第26話 サルビア邸夜会
「賢者様! 起きてください!」
鼓膜を破るかと思うほど勢いが良く明るい声に顔を上げると、目の前いっぱいにステータスボードが飛び込んで来た。さすがの老眼でもこれほど近付けられると文字も数値も判別できない。それを掲げる弟子の少女は誇らしげだ。
「やーっと『マナ感知』のスキルを取得できたんです! いやあ〜ちょっと頑張りすぎちゃいましたね〜」
「おお、素晴らしい。よく頑張ったのう」
「ふひひ、これでまた一歩、伝説に近付いちゃいましたね! サインをもらうならいまのうちですよ〜?」
「それまでわしが生きとるといいがのう」
「そういえば賢者様って、いまおいくつなんですか?」
「次の誕生日まで生きとったら九十九じゃな」
「じゃあ賢者様が百歳になるまでに伝説の騎士になってみせます! 期待して待っていてください!」
「一年延びたのう……。じゃが、楽しみじゃよ」
「はいっ!」
* * *
「シアン! いつまで寝てるの!」
叱りつける声に目を覚ますと、目の前に飛び込んで来たブルーの顔は眉がつり上がっている。窓の外はすっかり暗く、部屋の外がにわかに騒がしい。サルビア侯爵邸で開催される夜会が始まろうとしているのだ。夜会に参加しないシアンとブルーは、マゼンタとともにシアンの私室に引きこもらなければならない。ほんの少しだけ仮眠を取るつもりだったのだが、自覚していたより疲れていたようだ。
「寝過ぎちゃったみたいだね」
「早くシアンの部屋に行きましょ。マゼンタがいろいろ用意してくれてるわ」
「うん」
寝室とは別にあるシアンの私室は、屋敷の奥側に位置している。室内にこもっていれば、招待客と鉢合わせることはないだろう。招待客がここまで来ることはないはずだ。
廊下の向こう側は招待客の歓談で溢れている。楽しげに話す声や笑い合う声、会場は賑わっていることだろう。
シアンの私室に行くと、マゼンタとウィローがふたりを待っていた。部屋にはサンドイッチなどの夕食と、トランプや盤上遊戯などのゲームや、ふたりが好みそうな本、それからティーセットが用意されている。
「準備万端だね」
「はい」マゼンタが微笑む。「きっと退屈はしませんよ」
これまでの夜会でシアンとブルーがどう過ごしていたかは覚えていないが、マゼンタがふたりの好みを把握した上でこれだけの用意があれば確かに退屈しないだろう。
シアンとブルーが並んでカーペットの上に座ると、シアンのそばにウィローが寄って来た。しかし、こちらに背中を向けている。ぷうぷうと小さく鼻を鳴らしていた。
「ウィロー、もしかして拗ねてるの?」
今日は朝から王宮に出掛けていたため、ウィローの相手はしてやれなかった。帰って来た頃にはシアンは寝ていた。構ってやれなかったため拗ねているのだろう。
「ごめんよ。ちょっと忙しかったんだ」
そう言って頭を撫でても、ウィローはつんと澄ましている。
「ウィロー」ブルーが言う。「拗ねててもしょうがないでしょ。こうやってシアンも起きたんだから、一緒に遊びましょ」
まだ機嫌を取り直すつもりはないようで、ウィローはひとつあくびをして、そのまま背中を丸めて寝てしまった。子どもねえ、とブルーが呆れたように呟いた。
「夜会はどれくらいの時間が予定されてるのかな」
「二十一時前には散会のはずです。が……話の終わらない方がいらっしゃるのはいつものことですから……」
「湯浴みには人が減った頃でないと行けないよね」
「そうですね……。風呂場は広間に近いですからね」
「だから今日は夜更かしが許されるのよ!」
拳を握り締め、胸を張ってブルーが言う。その明るい表情から、心の底から喜んでいることが明確だった。
「ブルーはいつも何時に寝てるの?」
「二十一時よ!」
夜会が二十一時前まで続くのなら、それ以降でなければ風呂場には行けない。就寝時間はブルーの習慣より遅くなることは確定のようだ。それがたまのことなら、ブルーが喜んでいるのも頷ける。それも、遊んでいるだけでいい。子どもにはわくわくする時間だろう。シアンが一緒でなければ、ここまで嬉しそうな笑みにはならなかったかもしれないが。
「まずはトランプね! 上がりゲームで勝負よ!」
ブルーは小さな手で器用にトランプを切る。その楽しげな表情は、数分後には崩れていた。シアンが一番に抜け、その次にマゼンタが勝ち、ブルーは敗北を喫したからだ。
「もー! マゼンタ! お嬢様に花を持たせようという気はないの⁉」
「私がそんな殊勝な侍女とお思いですか〜?」
挑発するように言うマゼンタに、ブルーは悔しさに拳を震わせる。マゼンタは子どもにも容赦ないようだ。
