106.ゼル
ルベルドは立ち上がった。
壁に手をついて体を起こす。レオニードがこちらに来た。
「ルベルド、大丈夫」
「……問題ない」
「嘘をついてはいけない。あの男との戦闘で君も、私だって危なかった」
「……少しだけ問題がある」
「正直に言えました。よかった」
レオニードが軽く笑った。それからスルクの方を見た。
「先程の——リライトと言っていましたね」
「そう、リライト。命名は俺」
「それが、あなたの力ですか」
「……ルベルドも今練習中だ」
「あの一瞬、動きを止めたのも」
ルベルドは頷いた。
スルクがこちらを振り返った。いつもの笑顔が戻っていた。しかし少し——疲れた色が混じっていた。
「危なかったね」
「……なぜ動いた。観戦すると言っていたはずだ」
「観戦はしてたよ。よく戦ってたと思う」
「では、なぜ」
「レオニードさんに向かった一撃が、ちょっと本気すぎた。あれが当たれば……まずかったと思って」
スルクが頭を掻いた。
「そもそも、俺が完全に観戦できるとは思ってなかったかな。自分の弟とその師匠が危ない目に遭ったら、手を出すよ」
(……俺の師匠、という言い方をした)
ルベルドは少し止まった。
「この人もお前にとっては大事なやつだろ。それに今回の件に巻き込んだのは俺達だ。守る責任がある」
「……ありがとう」
否定できなかった。だから素直に感謝をした。
「うん」
スルクはルベルドの言葉に満足そうに頷いた。それからズームの傍に近づく。
「意識を失っている。ただ——」
スルクが少し眉を寄せた。
「刻印を砕いた。これが体に与える影響が……どうなるかは分からない」
「話を聞き出せるか」
「やってみる」
神獣が動いた。
戦闘の間、祭壇の傍でじっとしていた神獣が、ズームの横たわる場所に近づいてきた。大きな体がゆっくりと傾いて——ズームを見た。
「——哀れなものだ」
神獣の言葉が神殿に満ちた。
「——この者に刻まれたものは、術式ではない。命そのものに刻まれた呪いだ」
「呪い、か」
スルクが静かに言った。
「……刻印の性質が、普通の強化術と違うと思っていた。体内に打ち込む技術は禁忌だが——それでも限度がある。あれは、そういう次元ではなかった」
「——神の力を奪うために設計された呪いだ。神に近づいた者が、より強く命を燃やす仕組みになっている」
(……だから神殿に来た時に暴走が激しくなったのか)
ルベルドは頭の中で繋がった。ズームが神殿に辿り着いた時、刻印が反応した。
奴らは神殺しを謳っているが、刻印を使ったとてまともに勝てるような相手ではない。しかし実際に神を前にするとその気配に呼応して、設計された通りに命を燃やし始めた。その結果があの暴走だ。刻印の改善のどこかの段階でそう進化させた。
「……助けることはできないか」
神獣に向けて、ルベルドは言った。
「——でき得ぬ。呪いは既にこの者の命の根に及んでいる。私が手を加えれば、かえって早まる」
「……そうか」
スルクがズームの傍に片膝をついた。
「意識は戻るか」
「——刻印を砕いたことで、一時的には戻る。ただし」
「短い、ということか」
「——そうだ」
ルベルドがズームの肩に手を置いた。
「……ズーム」
呼びかけた。
しばらく、何も起きなかった。
ズームの目が、ゆっくりと開いた。
焦点が、今度は定まっていた。最初に神殿に来た時の、焦点のない目とは違う。人の目に戻っていた。
「……ここは」
「神殿の中だ」
ルベルドが静かに言った。
「……お前は」
「意識が安定しないか。お前には何度も世話になったが。……ルベルドだ」
ズームが少し動こうとした——動けなかった。体が言うことを聞かないようだった。
「……俺は、何を」
「色々迷惑なことをした。でも今は何もしなくていい」
「……俺の、刻印が」
スルクが前に出る。
