売女る
あの写真を撮ったのはまゆで、上げたのは私だ。
だから始まりの責任を半分ずつにできるかというと、できない。撮ってもらった写真のなかからあれを選んで、文字をつけて、公開のボタンを押したのは私なので、始まりは全部私にある。何度もそこに戻って確かめている。確かめておかないと、私が何もしていないのに何かが起きたみたいな話になって、それはそれで落ち着かない。
海開きの前の日曜で、まゆと、まゆの同期の子と江の島に行った。海に入るつもりなんてなかったのに、足だけと言って走っていったまゆが振り向きざまに水をかけてきて、逃げ遅れた私は腰まで濡れた。白いTシャツなんか着ていくからだ。
帰りの電車でまゆが送ってきたなかの一枚は、髪が顔に貼りついていて、口が半分開いている。ひどい写真だったから逆に面白くて、私はその場で「最悪」とだけ書いて上げた。そのころのフォロワーは知り合いに毛が生えた程度で、いいねは数十つけば多いほう。
次の日の朝、通知の数字が見たことのない桁になっている。乗っ取られたのかと思って、電車の中で開いて、閉じて、もう一度開いた。昼休みにバックヤードのパイプ椅子に座ったときには三万を超えていて、スマホを持つ手が震えていた。レジに戻ってからも、エプロンのポケットに通知が来るたびに手が止まる。
コメントの中身も変わった。前からあるかわいい、の横に、別の種類のものが混ざりはじめる。
『エロい』
『これは反則』
『彼氏いるの?』
『もっと見たい』
気持ち悪い、と声に出して言った。言いながら、いちばん下まで読んだ。何がどれくらい来ているのか、知らないままでいるほうが怖かった。
週の半ばに、部屋で撮った一枚を上げた。肩の出るニットで、顔は半分だけ入れた。手持ちのなかで、いちばん近いものを選んだ。一万五千ついた。
その次に上げた、ネイルとアイスコーヒーの写真は三百二十だった。そっちは、その夜のうちにアーカイブに入れた。
秋になると、案件の連絡が来るようになった。最初はまつ毛の美容液で、謝礼は現物だけ。次の脱毛サロンからは、お金が出た。PRの表記は、先方の指示どおり文の頭に入れる。入れても、いいねの数はほとんど変わらなかった。投稿して何日かすると、インサイトの画面をスクショして送ってくださいと連絡が来る。担当の人は、いいねより保存の数のほうを気にしていた。
カフェのチーズケーキの案件では、上に載った生クリームがだれる前に撮ってくださいと言われていたので、席に着くなり、続けざまに撮った。一口も食べていない。お店の人が箱に詰めてくれたのを持って帰って、夜に開けたら、クリームが溶けてチーズの層に染みていて、何の味なのかよく分からなかった。
冬には一件で十万を超えるものが来るようになり、春を待たずに雑貨屋を辞めた。
店長には「夢があるので」と言った。レジに立っているあいだ、私のページは止まったままで、そのうちにもほかの誰かに抜かれていくのが耐えられなかった。人に話したことはない。話せば、たぶん中毒に聞こえる。
辞めた月の入金は、店の手取りの三倍近くあった。母には言っていない。実家では今も、同じ店で働いていることになっている。
撮り方は、全部自分で覚えた。白い壁の前が、いちばん肌がきれいに写る。午後二時から三時のあいだ。厚いカーテンは開けて、レースだけ閉める。カメラは中古で、三脚はいちばん安いもの。百円ショップの白い画用紙を床に置くと、下から光が回って、顎の影が消える。タイマーで続けて撮って、角度を変えて、また撮る。
ソファで膝を抱えた写真は、何十枚も撮ったなかの一枚だ。膝の抱え方と、髪を耳にかけるかどうかを変えているうちに、窓の光が傾いてきた。使えたのはそれだけで、そこから明るさを上げて、顎の影を薄くして、部屋の隅に写っていた延長コードを消した。上げたのは夕方で、文字は『今日はなんにもしなかった日』。書いたことに嘘はない。その日、私はそれ以外に何もしていないのだから。