「もう一回よ!」
何度やっても結果は同じだった。シアンは「ブルーはポーカーフェイスを覚えたほうがいいよ」と言おうかと思ったが、傷に塩を塗り込むような気がしてやめておいた。
「もういいわ! 次は盤上遊戯よ!」
ブルーは怒りながらボードを広げる。シアンとマゼンタはもちろんブルーに一番を譲った。それで少し機嫌を直したようだ。ウィローは依然として寝ている。
「今回は定例会って言ってたけど」シアンは言う。「サルビア侯爵領のお偉いさんが集まるって……」
「はい」マゼンタが頷く。「各地の代表者と事業の幹部、あとは親戚の方がご参加されます」
「社交界デビューの方もいるのかしら」
「今回は社交パーティではありませんから、おそらくいらっしゃらないと思います。シアン様とブルー様でしたら社交界デビューの場として利用するのもありだったでしょうけれど」
シアンとブルーは社交界デビューしていない。父はその必要はないと判断しているようで、そのためふたりはこうして引きこもっているのだ。夜会には父母とともにアズール、スマルト、ネイビーが参加しているはずだ。
「シアンは社交界デビューしたいと思う?」
「うーん……父様が必要ないと判断されるなら、特に異論はないかな。ブルーはどう?」
「私も別にしたくないわ。めんどくさいもの。しなくていいならそれでいいわ。シアンと一緒にうちの事業で働くなら、社交界に居る必要もなさそうだし」
ブルーは嬉しそうに言いながら駒を進める。サルビア侯爵家の事業と社交は分かれている。事業に携わっているからと言って社交界に属しているというわけではない。サルビア家から社交界に出向くのはアズールとスマルト、ネイビーがいれば充分とも言えるため、シアンとブルーが積極的に社交界へ出て行く必要はないだろう。
「いつも兄様たちは大変そうだわ。嫌いな人の前でもにこにこしていなくちゃいけないんでしょ?」
「そういう世界ですからねえ」と、マゼンタ。「いかにお相手のご機嫌を取るかにかかっていますし」
「自分がその相手かもしれないんでしょ? 嘘をつかれてにこにこされても嬉しくないわ」
ブルーはまだ若いため、人の裏表に嫌悪感を懐いてしまうのだろう。嘘、お世辞、おべっか、そういったもので社交界はできている。社交界で生きていくうちに身につくものだが、ブルーがこのまま大人になるのなら、父の判断は間違いではなかったと思える日が来るのかもしれない。
「でも」と、ブルー。「カージナル先生も社交界では嘘で笑っているんでしょ?」
「そうだろうね」シアンは頷く。「僕たちの前では嘘はついていないけどね」
「あれで嘘でしたら劇場俳優になれますよ」
マゼンタが駒を動かしながらしみじみと言うので、シアンとブルーは揃って笑う。ふたりの前では自然体のままでいるカージナルだが、劇場で歌って踊るカージナルを想像しても、きっとあのままなのだろうと思わせる人物だ。
「でも、ネイビー姉様も社交界では別人みたいよ。社交パーティ用のドレスを着ると別人になれるのかしら」
「そうですねえ」マゼンタは微笑む。「社交界の淑女というのはそういうものかもしれませんねえ」
「淑女には社交界用の顔があるからね」
賢者もどちらかと言えば社交界は苦手だった。社交界で生きていると、他人の感情の機微に敏くなる。そうしていると、自分に対して良くない感情を懐いていることはすぐにわかった。それに怯えるようになるまで、そう時間はかからない。
盤上遊戯でもブルーが見事に敗北し、ブルーもウィローも不貞腐れたままゲームの時間は終わる。軽めの夕食を取ると、ふたりは読書に耽った。シアンは母の言いつけ通り熱中しすぎないようにしながら、物語の本を楽しむブルーにも気を張っておく。そうしているうちに、ブルーが船を漕ぎ始めた。時刻は間もなく二十一時。廊下の向こうはまだ賑やかだ。
「あらま」マゼンタがブルーを覗き込む。「これは本格的に寝る姿勢に入ってらっしゃいますね」
「まだ終わらないのかな。ちょっと様子を見て来るよ」
「それでしたら私が……」
「ブルーを寝室に連れて行ってあげて」
サルビア邸の二階には、下階を柵越しに覗ける廊下がある。そこで様子を見れば、招待客に気付かれる心配はないだろう。
会場はまだ歓談が続いているようで、近付くたびに賑やかさが増していく。参加者が何人いるのかはわからないが、まだ屋敷には多くの参加者が残っているのは確かだった。
二階廊下の柵越しに、広間からエントランスに続く廊下が見える。見つからないよう腰を屈め、柵に手をついて覗き込む。広間を出て行く者が多いが、立ち止まっている者もいる。なかなか話が終わらない者が大勢いるようだ。
