ることは出来なかった。
「靴を返しに……ロレッタのところに……靴を返しに……ロレッタのところに……」
フェリクスは先ほどから夢遊病の患者のように、そう何度も繰り返している。
「靴を? あの靴だったら落とし物として、若草祭の運営に預けたじゃない。それをどうしてあなたが……」
「靴を返しに……ロレッタのところに……」
やはり、私の問いかけに対する答えは得られない。
ロレッタのところに……?
急にどうして?
先ほど、フェリクスはロレッタに対して嫌悪感を向けていた。
確かに最後、ロレッタは靴が脱げてしまったが……それを届けにいく道理は、彼のどこにもないはず。
しかし今のフェリクスをロレッタに会わせるわけにはいかない。
私はそう直感する。
こうなったら押し倒してでも、フェリクスを止めなければならない。
そう思い、私は踵にぎゅっと力を入れようとすると……。
「きゃっ!」
短い悲鳴を上げてしまう。
誰かに後ろから肩を掴まれ、強い力で引っ張られたからだ。
「クラリス様……いけません……フェリクス様はロレッタ様のところに、行かなければ……」
「オ、オレリア!? あなたまで、なに言ってんのよ!」
声を張り上げる。
オレリアが私の肩を掴んでいる。本来なら、彼女は非力な女の子なんだけど……何故だか、フェリクスと同じように力が強くなっていた。
「と、とにかく、私はフェリクスを止めなくっちゃ……」
こうしている間にも、フェリクスの背中がどんどん遠くなっていく。
焦りでどうにかなってしまいそうなのを堪えながら、それでも私はなんとかオレリアを振り解こうとする。
だけど、ダメ。
オレリアだけではなく、部長やモニカさん……そして他の生徒も、まるで餌に群がる虫のように私を取り囲んだのだ。
みんな、フェリクスと同じような現象だ。
そんな彼ら・彼女らに、私は不気味さを感じた。
そうこうしている間に、とうとうフェリクスがバルコニーから出ていってしまう。
「大変……!」
フェリクスは「靴を返しに、ロレッタのところに」と繰り返していた。
その言葉の通りなら、ロレッタのところに彼が行ってしまう。今、彼をロレッタのところに行かせれば取り返しの付かないことになる……何故だか、今の私はそう感じていた。
しかし私を止めようとしてくるみんなを振り解くのに、多大な時間を消費してしまった。
「オレリア、モニカさん、部長……あとで戻ってくるからね!」
そう言い残して、バルコニーを後にする。
既にダンスホールにはフェリクスの姿はなかった。
すぐにフェリクスを探しにダンスホールから出ようとするが……それは叶わなかった。
何故なら。
「バ、バルコニーにいた人だけじゃなくて、他の人もなの!?」
──私の視界に入る人たちみんな、先ほどのオレリアたちと同じようになっていたのだから。
みんなは私を見つけるなり、ゆらりと動き出す。
私はその間隙を縫うようにして、人混みから逃げようとする。しかしみんなは腕を伸ばし、私の動きを妨げようとしていた。
それでもなんとか、ダンスホールを後にするが……ここでもまた、時間を使ってしまう。
なんとなく予感はしていたけど、ダンスホールから出ても状況は同じだった。
まだ学園に残っている生徒……さらには先生までもが、みんな誰かに操られているかのように私の邪魔をする。
なんとか捕まらないようにして動くが、これではフェリクスを見つけ出すどころじゃない。
そしてしばらく走った後。
中庭に差し掛かったところで、とうとう体力が切れてしまい足を止めてしまった。
それを見計らって、中庭にいた人たちが私を取り囲む。
「ダメ……フェリクスはロレッタへと……」
「貴公子様はお姫様に靴を……」
うわ言のように、同じことを繰り返している。
その人たちはさらに集まってきて、私は身動きが取れなくなってしまう。息苦しさも感じた。
万事休す。
押し潰そうとしているのが、彼ら・彼女らが私の体に伸しかかってきて……。
「クラリス!」
その時、声が聞こえた。
数瞬後、密集していた人たちの切間からにゅっと手が伸びてくる。
私は反射的にその手を握る。
すると強い力で引っ張られ、私はなんとかその場から脱出することが出来たのだ。
一体、誰が……そう思って顔を上げると。
「ヘ、ヘルムート殿下!」
「無事か?」
第三王子ヘルムートが真剣な口調で、私にそう問いかけた。
その双眸にはしっかりと光が宿っていて、私の瞳に真っ直ぐ向けられていた。




