第38話 賢者からシアンまで
穏やかな夢に身を委ねている最中、ふと頬に何かが触れるので目を覚ます。ぼんやりとした微睡が、あっ、という声で覚醒した。
「起こしちゃった。ごめんなさい……」
顔を上げると、スカーレットが申し訳なさそうな表情をしている。シアンは体を起こしつつ首を傾げた。
「どうしたんじゃ……?」
「あまりにスヤやかだったので、不安になって息を確認しちゃいました……ごめんなさい……」
「……ああ、なるほどのう」
声を聞きつけて鼻を擦り寄せて来るウィローを撫でつつ、賢者は頷く。スカーレットはシアンが健やかに眠っているのを見て、かつて棺に収まった賢者を思い出してしまったのだろう。
「そんなに心配しなくとも、そう簡単にはくたばらんよ。こうして若さも手に入れたしのう」
「……その見た目で賢者様の喋り方だと、脳がバグりそうですね」
スカーレットがあまりに真剣な表情で言うので、シアンは声を立てて笑った。スカーレットの前だとつい癖で賢者の喋り方をしてしまうが、見た目は七歳のシアンだ。外見と中身の乖離が最も顕著なことだろう。サルビア家の人々には見せられない。
「そうだ!」
思い立ったようにスカーレットが手のひらを合わせた。小気味の良い音に、ウィローも顔を上げる。
「シアン様のお誕生日はいつですか?」
「ん。えーっと……」
スカーレットの明るい笑みを前に、シアンは思わず言い淀んでしまった。彼女はかつて、賢者の誕生日を待っていた。そんな彼女に事実を突きつけるのはあまりに酷である。しかし、言葉を選んで黙り込むシアンに、スカーレットも気付かざるを得なかった。
「もしかして……もう過ぎてしまったのですか……?」
細い指先がわなわなと震えている。その打ちひしがれたような表情に、シアンは思わず笑ってしまった。
「先週の日曜にの。わしの前に顕現するのが数日、遅かったようじゃな」
「くっ、悔しい……! 今度こそお祝いするって心に決めていたのに……!」
「来年があるじゃろ?」
朗らかに言うシアンに、スカーレットはきょとんと目を丸くする。直近の誕生日のことしか考えていなかったようだ。
「その次の年も、そのまた次の年もあるぞい」
「……そうですね。じゃあ、私が一番目に祝いますから!」
「はは、マゼンタと競争じゃな」
「はいっ!」
スカーレットの笑顔が満開になったとき、静かにドアがノックされた。どうぞ、と応えたシアンの声を聞き、マゼンタがおはようの挨拶をして寝室に入って来る。いつも通りに部屋に入って来るマゼンタに、スカーレットはグッと拳を握り締めた。
「負けませんから!」
そう宣言して、辞儀のあとにスカーレットは姿を消す。シアンの着替えを鏡台に置いてマゼンタは不思議そうに首を傾げた。
「なんのお話ですか?」
「来年の話だよ」
話が見えずに首を捻るマゼンタに、シアンは朗らかに笑う。自由に顕現できるスカーレットに分があるようだが、マゼンタもその座を譲らないだろう。それはそれで楽しみなような気がした。
* * *
シアンがダイニングに行くと、ゼニスの姿はなかった。他の五人はすでに着席している。シアンも決してのんびりしているわけではないが、着席するのはだいたい最後になってしまう。ブルーが最後のときもあるため、母と兄姉は起きる時間がそもそもシアンより早いようだ。それだけやることが多いのだろう。
「父様は……」
おはようの挨拶のあと、シアンはセレストに問いかけた。
「まだ寝ているわ。昨日、帰って来るのが遅かったのよ」
(今日はサプライズは遠慮しておいたほうがよさそうじゃな)
オーキッド家の件でなければ寝起きドッキリをしても喜ぶだろうが、今日はまだ寝かせておくほうがいいだろう。ゼニスが疲れている原因は自分だと思うと、起こしてしまうのは申し訳ない。日曜の朝はのんびりしたいものだ。
「今日はいつも通りでいいの?」
ブルーの問いかけに、ええ、とセレストは優しく微笑んだ。
