九
亮平の出て行った後でも、彼が見せた憤りの表情はまだ麻己に生々しい緊張感を与え続け、再び奥の間の和夫に名を呼ばれるまで、亮平との会話を思い返していた。
「誰か来とったんか? 誰や、隣のやつか?」
紺色のヘアゴムからもれた後れ毛を気にしつつ、襟首を隠すように手を添え、いいえとだけ答え老人の加減を窺う。
祖父の和夫は今年八十歳を迎え、数年前からあった痴呆がさらに速度を増してきていた。それでもまだこの家に居座るだけの気力は残し、気の弱い孫娘を利用するだけの知力は留めていた。
男としての意地はそのままでも、下の世話を受ける際には多少申し訳なさもみせるのだが、それを気取られぬ為に普段よりも一層尊大に振る舞い麻己を怖じ気づかせる。女を自身の下に置いておかなければ落ち着けない和夫は、五年前に他界した妻の敏子に対する態度をそのまま麻己に続けているようだった。
ただ、敏子は麻己のような臆病に堪えるだけの女ではなく、彼女の死後に浮気相手がいたこと、相手の男に相当額を貢いでいたことが判明した際は、さすがに和夫もいつものような空威張りも出来ず悄然とした態度で、和夫に度々煮え湯を飲まされ続けてきた親戚連中でさえ、その様子に温情を禁じ得なかったほどだった。
怒り狂った和夫が同じ墓に敏子の遺骨をいれさせないと息巻いたが、それよりも早く生前の彼女はすでにその旨を遺書という形で先手を打っていた。
結果遺骨は敏子の遺言通り実家の墓に納められ、怒りの落としどころを失った和夫は、その頃から痴呆が始まりだした。
両親と早くに死別した麻己は最初田舎から離れた場所で一人暮らしていたが、狡賢い親戚連中に言いくるめられる形で和夫の面倒を一人で見ることになった。その当時を思い返すと、胸の内に滲み出る忸怩たる思いに堪えきれず、彼女は一人啜り泣くしかなかった今日までに、颯爽と吹いた亮平という新しい風に漠然とした期待を抱き、いつものように和夫の憎らしく皺ばんだ体を拭いてやることさえも、顔をしかめずに行えるような心地がしていた。
夏場は日に一回和夫の体を濡れタオルで拭いてやることが日課になっていて、それも和夫の言いつけで始めたことだったが、逆らうことを知らない麻己は言われるままに従い、今では和夫に催促されずとも自ら一日の一番暑い時間帯になると、干からびた老体に水気を吸わせるようゆっくりと冷えたタオルを押し当てていく。
時折、和夫の手が麻己の素肌に触れてくるのが、老人の意図的なものであると直感するのは、濁った瞳に一瞬生気が蘇った老人の性欲が、麻己に醜悪なものの前触れを予感させるからだった。
亮平の息づかいを快く間近で感じ取っていた先ほどと違い、この老人から発せられる悪臭は彼女にとって受け入れがたい恥辱にさえ変わりつつあったのは、久しく忘れていた魂の昂揚を呼び覚まされたからで、これまで鬱積していたものに蓋をしておくことは人並み以上に慈愛の深い彼女でも最早不可能で、それほどまでに現在から逃れたいと切実に願っていた自分の本心を、彼女自身認めるしかなかったからだった。
和夫に縛られている現在から逃れられたらどれほどの幸せが身に訪れるかを想像しただけで麻己の心は幾分救われてきた。その僅かな幸福感を頼りに今日まで生き延びて来たが、もう細糸を手繰るような生活には戻れないと思うほど、麻己の和夫に対する態度は粗雑になっていくのだった。
「もう少し冷やしたタオルに変えろ、全然涼しゅうならん」
和夫の裸体は熱を帯びるどころか、麻己の掌から熱を奪っていきそうな冷たさしかなかったが、まだ暑がる和夫の為、冷蔵庫から予備の濡れタオルを持ってきてやった。これが熱湯に浸したものならば、この老人はどんな反応をみせるだろうか、とおおよそ麻己には似つかわしくない妄想にも、俯きながらにやりとしてみせるのだった。