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バイタル  作者: 水瀬 結
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バイタル

 七時十二分の電車は、前から三両目のドア横に立つと決めている。手すりに肩を預ければ片手が空くし、降りたときに乗り換えの階段がちょうど正面に来るので、朝の三分を損しない。一年分を足せば、丸半日にもなる。


 空いたほうの手でスマホを出して、通知を上から順に指で払っていく。天気と、入れたまま忘れていたゲームの、ログインボーナスがどうとかいうやつ。全部消して、アプリを開く。知らない男の腹筋の動画と、知らない女が白湯を飲むところから始まる朝の動画を、二回はじく。


 ミナが出てくる。


 フォローはしていない。通知も入れていない。二回はじけば向こうから出てくる。並べているのはアプリで、俺はそれを受け取っている側にすぎない。仕組みがそうなっているものに、俺の意思を読み取られても困る。


 ゆうべの投稿は、カフェのテーブルだった。ベージュの爪の先と、アイスコーヒーと、チーズケーキが斜めから撮られていて、文字は「最近のお気に入り」だけで、頭に小さくPRとある。それで、いいねが一万二千ついている。


 広告だと書いてあるぶん、まだ誠実なほうだと思う。うまいのは、何がお気に入りなのかを最後まで書かないところだ。爪だと言えば爪の話になるし、ケーキだと言えばケーキの話になる。何も言わなければ、見た人間が勝手に、自分の見たいほうを読む。そういう設計とも知らずに、みんな素直にいいねを押していく。そっちのほうが、よほど面白い。


 コメント欄を開く。


『かわいすぎ』

『今日も癒やされました』

『ミナちゃんと一緒にケーキ食べたい人生だった』


 人生だった、って何なんだろう。過去形にして自分の願望を勝手に終わらせて、しかも終わらせたことをわざわざ本人に読ませている。終わらせたなら黙っていればいいのに、終わりましたという報告を送りつける神経が、俺には理解できない。


 こういう文章を書く人間にはなりたくない、と思っているうちに、品川で乗ってきた客のコートに押されて、立ち位置がずれた。画面を消して、ポケットに入れる。


 うちは医療機器の卸で、血圧計と体温計とパルスオキシメーター、あとは往診用の鞄みたいなものを、調剤薬局や個人でやっているクリニックに入れていく。名前を言っても誰も知らない会社だし、扱っているものも、誰かが死ぬか死なないかを直接どうこうするような代物ではない。俺は五年目で、都内の東側を回っている。


 その日は中野さんの運転で得意先を回って、帰りに環七が詰まった。


「宮下、腹減ってない?」

「さっき食ったばっかじゃないですか」

「あれ九時な。九時に食ったもんは昼には残ってねえの。若いからわかんないんだよ」

「四つしか違わないでしょ」

「四つはでかいんだって。三十過ぎるとさ、燃費が」


 中野さんはダッシュボードの菓子パンの袋を片手で開けようとして、ハンドルに肘をぶつけ、それで話をやめた。信号が変わっても、前の車は動かない。俺はその隙にスマホを見た。更新はない。いつも夕方に上がるから、まだのはずだった。


「なに見てんの」

「ニュース」

「株?」

「そんな金ないです」

「俺もないわ」


 中野さんは笑って、結局その袋を俺に渡してきた。開けてやるとメロンパンで、車の中が一気に甘い匂いになり、それは信号待ちのあいだじゅう消えなかった。


 会社に戻ると、河西(かさい)がサンプルの段ボールを開けて検品をしていた。二年目で、事務と内勤の営業をまとめて押しつけられている子だ。


「宮下さん、これ知ってます?」


 スマホの画面をこっちに向けてくる。まつ毛の美容液らしかった。


「知らない」

「いますごい流行ってて。二か月で伸びるらしいんですよ」

「伸びてどうすんの」

「どうするって、伸びるんですよ、まつ毛が」


 河西は画面を戻して、ガムテープをはがしにかかった。俺はそこで、言わなくていいことを言った。


「ああいうの、よくやるよな」

「ああいうの?」

「顔載せて、金もらって、自分を商品みたいにしてさ。あそこまで行くのに、どんだけ承認欲求こじらせたんだろって思うけど」


 テープをはがす音が続いた。河西は顔を上げずに、


「宮下さん、詳しいですね」

「え?」

「わたし、まつ毛の話しかしてないんですけど」


 それには答えなかった。自分のデスクに戻って見積もりの続きを打ち、単価の欄を打ち間違えては直した。


 家に着いたのは夜遅くだった。ファミマの豚汁を電子レンジに入れて、待つあいだにおにぎりの袋を開ける。シンクにはコップがいくつも溜まっていて、底に麦茶が残ったままのものは、いつから置いてあるのか覚えていない。


