Episode20 巨獣出現
〈無常観〉
この世の全てのものは常に変化し続け、同じところにとどまることはないという考え方。
◇
サーベイヤー大隊が第2掘削基地に入ったのは、翌日の朝だった。
昨晩の作戦は成功した。
多脚戦車部隊──混成C中隊、混成D中隊による東西の陽動戦も、隙をついてのマーズジャッカル空挺隊による205高地突入も、その後の軌道砲面制圧射撃もすべて上手くいった。
しかし。
被害もそれ相応のものになってしまった。
多脚戦車と装甲ローバーはおよそ半分が大破ないし損傷し、最盛期は40機近くを有した新兵器マーズジャッカルも今は見る影もない。
期待の新編精鋭大隊は、“コンディションL5”の発動からわずか一週間足らずで数を大きくすり減らしてしまったのだ。
大隊はその被害の大きさのため、作戦後すぐに基地救援に向かえる状態ではなかった。
大隊長のアーチャー大佐は部隊を一旦後退させ、部隊の再編や負傷者の後送、居留地からの増援や補給を受けさせた。
それに予想以上の時間がかかってしまい、入城は朝にまで持ち越されたのだ。
現在、日は高く登っている。
相変わらずくすんだ色の空であり、太陽の周りにぼんやりとした光のリングを形成していた。
降り注ぐ鈍い日光。
そんな中。
第2掘削基地周辺には、軌道砲弾が穿った穴を避けるように無数の戦術輸送艇や輸送機が着陸し、基地の再建に必要不可欠な資材や技術士を揚陸していた。
基地の東側と南側は盆地であるだけにその拠点となっており、特に南側には火星に五隻しか存在しない航宙揚陸艇の姿も見て取れた。
──せっせと動くそれらを、美沙希はぼーっとした目で見つめている。
彼女は自らの膝を抱え、吹きさらしのシートの上でうずくまっている。コックピットのハッチは解放されており、作業中の職員から直接見られる状態だった。
彼女には昨夜の記憶がなかった。
分かっていること言えば、妙に身体が重いことと、自身に喜怒哀楽が消失してしまっていることだだけだ。
妙なことにその原因を知りたいと思わないし、記憶にない昨晩の出来事をイネスに聞きたいとも思わなかった。
『生気がない』
という言葉が正しいだろう。
彼女の状態はまさにその言葉に尽きた。
「ミサ…」
隣で同じく警戒に当たっているイネスが心配そうな顔を向けてくる。
モニターに映るその顔は暗く、陰りしかない。
美沙希は薄々気づいていた。
南側の救援拠点を警備している戦力は、多脚戦車8輌とマーズジャッカル3機。
マーズジャッカルは美沙希とイネスの他にはフリントという名の熟練操縦士が操る機体だけだ。
本来ならば彼の代わりにいるはずのエヴァがいない。
現在戦力を保持しているマーズジャッカルは5機のみ。
アーチャー大佐の大隊長機仕様と、美沙希、イネス、フリントの機体と、あとはフリントと同じく熟練操縦士のマーカスだ。
エヴァの名はない。
美沙希は自らの愛機のコックピットでうずくまりながら、何も考えていなかった。
ただ無気力に作業を眺めている。
残存機の中にエヴァがいなくとも、特に気にもならない。彼女が今どこで何をしているかなど、思考の一端にもなかった。
彼女は深層心理で、昨晩以前の状態、すなわちエヴァの生存を強く渇望していた。
だが昨晩は過ぎ、彼女は凄惨に死んだ。
彼女はそれを認めたくなく、精神防衛的に、かつ無意識に記憶の一部を消去し、自身を無生気の権化へと仕立てている。
意図的にエヴァについて考えず、悲しい記憶を頭の奥に追いやろうとしている。
精神崩壊を防ぐ彼女なりの防衛策だった。
「時間だ。交代しよう」
その時、多脚戦車の1台──D中隊の隊長車輌に乗るラングスドルフから連絡が入った。
予定の時間が経ち、警戒任務の交代時間が来たようだ。
「…はい」
やや間を開けて美沙希は答え、コックピットのハッチを閉める。機体を起動させ、簡易休憩所がある基地へ足を進めさせた。
パイロットの意思が作用したかのように、マーズジャッカルの歩き方に覇気というものがない。
それの悲しそうな背中を、イネスはただ見ていることしかできなかった。
航宙揚陸艇が頭上を通過する。
◇
第2掘削基地は既に復旧されつつあった。