「砕いた。悪かったとは思っていないが、申し訳ないとも思ってない。刻印に手を出した末路だ」
ズームが小さく笑った。笑顔とは言えない。何に笑ったかと言えば、自分自身を。
「……砕かれなくても、どうせ終わりだった。組織に入った時から、分かっていた。でも——」
ズームが少し止まった。
「……ゼル、に、言われた。これが、俺のできることだと」
(……ゼル)
ルベルドは静かに聞いた。
「ゼルとは誰の事か言えるか」
「……創設者、だ。組織を、作った人間。俺が、すべてを、捧げると誓った人間」
「……!名前か。本当の名前か」
「……分からない。俺たちは、ゼルと呼んでいた。顔も見たことが、ない。声だけを聞いた。しかし——」
ズームの目が閉じかけた。
「……話は、まだあるか」
スルクが聞いた。
「……ゼルは、生きていない。もういない」
「……生きていない?」
「……もう、ずっと前に。ゼルは——ゼルは、人ではなかったのかも、しれない。それでも、俺たちは——」
ズームの体に、変化が起きた。
最初は手の甲だった。皺が増えた。深く、細かく——皮膚が古くなった。それが腕に広がり、顔に至った。
(……老化が始まった?)
急速だった。ほんの数秒の間に、ズームの顔が変わっていった。若い顔が、老いた顔に——さらに老いた顔に。
「……ゼル」
ズームが言った。
「……おれは、ちゃんと、やっただろうか」
返事は、なかった。
「……ゼル、おれは——」
声が、止まった。
体が動かなくなった。
もう声もなかった。
神殿に、静寂が戻った。
誰も何も言わなかった。
スルクがゆっくりと立ち上がった。
「……ゼル、か」
静かに言った。
「……生きていない、と言ったな」
「ああ」
ルベルドが頷いた。
「ずっと前に、と言っていた。しかし組織は動いている。それはどういうことだ」
「……俺には分からない。ただ——ゼルが生きていないとするなら、組織を動かしている何かは——ゼルの意志を継ぐ者か、あるいは」
「あるいは」
「ゼルそのものが、別の形で在り続けているか」
レオニードが静かに言った。
「……それは、人の話ではなくなりますね」
「そうなる」
神獣が動いた。
「——話は終わったか」
「まだ終わっていないが、聞けることは聞いた」
「——ならば、私はこれより休眠に入る。条件を満たした。信頼は確認した。神を守ろうとする者よ——その心は届いている」
「……ありがとう」
神獣が祭壇の方へ向かった。大きな体が、石畳の上を音もなく動く。
「——一つだけ言っておく」
神獣が止まった。
「——ゼルという者は、確かに人の世界に一度存在した。しかし人であることを、そこで失った。何を選んだかは問うまい。ただ——その名を口にした者は、既に限界だった」
「……それはどういう意味だ」
「——限界まで使われた者が、最後に呼ぶ名前。それがゼルだ。組織の中にいる者たちが、知らず知らずに縛られているものの名前だ」
神獣がそれだけ言って、祭壇の奥に消えた。
光が少し変わった。神殿全体が、静かになった。深い眠りに入ったような、安らかな重さが空間に満ちた。
スルクが天井を見た。
「……眠りについた、か」
「ああ」
「よかった。これで、しばらくは安全だ」
「しばらく、だな」
「そうだな」
スルクが水面を見た。帰りの道だ。
「……ズームのことを、どうする」
「ここに置いていくか」
「それしかないと思う。この神殿の中で眠らせる。神獣が休眠した場所だ。悪くない」
ルベルドは何も言わなかった。
ズームという人間のことを、ルベルドはほとんど知らなかった。二度戦った。最初の神域実習の時と、今日。どちらも、対話ではなく戦闘だった。
しかし最後に聞こえた言葉は——戦った相手の声ではなかった。
(……誰かに、認められたかったのかもしれない)
「行こう」
スルクが水面に向かった。
ルベルドとレオニードが続いた。