「お父様はあとから来るはずだから、先にお茶していましょう」
「わかった!」
シアンが誘拐されてから数日、父は忙しかったことだろう。その理由を知らないブルーは家族の様子がおかしいことに不安感を懐いていたかもしれない。いつも通りでいい今日に安堵しているようだった。ブルーには申し訳ない、とシアンは思う。ブルーにはシアンが魔法学校でどんな扱いを受けていたか、なぜ誘拐されたか、どうやって戻って来たかを話していない。家族がなぜ騒然としているのか、ブルーはわかっていないのだ。いつもと違う様子に困惑していることだろう。だが、もう少し大きくなってから話したほうがいい。そう思うのはシアンだけではないはずだ。
朝食を終えてリビングに向かう途中、シアンは寂しさのようなものが胸中に湧いて来た。朝食後恒例の父のパワフルハグがないためだ。昨日もそうだったため、何か物足りないような気がした。
「シアン? どうしたの?」
セレストが俯くシアンを覗き込む。
「朝食後に父様に抱き締めてもらえないのは寂しいですね」
「あら。お父様もそれを聞いたらきっと喜ぶわ。あなたを抱き締めることに一日のすべての力を使っているようなものだから」
(そこまでじゃったか……)
「でも、言わないでおきましょうね。あの人、意識するときっと空回りするわ」
シアンとしても、意識して腕にさらに力が入っても困る。あれ以上の負荷がかかったら背骨が折れる気がした。
リビングにお茶が用意されると、いつも通りに家での仕事や勉強の話をした。今日はゼニスが不在のため、セレストが聞き役に徹する。兄妹がシアンの話を聞きたがるのもいつものことで、歓談の時間は和やかに過ぎていった。
「昨日の小テスト、いつもより良い点が取れたのよ!」
ブルーが誇らしげに言う。シアンと競い合うように勉強している効果が成果となって現れ始めているようだ。
「頑張ってるね」シアンは言う。「僕も負けてられないな」
「シアンは負けて!」と、ブルー。「これ以上に先に行かれたらあたしが困るの!」
「大丈夫だよ。僕が王立魔道学院に行くまでに最低でも三年はあるし、それまでのあいだ一生懸命に勉強すれば、きっとブルーだってもっと成績が上がるはずだよ」
実際ここのところ、ブルーは熱心に勉強に打ち込んでいる。サルビア家の優秀な血筋を受け継いでいるのだから、成績が上がるのもあっという間のはずだ。シアンに追いつくつもりで勉強すれば、王立魔道学院で上位のクラスに入ることも可能になるだろう。それも、シアンがどれだけ成績を上げるかにかかっていた。
そこへゼニスが顔を出す。おはようの挨拶のあと、彼はシアンに手招きした。
「少し話がある。来てくれ」
「はい」
ゼニスがシアンにする話とすれば、きっとチリアン・オーキッドについてだ。少し緊張しながら、シアンはゼニスに続いてリビングをあとにした。
ゼニスはシアンをサロンに招いて人払いしたあと、ソファに座るよう促す。斜交いに腰を下ろすと、重々しく口を開いた。
「オーキッド家と話がついた。チリアンの処遇を聞きたいか?」
家同士の抗争に発展しそうになったにしては早い決着だ、と賢者は考える。とは言え、色彩の騎士による証拠を提示されれば、否定する材料はなくなったのだろう。
「……はい。聞かせてください」
「ああ。チリアン・オーキッドと他の四人は勘当同然となり、領地の辺境伯の元に預けられることになった」
サルビア辺境伯の元から魔法学校に通うのは遠すぎる。彼らは魔法学校を中途退学もしくは転校して辺境周辺の別の学校に通うことになるのだろう。魔法学校でそういった行為が行われていたと知られれば、魔法学校の心証も悪くなる。五人の処罰は厳しくしておくに越したことはないだろう。
「辺境伯はお前の祖父だ。安定した健全な暮らしは保証する。だが、今回のことは看過できない」
「スカーレットの証拠を認めたんですね」
