三章 死の旋風(9)
冬峰達が食事の準備を始めて約一時間ほど経過した頃、玄関の引き戸を開けてこの本家の当主が帰ってきた。
「ただいまー。みんなのお姉ちゃんが帰って来たぞー」
ばたばたと廊下をスリッパで歩く音が徐々に大きくなり、春奈が居間に顔を出した。多忙な大学生活と当主の責務に疲れた様子もなく、無駄に明るい。
「みんなのって、NHKの子供番組じゃないんだし?」
「お帰り、春奈お姉ちゃん」
食事の準備がおおかた終了した為、居間の座テーブルでくつろいでいた紅葉と、座テーブルの上に小鉢やら取り分け用の皿等を並べていた夏憐が長女兼当主を振り返り迎える。
春奈は手を休めてそばまで来た夏憐にしゃがみこんで抱きついた。
「うん、ただいま。御飯の準備、ご苦労様」
「……うん」
春奈がその艶やかな黒髪を軽くなでると、夏憐は顔を赤くしてうつむいた。
「可愛いね、夏憐は。さて」
春奈のちらりとものありげな視線を受けて紅葉は座テーブルの前から腰を浮かし逃げようとするが、腰を浮かせたところで春奈に背後から抱きしめられる。
「わぁっ」
「捕まえた。諦めてお姉ちゃん力を補給させなさい」
二度ほど強く抱きしまると、諦めたのかぐったりと脱力する紅葉の頬へすりすりと自分の頬を摺り合わせた後、春奈は「紅葉はいい匂いがするね。じゅる」とつぶやく。
「何じゃそりやー」
ようやく過剰な姉妹愛のスキンシップから逃れた紅葉を満足げに見下ろし、春奈は次の獲物を捕食する為、台所へ足を運んだ。
その獲物は添え物のキッシュを作っているらしく、ジャガイモを磨り潰したものに水切りを終わらせた豆腐を加えている。
一息つくのか、手を止めた冬峰の背後から捕食者が両手を広げて覆い被さる様に抱きつく。
「隙有りっ、あれ?」
春奈の両手が空を切り、わずか一歩ぶん右手に移動した冬峰が呆れた様な視線を春奈に向ける。
「お帰り、春奈さん。料理の邪魔は困るんだけど」
「もう、冬峰さん! そこは料理にしますか、それともお風呂? でしょう。でも料理の前に私は冬峰さんを頂きますけど」
きゃっと言って照れたのか両手で顔を覆う春奈を、冬峰はどこか疲れたような遠い目で眺めてから長い長い溜息を吐いた。
「それに人の目があるときは、突飛な行動は慎んでください」
「人の目?」
春奈が冬峰の視線を追ってドアの死角となる左手のコンロ側に目を向けると、千秋が顔を赤くしたまま唇をわなわなと震わせて固まっていた。
彼女の胸元に抱えられたボールの中にあるすり下ろされたチーズの山が少しずつ崩れていく。
「な、何、非常識な会話を交わしているんです。何時もこんな事してるんですか?」
あーっつ、とだるそうに声を上げる冬峰だが、内心、どう答えたものかな、と困っていた。
何しろ春奈のスキンシップは毎日繰り返されており、年頃の少年にとっては少々刺激の強い日常となっている。のではなく平然と受け流している。
「そうなんですよー。毎日冬峰さんを誘惑しているんですけど、ぜんっぜん押し倒してくれないんですよー」
言葉と裏腹に口調はのんびりおっとりとしているので、欲情どころか撒き散らされるα波で和む和む。
ただ一名そのα波をものともせず気炎を上げている者もいる。
「お、押し倒すって。獣じゃ有るまいし、そんなことするわけ無いでしょう!」
千秋が、がーと珍しく声を荒げて反論する。それから冬峰を射殺すような視線で睨みつけ一言ずつ区切るように念を押した。
「押し、倒さない、わよね」
「……はい」
やや仰け反りながら答える冬峰。何と無く「分からない」とでも答えると、今日が自分の命日になりそうな気がした。
「いえいえ、ひょっとしたら冬峰さんはむっつり助平かもしれませんよ。タンスと壁の隙間とかあまり使わない引き出しの中に、こう、とてつもないものが」
御門本家の小悪魔はそう言ってから千秋の胸に目をやった。
「……」
やや目じりの垂れた大きな黒瞳を持つ眼を丸くして、春奈はまあ、と口に手を当てる。
「千秋ちゃんが立派に育っている。とてつもないですよ」
それから自分の胸元を見下ろしてから人差し指を、ブラウスの襟元に引っ掛けて前に引っ張る。深くない自分の胸の谷間。
「……」
「……」
千秋と冬峰はただただ黙って彼女の行動を見守っている。
「……とてつもない」
春奈はぼそりとつぶやくと襟元から指を離して顔を上げた。
その表情はスプリンターが一番を目指し全力を出し切ったものの、ついに及ばなかったある種の諦観と清々しさを浮かばせている。
「私はちょっと、及ばなかったみたいですね。でもいいんです。とんでもないものが好きな弟分の為、私は喜んで身を引きましょう」
そんな御門家当主を、千秋は胸の前で腕組みをして冷え冷えとした眼鏡の奥の切れ長の瞳で見つめた。
冬峰はそれだけで周囲の気温が下がっていくような感覚を覚え、ひとつ身震いをする。
「春奈さん。ちょっとですか?」
挑戦するように不敵な笑みを浮かべ千秋は胸を張った。
ばいん!
突き出された長袖シャツの胸元にプリントされたイギリス国旗は、無敵艦隊を破った英国海軍の誇りのように盛り上がっている。
「ごめんなさい、だいぶん負けています」
へへーと水戸の御老公の印籠に恐れ入る悪代官のように春奈は平伏した。何となく情けない。
ごほん、と咳払いをする音が聞こえて春奈と千秋が振り向くと、自信の無い回答を答える小学生のようにおずおずと右手を上げる冬峰の姿があった。
「ちょっといいかな。そろそろ紅葉と夏憐ちゃんがお腹を空かせていると思うんですけど」