火星開拓局が復旧に総力を注いだのもあるだろうが、火危生が基地を包囲するだけに留め、施設や人員を攻撃しなかったのが大きい。
それでも、基地守備隊は大損害を受けていた。
基地防衛第2混成連隊はマーズサーベイヤー大隊が救援に駆けつける前に壊滅しており、損害は1500名を下らない。
マーズジャッカルから降りた美沙希たちが向かっている休憩所は、基地内に設けられたその連隊の元庁舎だった。
基地内に入った美沙希は周りを見渡す。
居留地以上に無機質な建造物がコンクリートで舗装された大地にいくつも建てられていた。
基地には直径50mを超える穴がいくつも掘られており、巨大クレーンが林立していると聞いていたが、連隊庁舎があるこの区画にそういったものはないようだ。
掘削区画と居住区画を明確に線引きしているのだろう。
基地の門をくぐってすぐのところに庁舎はあった。
庁舎の左右には警備職員がコイルライフルを持って立っているが、両人とも酷く披露している様子だった。
玄関のところに気密服姿の男性が立っていた。
彼は先頭を歩いていたラングスドルフに敬礼し、ラングスドルフも返礼する。
「守備隊の高瀬一等星尉だ」
男性はそう言った。
ラングスドルフと比べればこじんまりとしているが、良い具合に引き締まった体躯を持つ日本人だった。
彼は陰のさした顔の美沙希や疲れ切った春樹たちを見渡し、続けた。
「火星危険生命体の包囲網を解いてくれたことに感謝している。我々は壊滅して絶望的な状態だったからな…。心ゆくまで休んでほしい」
「サーベイヤー大隊D中隊長、オットー・ラングスドルフ二等星尉です」
ラングスドルフも言った。
彼は作戦終了後に野戦昇進しており、少尉から中尉に上がっている。
続けて口を開く。
「交代時間につき、休憩所を使用したく参りました。ご厚意、痛み入ります」
高瀬はおう、と答え、庁舎内に手招きした。
美沙希たち警戒隊の隊員らはラングスドルフを先頭に庁舎に入った。
途中にあるエアロックを済ませ、バイザーヘルメットを収納する。
「ぷは!」
昨日の午後からずっと気密服の淀んだ空気しか吸えてこなかったため、皆が喜色を浮かべている。
ラングスドルフも笑みを浮かべながらそれを収納し、赤みがかかった髪の毛をかき上げた。
その隣にいた春樹やレイフも忌々しいバイザーを上げ、昨晩の戦闘を生き残った他の隊員たちもヘルメットを収納して新鮮な空気を堪能した。
だが、1人だけ違う反応を見せた隊員がいた。
バイザーヘルメットを収納したイネスは美沙希に顔を向けた。
皆と同じく顔周りの強化プラスチックを収納した美沙希は、深呼吸するわけでもなく、笑みを浮かべるわけでもなく、口を押さえて苦しそうに呻いた。
深刻そうにしていた顔がさらに歪み、顔色がみるみるうちに青くなってゆく。
「どうしたの、大丈夫!?」
その様子を見ていたイネスは美沙希に駆け寄り、背中をさする。
様子を見ていた他の隊員の視線が集まり、春樹も歩んでくる。
「大丈夫か?」
春樹が肩に触れようとした時、彼女は床に崩れ、嘔吐した。
イネスは目を見開き、春樹は手を引っ込めた。
「医療班を」
「わかった」
ラングスドルフが落ち着いた声で高瀬に言い、庁舎の主である高瀬は傍の衛兵に目配せした。
美沙希は涙をこぼしている。
無理もないか…ラングスドルフは火星の現実に向き合った哀れな少女を見下ろしつつ、思った。
庁舎内に漂う異臭。
それは微細すぎ、春樹やレイフ、嗅ぎ慣れていないはずのイネスでさえ気がつかない。
唯一、ラングスドルフは気づいていた。
血の匂い。
恐らく、この庁舎は長らく第2混成連隊の野戦病院として機能していたのだろう。
清掃はされただろうが、床や壁には、強力洗剤でも落としきれなかった数多くの血痕が残っている。
懸命な換気もしただろうが、当然というべきか、こびりつくように匂いは残っていた。
その微量な匂いを嗅いだだけで、美沙希は胃の底から突き上がるとてつもない吐き気に襲われたのだった。
同時に彼女は思い出した。昨夜の惨状を…。
絶望の極みに達した顔のエヴァ
2つに分かれた華奢な身体。
千切れた切断部から大量に流れる鮮やかな血。
