始まり
如月玲奈に呼び止められたのは、放課後の教室だった。
「高瀬君、ちょっといい?」
自分の名前だと気づくまで、返事が遅れた。
帰り支度をしていた手を止める。
窓際に、如月が立っていた。
肩まで伸びた黒髪。整った顔立ち。成績はいつも上位で、体育祭では実行委員、文化祭では揉めていたクラスをいつの間にかまとめていた。
たぶん、学年で彼女を知らない奴の方が珍しい。
そして俺は、同じクラスになって四か月。
二人きりでまともに話した覚えがない。
「俺?」
「うん」
如月はそこで黙った。
何かの頼み事だと思った。
プリントを運んでほしいとか、欠席者に連絡してほしいとか。俺に回ってくる話なんて大体そんなものだ。
けれど。
「明日、学校休めない?」
「……何?」
「明日。学校」
「そこは聞こえた」
「そっか」
「理由の方」
如月は答えなかった。
窓の向こうでは野球部が声を上げている。
教室の後ろでは橘たちがまだ騒いでいて、水瀬は友達とスマホを見ていた。
いつもの放課後だった。
その中で、如月だけが妙に居心地悪そうに見えた。
「体調悪そう?」
「そうじゃない」
「じゃあ明日なんかある?」
「……ある、と思う」
「何が?」
「分からない」
「分からないのに休めって言ってる?」
「うん」
頷かれると困る。
冗談なら笑うところだろう。
でも如月は笑わなかった。
「無理だろ。親になんて説明するんだよ」
「風邪」
「今めちゃくちゃ元気だけど」
「お腹痛いとか」
「如月が仮病勧めてくるとは思わなかった」
「……私も」
「自分で言うのかよ」
ようやく口元がわずかに動いた。
笑ったというより、言いすぎたことをごまかしたように見えた。
「やっぱり無理だよね」
「まあ」
「そっか」
これで終わりかと思った。
如月は鞄を持ち上げる。
けれど、教室を出る前に止まった。
「高瀬君」
「まだある?」
「もし」
開いた窓から風が入った。
白いカーテンが膨らみ、俺たちの間を横切る。
「もし明日、知らない場所で目を覚ましても」
カーテンの向こうから声がした。
「自分のことを、全部すぐに話さないで」
カーテンが落ちる。
「……何それ」
如月は何も言わない。
「異世界にでも行くの?」
冗談のつもりだった。
如月の表情が固まった。
ほんの一瞬だけ。
「そういうことを言ってるんじゃない」
「じゃあどういうこと?」
「私も分からない」
「さっきからそればっかりだな」
「ごめん」
また謝られた。
「謝ってほしいわけじゃないけど」
「分かってる」
それ以上は続かなかった。
「高瀬ー」
後ろから橘の声。
「帰らねえの?」
「ああ、今行く」
「如月と何話してたんだ?」
「仮病の相談」
「は?」
橘の顔を見て、如月が先に教室を出た。
俺はその背中を追わなかった。
*
翌朝。
俺は普通に学校へ来た。
熱はない。
腹も痛くない。
如月を信用しなかったわけじゃない。
何を信用すればいいのか分からなかっただけだ。
教室はいつも通りだった。
橘が前の席に腰掛けて喋っている。
水瀬は英単語帳を開いている。
担任の吉岡先生は教卓で出席簿をめくっていた。
如月もいた。
友達と話している。
昨日の会話だけが、取り残されているみたいだった。
「高瀬」
橘がこっちを見る。
「一限の小テスト」
「忘れてた」
「俺も」
「仲間みたいな顔すんな」
「二人なら怒られても半分だろ」
「ならない」
チャイムが鳴る。
「ほら席つけー」
吉岡先生に追われ、みんなが自分の席へ戻っていく。
俺も座った。
黒板。
机。
窓。
誰かの欠伸。
椅子を引く音。
「相川」
「はい」
「石田」
「はい」
出席が取られていく。
その途中。
如月が顔を上げた。
時計ではない。
窓でもない。
足元を見ている。
「如月?」
近くの女子が声をかけた。
返事はなかった。
「高瀬」
「はい」
俺が答えた直後。
床に一本の光が走った。
「え?」
白い線が机の下を横切る。
曲がる。
枝分かれする。
数秒で、教室いっぱいに大きな円が描かれた。
「何これ!」
「先生!」
椅子が倒れる。
誰かが立った。
それにつられて何人も動く。
「走るな! 落ち着け!」
吉岡先生の声も届かない。
俺も席を立った。
昨日の如月の言葉が戻ってくる。
知らない場所。
「如月」
彼女を見る。
如月は床の光を見つめていた。
顔色が悪い。
「これ、知ってたのか」
「……」
「如月」
「全部は知らない」
それだけだった。
「何を知ってる?」
答えはない。
「ドア開かない!」
後ろで声が上がった。
男子が扉へ体重を掛けている。
開かない。
「窓!」
佐々木が走る。
「待て!」
橘が追う。
佐々木が窓枠へ触れた瞬間、身体が後ろへ弾かれた。
「痛っ!」
「だから突っ込むなって!」
「そんなの分かるかよ!」
橘が制服を掴んで起こす。
俺もスマホを出す。
圏外。
それだけ見てポケットへ戻した。
誰かが泣いている。
電話を掛け続けている奴がいる。
机の上へ立って窓を確認する奴までいた。
「机から降りろ!」
吉岡先生が叫ぶ。
「全員、なるべく中央に集まれ!」
今度は何人かが従った。
俺も動こうとする。
「高瀬君」
如月に呼ばれた。
「何」
彼女は何かを言おうとした。
でも。
「……ごめん」
「またそれかよ」
光が消えた。
突然だった。
教室に静寂が落ちる。
「終わった……?」
誰かが呟いた。
直後。
身体が落ちた。
床はある。
なのに胃だけが浮き上がる。
「――っ!」
教室が光に裂かれた。
青。
赤。
紫。
黒板の輪郭が歪み、机の形が崩れる。
「高瀬!」
橘。
「悠斗君!」
水瀬の声もした。
振り向こうとしても見えない。
「如月!」
返事はなかった。
光の向こうに、人影だけが見えた。
如月だった。
彼女の唇が動く。
音は届かない。
もう一度。
――ごめん。
そう見えた。
「何にだよ」
返事などない。
如月が消える。
黒板も。
机も。
窓も。
最後まで残ったチャイムの音まで、途中で途切れた。