 テレビは点けない。ローテーブルにスマホを立てかけて、飯を食いながら画面を見る。夕方に上がっていたのは、部屋着でソファに座っているやつだった。グレーのスウェットで膝を抱えていて、文字は「今日はなんにもしなかった日」。


 なんにもしなかった日を、わざわざ報告する必要があるのか。俺だって今日はなんにもしていない。得意先を回って見積もりを出して、後輩に嫌な顔をされた。誰もいいねは押さないし、押されたら気持ち悪い。


 豚汁の油が唇に残ったのをティッシュで拭いて、そのティッシュをテーブルの端に置いた。寝る前にもう一度開くと、いいねはチーズケーキのときを超えている。ティッシュは朝までそこにあった。


 アプリで会った女と、飯を食いに行ったことがある。


 新橋の焼き鳥と、向こうが選んだ渋谷のイタリアン。よく喋る子で、こっちが黙っていても会話が止まらないのは助かる。渋谷の店で、自分の写真を見せてきた。前の夏に行った沖縄の海で、俺が見ても加工が入っていると分かる程度には、顎の線が細い。


「盛れてるでしょ」

「わかんないけど」

「わかんないってなんですか」

「元を知らないから」


 向こうは、たしかに、と言って笑った。笑ったあとで、口数が減った。店を出て駅まで並んで歩いて、改札で、じゃあ、と言って別れる。少し間を空けて、こっちから前に話に出た店の写真を送った。既読は付いて、それきりになった。


 好かれるために何かを差し出すくらいなら、一人で飯を食っていたほうが精神衛生上ずっといい。そのときもそう思ったし、今もそう思っている。トーク画面を開くたびに、俺の送った店の写真の横に出ている既読の字は、しばらく消えなかった。消えるわけがない。表示なのだから。


 ミナの休止の投稿が出たのは木曜の夜だった。


「いつも見てくれてありがとうございます。少しだけお休みします。元気です。またすぐ戻ってきます」


 こういうのは、すぐに戻ってくる。休みますと言って、大丈夫ですかと言わせて、心配のコメントを数えて、何事もなかったみたいに帰ってくる。何度も見たというより、そういう仕組みなのだと知っている。画面を消して、風呂に湯を張った。湯が溜まるまでのあいだにもう一度開くと、コメントは四百件を超えていた。


 金曜の朝、電車で名前を入れて探した。こっちから探しに行くのは、見はじめたころ以来だ。いちばん上は昨日の文字の投稿のままだった。土曜の昼も、日曜の夜も同じで、月曜の深夜には、過去の投稿を遡っていた。


 今年の冬の、どこかの旅館。去年の夏の海。その海の一枚より前に行くと、写真が急に下手になって、文章がやたらと長くなる。バイト先の店長の愚痴が書いてある。誰も反応していない。そのころのほうが人間っぽいな、と思って、人間っぽいかどうかを決めているのは俺のほうだと思い直した。


 気づいたら、外で新聞配達のバイクが止まる音がしていた。


 その日は当然眠くて、取引先の薬局で在庫を数え間違えた。薬剤師の先生に、宮下さん今日ぼんやりしてるねと言われて、すみません暑くてと答えたら、笑って冷たい麦茶を出してくれた。うちのシンクに置きっぱなしのやつと同じ色だ。


 帰りの車で中野さんが寝てていいぞと言うので、大丈夫ですと答えた。実際、眠くはなかった。目が乾いているのと眠いのとは別の話だ。


 その週は一度も更新がなかった。暇さえあれば開いて、そのたびに同じ画面だった。開くのは、次は変わっているかもしれないからで、変わっていないことを確かめたいからではない。


 検索窓に、ミナの名前と、休止、と入れてみた。


 まとめサイトが出てきて、そこから掲示板に飛べる。そういう場所があるのは知っていたし、どういう連中がいるのかも想像はついていた。


『ミナ休止の理由これだろ』

『ベランダの写真に看板写り込んでたやつな』

『あの歯医者、都内で二軒しかない』

『もうマンションまで出てるぞ』

『エントランスのタイルの色でわかった』

『脱いで稼いでる売女(ばいた)が被害者ヅラすんな』

『本人めちゃくちゃ怖がってて草』

『別に何もしてないのにビビりすぎ』


 こういうことをする人間の気持ちが、俺には分からない。費用対効果で考えれば一瞬で答えが出る。何もしていない相手の住所を割り出したところで、そいつの人生には一円も入らないし、一ミリも近づけない。近づいたら通報されて終わる。それを何時間もかけてやって、しかも匿名で自慢している。時間の使い方として終わっているし、こういう連中のせいで、普通に見ているだけの人間まで同じ目で見られる。迷惑な話だ。