「ああ。色彩の騎士の名があれば言い逃れはできないからな。公にしない約束で処遇を決めた。もう彼らがお前に危害を加えることはできない。そうなれば、犯罪者になってしまうからな」
子どもにとっては重い処罰だろう。それだけのことをしたと認められたのは、スカーレットの記録の正確性が高かったためだ。色彩の騎士の名を騙れば世界王国に罰せられると知る者が多いと考えると、オーキッド家には返す言葉がなかったようだ。
「スカーレットを呼べるか?」
ゼニスの言葉に応えるように鈴が鳴る。シアンの中から姿を現したスカーレットは、恭しく辞儀をした。
「スカーレット・マソー。参上いたしました」
簡素な敬礼をするスカーレットに、ゼニスは力強く頷く。
「シアンを助けてくれてありがとう。いつからシアンのそばにいるんだ?」
「賢者様が亡くなってから、シアン様が生まれて、それからずっとです」
「じゃあ」シアンは言う。「僕は賢者として死んでからすぐ転生したというわけではないの?」
賢者の没後すぐシアンが生まれたのなら、スカーレットが「色彩の騎士」の称号を冠するのが早すぎる。相当な鍛錬を積まなければならないと考えると、それ相応の時間が経っているのだ。
「はい。少なくとも百年は肉体を持たない魂になって内にこもっていました。転生は魂の再構築が終わるまで完了しません。魂の再構築には精神面が影響します。賢者様の魂は絶望を溜め、再び生まれることを無意識的に拒絶していたと考えられます」
つまり、賢者の死がこの魂の最期になっていた可能性もあったのだ。それでもおかしくないほど、賢者は絶望していた。新しい人生に希望があるわけでもなく、再び絶望を溜めることになる可能性もあった。いまでは、転生してよかったと思っている。
「私は賢者様の魂に自分の欠片を埋め、色彩の騎士になるために鍛錬し、同時に賢者様の魔力を頂戴していました。賢者様の魂の再構築に時間がかかったのは、私にとっては僥倖でしたね」
スカーレットは優しく微笑む。もし賢者の魂がすぐ転生していたなら、彼女の努力を無駄にしたかもしれない。そう思うと、自分がもたもたしていたことにも意味があったような気もする。
「ずっとシアンを守ってくれていたんだな」ゼニスが微笑む。「ありがとう」
「勿体無いお言葉です。シアン様の心に馴染むのに、予想以上に時間がかかってしまいました。もっと早く顕現できていたはずなのですが……」
賢者の魂の覚醒かスカーレットの顕現のどちらかでももっと早く済んでいれば、シアンがチリアン・オーキッドたちの標的になることもなかったかもしれない。スカーレットが責任感を懐く必要はないのだが、申し訳なさそうな顔をしている。
「今回、助けてくれただけで充分だ。シアンが傷ひとつ負わずに済んだのだからな」
「ありがとうございます」
ゼニスは力強く頷き、それからシアンの肩に手を置いた。
「この話はこれで終わりだ。もう彼らがお前に手出しをすることはできない」
その言葉は、シアンの心に安心感をもたらした。再び会うことがあったとしても、もう怯える必要はない。それでも、シアンの心は、苦しみのひとつから解放されたのだ。
「綺麗さっぱり忘れてしまうといい。もう二度と関わることはないのだから」
「はい。ありがとうございます」
ゼニスは優しく微笑む。シアンの表情に心の底からの安堵が浮かんでいたのかもしれない。
「さあ、みんなのところに行こう。楽しい話を聞かせてくれ」
「はい」
シアンとゼニスがリビングに戻ると、他の五人は賑やかに歓談を楽しんでいる。ふたりに気付いたブルーの表情がパッと明るくなった。いつも通りの日曜を心待ちにしているようだ。
「お話は終わったの?」
「うん」シアンは頷く。「もうおしまいだよ」
こうしてシアンの苦しみがひとつずつ消えていくことで、シアン・サルビアは本当の幸福を手に入れるのだ。シアンには、そのための資格がある。これだけ家族に愛されていれば、シアンが絶望を溜めるなどということは、きっとあり得ないだろう。