「坊ちゃん」
突然、後ろから声をかけられて、シアンは手が滑りそうになるのを堪えた。驚きを湛えたまま振り向くと、高身長の影がシアンを覗き込んでいる。それが誰かはすぐにわかった。
「オペラモーヴ卿。こんばんは」
カージナルの父であるオクサイド・オペラモーヴだ。父ゼニスの補佐であるため、この定例会に参加していたのだろう。
「こんなところで何をしているんだい?」
「そろそろ終わる頃かと思って見に来たんです」
「ブルー嬢は?」
「もう寝る姿勢に入ってます」
「ああ、そうだろうなあ」
オペラモーヴ卿とはそう何度も頻繁に会っているわけではないため、スマルト以上の鉄面皮がいまだに掴めない。この父親からカージナルが生まれたとは想像し難いが、母親に似たということなのだろう。オペラモーヴ卿も嘘やおべっかを言うことはないため、その点はよくカージナルに受け継がれている。ただ、何を考えているかはよくわからない。
「体調はもういいのかな」
「はい。みんなに心配をかけて申し訳ない限りです」
「子どもが何か心配するあまり熱を出すのはよくあることだ」
(知恵熱であることはバレとるようじゃの……)
オペラモーヴ卿がシアンと視線を合わせるように腰を屈めると、カージナルとはまた違う威圧感がある、と賢者はそんなことを考えた。子どもを怯えさせる類いの威圧感ではない。
「カージナルも、何か考え込んでいると言っていた。何がそんなに心配なんだ?」
その問いかけは、裏で父に返答を伝えようというような意図は見受けられない。心配しているかどうかはともかく、個人的に気にかけてくれているようだった。
賢者は思考を巡らせる。もしかしたら、オペラモーヴ卿が打ち明けるのに最適なのではないだろうか。完全なる第三者であり、最も冷静な判断を下せるだろう。その上でシアンがどういう行動を取るべきかという点で最も有効な案を提示してくれるような気もする。
まずはかなり遠回しに探ってみよう、と駆け引きが壊滅的に下手な賢者は脳内の辞書という辞書を引っ掻き回した。
「えっと……オペラモーヴ卿からご覧になって、父様はどれくらい僕を可愛がってくださっているでしょうか」
この問いかけは少々不自然であり、あまり効果的とは言えない。それは賢者も自覚しているが、まずは無難な質問で攻めてみるのも一興だ。そう言い訳をした。
「そんなの聞くまでもないだろう。命を懸けてもいいほどだ」
完全なる第三者から見てそうであるなら、それは間違いのないことなのだろう。その確信を持てば、この先の行動の選択肢を狭めることができるはずだ。
「父上に愛されているかどうかが心配なのか?」
「う、えっと……そういうわけではありませんが……」
言葉に詰まって俯くシアンに、オペラモーヴ卿はふっと表情を幾分か和らげた。安心させるような笑みだった。
「考えるより先に行動に出ることが功を奏すこともある」
シアンは顔を上げる。オペラモーヴ卿はサルビア家とはまた違った性質の美形だ。カージナルの顔は父によく似ている。
「考えすぎて熱を出すより、素直に話してしまうほうが上手く行くこともあるかもしれない。何があっても、父上がきみに失望するようなことはない。それは私が証明するよ」
ゼニスの補佐として事業に携わっているオペラモーヴ卿は、シアン自慢をよくゼニスから聞いていることだろう。ともすれば、ゼニスの溺愛加減を一番よく知っているかもしれない。
だからこそ、ということもあるのだが、それについてオペラモーヴ卿に打ち明けるにはまだ辞書のページ数が足りないようだ。もう少し自分で考えたほうがいいのかもしれない。
「ありがとうございます。僕は考えすぎる癖があるので……」
「父上を信用するといい」オペラモーヴ卿は優しく言う。「嫌われることはないと自信を持ってもいいだろうな」
「はい。考えがまとまったらお話ししてみます」
オペラモーヴ卿は励ますようにシアンの肩を優しく叩いて立ち上がる。そろそろゼニスのもとに戻る時間のようだ。
「もうすぐ散会のはずだ。少し時間がかかってしまったな」
「はい。では部屋に戻っておきます」
「ああ。おやすみ」
「おやすみなさい」
オクサイド・オペラモーヴ卿というひとりの選択肢が増えたことが、賢者にとっては収穫だった。オペラモーヴ卿なら子どもの妄言だと足蹴にすることもないだろう。完全なる第三者、最も冷静な判断を下せる者。それを頭に入れておけば、辞書のページを増やすことができるかもしれない。
(……何を考えとるかはよくわからんがのう)




