六章 その手を(10)
4
「……もうすぐ着くのかしら?」
貨物室の床に置かれたプラスチック製のパレットの上に柔らかいシートを敷いて設置された座テーブルに腰掛けた女性は、座テーブル上のクッキーを口に咥えて同乗者に問い掛けた。
同乗者は忌々しそうに床に散らばった薄い欠片を苦虫を潰したような表情で踏み砕いた後、「もうすぐです」とだけ返答した。
「……そう」
今時珍しい艶やかな長い黒髪の女性はため息を吐いてテーブルの上に顎を乗せ、唇の力だけでクッキーを口腔内に放り込んだ。完全にだらけきっている。いや、不貞腐れているといって間違いあるまい。
同乗者であり警護人でもある黒雅は、両壁に備えられたシートに腰掛けたまま、視線を彼女の持ち込んだ荷物へ移した。
「……」
ボストンバッグからのぞく麦わら帽子、新品と思われるセパレートの水着、サングラス。防水カメラ。
「……」
床に目を落とす。
床に散らばるポテトチップの残骸。
彼女が顎を乗せたテーブルの上には「南国、ルルイエのバカンス計画」と毛筆で書かれた手作りの小冊子が広げられている。
そのページには「天才芸術家の作ったような幾何学模様に彩られた石柱と、古代の神殿のごとき建造物は貴女を幻想の世界へいざないます。」と記されていた。
また別のページには「その島周辺にしか生息しない巨大魚や海中生物がじかに貴女を出迎えます。日本の有名水族館でも見ることの出来ない海中の神秘をご覧下さい」と安っぽい観光用パンフレットのような文句が書かれていることも彼は知っている。
同乗者である彼を含めた隊員達は、見た目にも浮かれている彼女から小冊子を笑顔で渡され、彼等に伝えられた情報と照らし合わせて首を傾げた。
南半球の島々を水没させた【大異変】が発生する前の、かって華やかだった頃の観光名所と夕日を背にした男女のカップルが写った写真のページには「ルルイエより飛行機で一〇分」と記載されており、もともとこの任務に乗り気でなかった彼女だが、「今度は私が、同じ場所で水着を着て従弟と写ります」と嬉しそうに話した。
その後、「これ、生きては帰れないかもしれない任務と聞いたんですが」と、つい最も若い隊員が口を滑らしてしまったのを小耳に挟んだ彼女は、操縦席の無線を使ってその小冊子の作成者である当主代行と連絡を取ろうとしたのだが、当の作成者は多忙で行方が解らず、日本に残った彼女の護衛者に内容を確認する事となったのである。
彼女は護衛者にルルイエについて確認していたのだが、無線の向こうで「うっ」とくぐもった声がすると「駄目です、もう耐えられません」と涙声で真相を吐露した。
そんな経緯で座テーブルの上で不貞腐れる美女が出来上がったのである。
ちなみに床に飛び散ったポテトチップは、不貞腐れた彼女がボストンバッグの中から自棄喰いしようとして取り出した袋が破裂した結果の惨劇の痕だった。
コックピットから通信が入り、もうじきルルイエ近海に到着するとの報告が有り、黒雅は座テーブルまで近寄り彼女に降下の準備をするように大声で促した。
彼等の乗るC1輸送機は国産の中型輸送機で全長二十九メートル、全幅三十・六メートルの機体にボーイング727と同じ噴射式ターボファンエンジン二基搭載した高機動性が自慢である。
その為、機体後部の貨物室内はエンジン音がかなりうるさく響き、貨物室に待機する者は耳栓を必要とする者が多い。
そのはずだが、この座テーブルに突っ伏した女性は耳栓無しでも同乗者の声が聞き取れるのか「私やる気が亡くなったな~」と駄々をこねて動こうとしない。
よっぽどこれから赴く島に対する期待が大きかったのだろう。後で入って来た通信では文章には嘘は無い事と、彼女が駄々を捏ねた時の対処法が連絡されてきたのだが、出来れば同乗者である彼は主であるこの女性にその対処法を試したくは無かった。
「早く着替えて下さい! もう降下ポイントですよ」
女性は臙脂色の紐ネクタイを結んだ純白のブラウスに同色のスカート、黒タイツに白色のコートを羽織った格好のままなので、先行しているソロモン機関の揚陸船へパラシュートで降下出来る服装に着替えて貰わなければならないのだ。
「私、世界なんかどうでもいいです」
完全にいじけており、そこから動く気配など無い。
黒雅は首を左右に振ると、マイクを手にして操縦席へ通信を入れる。
「仕方ない、プランBを実行する」
「了解」
短い返信を聞いた後、黒雅は己の武器である鎖を天井のフックに手早く巻きつけた。
これから実行されるプランBに巻き込まれない為の用心だ。
ちなみにプランAは、「腰の重い御門家当主を南の島に連れて行こう」と作られた小冊子のことで、その効果は彼女がC1輸送機に乗り込んでいることから解る。
「?」
女性は座テーブルの上で突っ伏していたが、不意に頬を撫でる風に気がついて顔を上げた。何やら背後から機械音がする。
何だろうと振り返った女性の表情が凍りつく。
C1輸送機の尾翼下にある後部扉がゆっくりと開き、機内の空気が外へ吸い出されているのだ。
「く、黒雅っ、何なんですか、これは」
座テーブルに腰掛けたまま同乗者へ向き直った女性は、部下の指が操縦席に繋がる扉の脇にある、いかにも押したら駄目とでも主張しているような赤く丸い押しボタンに触れるのを目にした。
何かが外れるような音と共に、座テーブルの置かれたパレットが彼女を乗せたまま勢いよく開いた後部扉に向かって走り出す。
「え~っ!」
ばしゅっつと惚れ惚れするような音と共に彼女は後部扉の向こう側、青く澄んだ天空へ座テーブルごと放り出された。
「God Speed For You」
見送る黒雅の声と立てた右手の親指が彼女に見えたかどうか。
パレットが座テーブルから分離して落下するのを黒雅は見送ったのだが、今、彼の脳裏を占めるのは彼女の無事な帰還への祈りではなく、次に彼女と会った時、自分の命は無いのではなかろうかという心配だった。
このプランを考えた当主代行が庇ってくれるとは思えず、黒雅は暗澹たる思いを抱えてため息を吐く。
こうして【御門家当主見習い】である御門春奈は、不本意ながら千秋や冬峰の後を追うように異形の神の眠る島ルルイエへ降り立つのであった。