まゆとご飯を食べたとき、向こうから切り出された。
「美菜、すごいことになってるよね」
「別に」
「この前、会社の後輩が見てて。知り合いだよって言ったら、嘘でしょって」
「やめてよ、そういうの」
「言わないほうがよかった?」
「よかったっていうか」
私は笑って、冷たいうどんをすすった。揚げ玉と生卵を落としたやつで、まゆは温かいほうを頼んでいた。まゆの丼は、まだ半分も減っていない。
「でもさ、大丈夫なの、ああいうの」
「ああいうのって」
「なんか、だんだん際どくなってない?」
「なってない」
「そう? ならいいけど」
「なってないって」
言い直した時点で負けだった。分かっていたから、私はもっと喋った。
「言っとくけど、誰かに言われてやってるわけじゃないから。事務所も入ってないし、彼氏に撮らせてるわけでもないし、全部自分で決めてる。ああいう、脱がされてる子とは違うから」
まゆは、そうだね、と言って、店員を呼んでお茶を頼んだ。
帰りの電車で、ああいう子、の顔を思い浮かべようとした。
一枚、消したことがある。
上げたその夜に、さすがにやりすぎたと思って消した。消してすぐ、こうなっていた。
『なんで消したんですか』
『返して』
『保存してあるから大丈夫だよ』
『消すくらいなら最初から上げないでほしい』
『見れなかった人かわいそう』
保存してあるから大丈夫?
画面を伏せて、天井を見た。あれは私の顔で、私の部屋で、私が消したのに、消えていない。会ったこともない人のスマホの中の、私の知らない名前のフォルダに入って、残っている。お腹の奥が冷たくなった。
冷たいまま、インサイトの画面を出していた。消すまでのあいだに、保存は四千を超えていた。それまでのどの投稿よりも多い。その数字を見て、お腹の奥がじんわり温かくなった。
次の日、似た角度の写真を上げた。少しだけ違う。少し寄っている。
毎回コメントしてくる人がいた。文章がだんだん長くなって、私の生活の推測が混ざるようになって、ある日、今日は出かけたんですね、と書いてきた。
出かけた話は、どこにも書いていない。その日の写真の、窓に落ちた影の向きで、撮ったのが午前中だと分かったらしい。いつもは午後に撮るのに午前中に撮ったのは、午後に用事があったからでしょう、と。続けて届いた説明の文章から、本人は褒めているつもりなのが伝わってきた。
ブロックしてから立って、窓のレースが閉まっているのを確かめた。
日を置いて、検索窓にその人の名前を入れた。いなくなったのを確かめたかったのだと思うけれど、確かめてどうするのかは考えていなかった。似た名前のアカウントが縦に並び、それを上から順に開いていく。アイコンを見て、投稿を見て、違ったら戻る。しばらく続けた。
分からないまま閉じて、その日は何も上げなかった。
掲示板のことは、知らないアカウントからのDMで知った。リンクだけで、文章はない。押すなと思いながら押した。
私の部屋のことが書いてあった。
去年の夏にベランダから撮った夕焼けに、下の通りの看板が写り込んでいたらしい。歯医者の名前。そこから、川沿いのマンション、非常階段の手すりが緑、エントランスのタイル。最後に、何階か。
全部合っていた。
厚いほうのカーテンを閉めて、電気を消した。
床に座っていると、外で誰かが笑った。下の道を歩いている人の声だと分かっても、立てなかった。立ったら窓に近づく。窓に近づいたら、下から見える。見えるかどうかなんて分からないのに、見えると思った。
何もしていない。私は誰にも、何もしていない。
画面を点けて、溜まっている通知を見て、消した。点けて、消した。点けて、消した。
次の日、不動産のアプリを入れた。同じ区で、同じくらいの家賃の部屋を、出てくるかぎり見た。どれも北向きか、壁が白くない。午後二時の光が白い壁に当たるあの角度は、たぶんこの街のどこにもない。全部見て、アプリを消した。