それらに群がる怪物たち。
記憶を蘇らせても美沙希は悲鳴を上げなかった。
最後まで残っていた理性が歯止めをかけたからではない。完全に理性を失ったからだった。
意識を失い、ぐったりとイネスにもたれかかる。
他の隊員はただ黙り、ラングスドルフと同じように哀れな目を向ける。
レイフだけは見るに耐えないようで、目を逸らし、舌打ちをした。サングラスの向こうの表情は見えない。
春樹は立ち尽くしていた。
彼にとっては過去の自分を見ているようだった。
過去の自分は宇宙飛行士という夢に酔い、自分が世界を変えると本気で思っていた。
そのおかげで仲間を失い、自分も心の中から何かを失った。
春樹は、22期生の彼女たちがこうなると薄々感じていたことを忘れない。
美沙希が過去の自分とそっくりだと気づいた、あの親睦会の日から。
だからこそ、かける言葉が見つからなかった。
自分の自惚れによって仲間を失った直後、何を言われようと過去の自分はどうも思わなかった。
ただ黙って自分の心の虚無をもてあそぶことしかできなかった。
「生は尊いものだ」
高瀬大尉がひとりごちるように言った。
ややあって、だが…と続ける。
「同時に無常なものでもある。私の相棒は今朝死んだ。両眼を失明し、腹を裂かれ、大隊が到着する前に苦しみながら死んでいった…。『死』は早いか遅いかだけで、誰にでも訪れる」
大尉もの階級の人間が言う言葉ではなかった。
だが、それが火星の過酷な惨状を最も示しているといえよう。
高瀬は30ソル以上を火星危険生命体の脅威にさらされながら過ごしてきた。
当たり前のように死んでゆく部下たち、すり減る弾薬や食料。捕食者が基地の外に大量に蠢いているという環境下での消耗戦。
もちろん彼の中隊は壊滅し、連隊は崩壊した。
そんな環境を戦い抜いた大尉は『生』が尊いものであるという常識の他に、無条件に優先されなければならない存在であることを綺麗に忘れてしまっていた。
彼は『無常観』という言葉を使い、死を正当化しようとしている。
一部を除く隊員たちは、それで得心したように頷いた。
誰も彼もが、生への執着が鈍化している。いや、狂っていると表現した方がいいか。
春樹はそう思った。
そして自分もその一人…と思い直し、苦笑した。
この後の休憩時間は、全員が休むに休めない時間となった。
休憩所は床に固定された長机がいくつか並び、それに多数の椅子が従っている。
部屋の脇にはいくつかの仮眠スペースがあり、薬を飲まされて落ち着いた美沙希が横たわっていた。傍にはイネスが心配そうに座っている。
春樹はやや離れたところからそれを見ている。
机の上に上半身を乗り出し、首を横に向けた姿勢だ。
火星の過酷な戦いについて考えているが、結論は出ないだろう。
彼の向かいには腕を組んだレイフ。
左前には肘をついて空中の一点を見つめているラングスドルフがいる。
他の隊員も椅子に座ったり、喫煙所でタバコを吸ったり、意味もなくウロウロしたりと、それぞれの時間を過ごしていた。
全員の右手首に巻かれた小型デバイスに一斉に通知が来たのは、休憩時間が残り30分を切った時だった。
突然警報音がそれぞれの端末から鳴り響き、一同の目が自分も右腕へと向けられる。眠っていた隊員はその音で跳ね起きた。
春樹は端末からホログラムで浮かび上がる文字の羅列を見て息を呑んだ。
" CONDITION level7"
現在発令されているコンディションlevel5の二段階上の警報であり、危険度レベルは最大のものとなる。
火星開拓史上初めて発せられた『非常事態宣言』と言えるだろう。
休憩所に高瀬が駆け込んでくる。
高瀬は、士官であり、かつ自らと同じく事情を知るラングスドルフを見た。
まさか…!と、ラングスドルフは立ち上がった。
高瀬は頷く。そして恐怖にわなないた自らの声を押し殺し、冷静を装いながら口を開いた。
「"アスラ"が出現した。オリンポス山の火口からだ」
美沙希。イネス。
二人の運命の歯車がが再び、動き始める。
ついに姿を現した『究極の火危生』こと、"アスラ"。
古代インドの阿修羅から名を取られたそれは、火星人類の史上最大最強の脅威だった。