 という文章を頭の中で何周もさせてから、俺は地図アプリを開いた。


 開いたことに理由はない。理由がないなら、これは何かをしていることにはならない。


 歯医者の名前は、二軒ともすぐに出た。片方は駅前のビルの上のほうで、看板の形が違う。もう片方は川沿いだった。


 ストリートビューに切り替えて、道を進む。指で送るたびに景色が飛ぶ。酔いそうになるのをこらえて送っていくと、背の高いマンションが出てきた。非常階段の手すりが緑だった。


 去年の夏にベランダから撮られた夕焼けの写真に、同じ緑が写っていた。画面を回して、建物を見上げる形にした。真ん中あたりの階に、洗濯物の干してある部屋がある。それがミナの部屋かどうかは分からない。分かったところで、行くわけでもない。


 ずっと画面の中にしかいなかった人間の生活が、この道の、この建物の、どこかの部屋で続いている。そう思ったら腹の底が急に落ち着いた。場所さえ分かっていれば、もう探さなくていい。この一週間に使った時間の元は、これで取れた。


 スマホを枕元に置いて電気を消した。目を閉じると緑が見えた。


 次の日の夜、いつものように二回はじいても、ミナは出てこなかった。代わりに、膝を抱えて座る知らない女が、一人ずつ順番に流れてくる。名前で探すと、「このページはご利用いただけません」と出た。


 あの晩のコメントも、バイト先の愚痴も、まとめてどこにもない。その短い文を、しばらく読んでいた。読むところが、そこしかない。


 その夜から、同じ名前のアカウントを上から順に開いていくようになった。思っていたより、ずっと多い。アイコンを見て、投稿を見て、違ったら戻る。毎晩やった。飽きはしなかった。


 何日目かの夜に、それは出てきた。アイコンは川の写真で、顔はない。フォロワーは三十七人で、投稿はまだひとつしかない。


「こんばんは。また少しずつやっていきます」


 俺は布団の上で起き上がった。三十七人しかいない。つまり俺は三十八番目にこれを見つけた人間で、いや、フォローしていないのだから番号のうちにも入っていない。入っていないほうが、むしろ正しい気がした。


 コメント欄を開いた。まだ誰も書いていない。入力欄の左に、自分のアイコンが出ていた。作ったときから変えていない、灰色の人の形だ。コメントを打とうとするのは、これが初めてだった。何を書くか、たぶん三分は考えた。心配していたと書くのは重い。待ってましたは、待っていた人みたいで嫌だ。長い文章を書く人間にはなりたくない。


 結局、これだけ打った。


 『おかえりなさい』


 送信を押す前に、画面を引っ張って更新した。コメントが付いている。


 『おかえりなさい』


 コメント欄でよく見かける名前だった。俺が打ったのと、まったく同じだ。入力欄の文字を、後ろから消していった。同じことを書いても、時間の無駄だ。


 翌朝、歯を磨きながら開くと、あのコメントの下に返信が付いていた。


『ありがとうございます』


 歯ブラシを口から抜いて、シンクの縁に置いた。置いてから、そこが汚いところだと気づいたが、拾い直すのは後でいいと思った。


 読んで、また読んだ。この人は二十一万人に向かって喋る人間で、俺はそのうちの一人でしかない。宛先に付いているのも、あのよく見かける名前だ。それは分かっている。分かっているが、返事のすぐ上には、ゆうべ俺が打って消したのと同じ「おかえりなさい」がある。


 スクリーンショットを撮った。あの名前ごと写っている。新しくフォルダを作って、そこに入れた。フォルダの名前は適当に付けた。人に見られて困るものでもないし、人に見せる予定もない。


 いつもの電車の、いつものドア横でミナのページを見ると、フォローのボタンが「フォロー中」になっている。すぐに閉じて、フォルダのほうを何度か開いた。開くたびに同じ画像が出てくる。当たり前のことなのに、そのたびに肩が少し下がった。


 金曜、河西に新しいパルスオキシメーターの説明をした。指を挟むと数秒で数字が出るやつで、前のモデルより液晶が大きい。


「宮下さん、自分でやってみてくださいよ」

「なんで俺」

「見本がないと説明できないです」


 人差し指を挟んだ。赤い光が指の腹を通って、液晶に九十八と出た。その下に、脈拍の七十二。


「けっこう正確なんですね」

「そりゃそうだろ、そういう機械なんだから」

「おー、生きてんな、宮下」


 通りかかった中野さんがそれだけ言って、給湯室に消えた。河西が笑ったので、俺も笑った。


 そのときポケットが震えた。通知は、いつの間にかオンになっていた。


 左手でスマホを出して開く。新しい写真が上がっていた。ベランダではなく、部屋の白い壁の前だった。いいねの数は、画面を上から引っ張って離すたびに増えていく。引っ張っては離した。


「宮下さん、それ、ずっと挟んだままですけど」


 河西が身を乗り出して、液晶をのぞいた。


「脈、百超えてません?」

「暑いんだよ、ここ」


 外した人差し指の腹に、四角い跡が残っていた。

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