コンビニのナポリタンを温めて、立ったまま食べた。カーテンを閉めているので昼でも部屋は暗くて、フォークが容器に当たる音がやけに大きかった。
その夜、休みますの文章を書いては消した。
最初は理由を書いて、書けば余計に探されると気づいて消した。次は短くしすぎて冷たくなった。冷たいと、心配のふりをした人たちが騒ぐ。その次は絵文字を入れすぎて、やめた。
「いつも見てくれてありがとうございます。少しだけお休みします。元気です。またすぐ戻ってきます」
元気です、は、入れないと病んでいることにされるから入れた。またすぐ戻ってきます、は、離れる人を減らすために入れた。少しだけお休みします、にも、少しだけ、が付いている。
送信して、アプリを消した。ホーム画面の、アイコンがあった場所が空いた。
実家に帰った。
母は理由を聞かずにカレーを作って、福神漬けを小皿に出した。袋から直接取ると母が怒る。妹の奈緒は大学のサークルの話を延々として、途中で私が笑ったら、お姉ちゃんなんか痩せた? と言った。
「食べてないの? 顔ちっちゃくなってるよ」
「それ褒め言葉だから」
「褒めてないよ、心配してるんだって」
母が黙ってカレーを足す。全部食べて、残った福神漬けも食べた。
風呂は父のあとで、湯がぬるかった。実家の風呂の窓は磨りガラスで、外から中は見えない。その日はそれがありがたくて、湯船の中で膝を抱えたまま、しばらく動かなかった。
週末まで実家にいた。スマホは鞄の底に入れたままなのに、何度もジーンズのポケットを触った。
ある夜中に、アプリを入れ直した。見るだけだと自分に言って、実際、何も上げなかった。
閲覧数のグラフは崖みたいに落ちて、そのまま平らに伸びていた。休止の投稿に付いた『待ってます』の列のあとは、何も来ていない。かわいいも、エロいも、保存してあるも、来ない。あれだけ気持ち悪かったものがなくなったとたん、部屋の中で聞こえるのが、自分の息だけになった。
実家の天井は、東京の部屋より低い。それを見上げながら、もう一度グラフを開いた。
東京に戻った週に、前のアカウントを消した。確認の画面が続けて出て、そのたびに押すと、ベランダの夕焼けも、江の島の一枚も、まとめて消えた。
週の終わりに、新しいアカウントを作った。アイコンは、実家から帰る電車で撮った川にした。顔は入れていない。名前は同じにした。同じにしないと、見つけてもらえない。
投稿は、これだけにした。
「こんばんは。また少しずつやっていきます」
誰も来ないかもしれないと思いながら、画面を閉じられなかった。
最初のコメントは、すぐに来た。
『おかえりなさい』
見覚えのある名前な気がした。よくいる人だ。何を書いてきた人か、いつからいる人か、思い出そうとしても出てこない。
朝までに五十四件ついた。
返信を打って、長押しして、コピーした。
『ありがとうございます』
貼り付けて、送信。貼り付けて、送信。一件ごとに、ほとんど手間はかからない。途中から、宛先の名前を見なくなった。
翌週のうちに、フォロワーは前の四割まで戻った。
朝、目が覚めてまず見るのは保存数だ。いいねは押すだけだから軽い。押した本人もすぐに忘れている。保存は違う。保存する人は、それを自分のところに持って帰りたいと思った人で、持って帰って、あとでもう一度開く。
気持ち悪いと思う。その数字が伸びている朝は、体が軽い。前の日に何を食べたかと関係なく、軽い。
昨日上げた写真の保存は、今朝の時点で二千八百だった。先週より少ない。
クローゼットを開けて、中を見ていた。白いシャツと、黒のキャミソール。誰にも頼まれていない。私が選ぶ。
もう少しなら、いい。
三脚を立てて、白い壁の前に立った。カメラのタイマーを十秒に合わせて、ボタンを押す。
赤いランプが点滅して、最後の二秒で、点滅をやめてただの赤い点になる。
その二秒、私は息を止めている。




