一章 侵略神(9)
不意に冬峰のスラックスの右ポケットに入れられた携帯電話が振動し、冬峰の意識を覚醒させた。着信を見ると「根神一」と表示されている。
「ふぁいはい。何だ、バイト中だぞ」
「寝てたのか」
「ねえよ」
面倒くさそうに携帯電話に話しかける冬峰へ、携帯電話の向こうから根神が突っ込んだ。
「バイトは、あと四〇分程で終わるけど、小夜子さんに何かあったのか?」
冬峰の脳裏に、何故か昼間校門で見かけた背広二人組の姿が浮かんだ。
「いや、小夜子さんには何も無かったんだ。だがな、お前の言った背広二人組らしい奴等がな、今、俺達の横を通って学校の方向へ歩いて行った」
小夜子では無い、とすると彼等は何故学校の校門に居たのか。
彼等の視線の方向は……。
「あいつ等が学校に用があるかは解らんが、学校にはまだ御門先輩がいる。三人で戻って先輩を待っててもいいが、俺ひとりじゃ手が廻らねえ。すまねえが、ちょっとバイトをフケて手伝ってくれないか」
彼等の見ていたのは一階生徒会室。おそらく食堂から戻る途中の千秋を見かけ、そのまま見張っていた可能性がある。しかし何故千秋なのか。
「解った。根神は二人を早く送ってくれ。別に俺を待たなくてもいい。直ぐに千秋を迎えに行くから、早くそこから離れろ。いいな」
冬峰は携帯電話に向かって、彼には珍しく一方的に喋ってから返事も訊かずに切る。
マスターはカウンターでのんびりと文庫本を読んでいるが、エプロンを外しながら冬峰が早退を申し出ると無言で頷いた。根神との会話が聞こえていたらしい。
カウンター内にエプロンを放り込み、引き出しからケーキ用のフォークを数本、学校制服のブレザーのポケットにねじ込む。
これとブレザーの胸ポケットに入れられたスイス・ビクトリアノックス社製多機能ナイフ【ウエイター】が冬峰の手持ちの武器となる。
駆け足で店を出て、脇に止めた愛用のマウンテンバイクに飛び乗った。必死でペダルを漕げば一〇分程で学校に着く。出来れば、それまで千秋が学校を出なければよいが。冬峰はそう思いながらペダルに足をのせた。
黒色のマウンテンバイクは、持ち主の期待に応えるように音も無く滑らかにチェーンを回転させ、駅前広場から学校のある郊外に向けて駆けて行く。
千秋が昇降口の扉に鍵を掛けて扉横のポストにその鍵を放り込んだ頃には、時計の針は既に八時近くに迫っており、今日彼女はアルバイトを欠勤してしまったことに気が付いた。
結局彼女は他のクラスの小冊子作りも手伝ってしまい、他の生徒を先に帰らせ最終戸締り係として一階の戸締り状態を確認していたら遅くなったのだ。
一瞬、【ラ・ベルラ】のマスターと冬峰に申し訳なく思ったが、直ぐに心配ないだろうと打ち消した。あの二人は妙にのんびりした所があり、喫茶店の経営等、どこか忘れ去っている雰囲気がある。
きっと自分の欠勤も大して重要視されていないだろう。
実際、自分がアルバイトとして店に入る迄、マスターは不定期営業、つまり気分が乗らないときは休みを通しており、千秋が小言と赤字帳簿を振りかざすことによりようやく毎週月曜日のみ定休日にしたのだから。
千秋は昇降口の階段から降りるとほっとしたように息をつき、胸に手を当てて深呼吸した。実に忙しい一日だった。
静かな夜だ。頭上に輝く月は茫洋と霞んでおり、この街に建てられた家々を影絵の様に見せる。
振り返ると校舎も影絵の一部となり、千秋は自分が校舎を出た瞬間、世界は別の世界へ切り替わったのではないか。そう思った。
校門へ目をやると校門の周辺は闇がわかだまった様に暗く、校門の向こう側の世界がどうなっているのか千秋には見えない。
千秋は校門を出る直前で歩みを止めた。今日に限って校門に人影は無く、何かいつもの下校とは異なる雰囲気を千秋に与える。
一歩踏み出し校門を抜ける。ただそれだけの事なのに、校門を抜けると人影が湧いて千秋の足を強張らせた。
どこから、どうやって、先程まで居なかったのに。
人影はゆらゆらと揺れながら千秋に近付いて来た。見ると平凡な紺色の背広を着た、これまた平凡な顔つきのサラリーマン風の男だ。
紺背広はいつの間にか千秋の背後に居た茶背広に頷くと、にこやかに千秋に語りかけてきたのだった。
「御門千秋さんですね。ああ、そう驚かないで下さい。私達はそんな怪しい者ではありません」
こんな時間、急に学校の校門に現れ語りかけてくる人間を、どうすれば怪しくないといえるのか、千秋はそう思いながら男達に対して不振の眼差しを向ける。
「私達は別に貴女に対し危害を加えるつもりは無いのです。むしろ丁重にお迎えしようと待っていたのですよ。我々の目的には、貴女の様な方が必要不可欠なので」
そこまで話し、紺背広はまるで大企業の中間管理職が、自分の会社を自慢するかのようにわざとらしく両手を広げ点を仰ぎ見た。
「私達の目的と貴方達一族の目的は、とても共通する面があります。決して貴方達の損にはなりません」
千秋のそれまで醒めた表情を見せていたものが、急に怒気を孕んだ視線を紺背広へ向けた。一言一言区切り、彼女は紺背広の要望に異を唱える。
「私は一族には一切関係がありません。別の人に当たって下さい」
失礼と紺背広を押し退ける様にして、怒り肩で歩き去ろうとした千秋の両肩に茶背広が背後から掌を置いた。軽く置かれた様にしか見えないが、千秋はギチッと両肩の軋む音と共に顔を苦痛に歪める。
「何をまどろっこしい真似をしている。さっさと連れ帰って協力させればいい」
「無理矢理だと、【門】を開けんかも知れんぞ。この女が貴重な存在ということを忘れるな」
紺背広と茶背広の言い争いに他の男たちは静観を決め込んでいるらしく、誰も見向きはしなかった。
「それ程時間が有るわけ無いと思うがな、倉田。これ以上俺達が活動を長引かせると、ソロモン機関や聖堂騎士団が介入してくるぞ」
「それは解っている。車に乗せろ」
路地の奥から音も無く、黒色のワゴン車が校門の前に横付けされた。夜間目立たなくする為かライトを消し、テールランプもガムテープで塞がれている。
茶背広は千秋の両肩を掴んだまま、彼女をワゴン車の開いたドアへ押し出すように歩を進めた。
間違い無い。彼等は今、街を恐怖に陥れている誘拐犯だ。
千秋は自分の身に何が起こっているか、正確に理解する。それは、もうこのワゴン車に乗ってしまえば、二度と日の当たる場所に帰って来れない事だった。
普段の冷静沈着だと思っている自分のスタイル等、何の役にも立たず無力だと解り彼女は絶望したが、それでも一縷の望みに賭け大声を上げて助けを呼ぼうと口を開きかける。
瞬間に、それは起こった。
低い呻き声と共に千秋の両肩に加えられた圧迫感が消え、振り返ると茶背広の横っ面に黒いマウンテンバイクの前輪がめり込み横倒しにした。
「冬峰!」
マウンテンバイクから飛び降りざまに千秋の手首を掴んだ従弟は、彼女を背後に押しやるや否や、立ち上がろうとした茶背広の左こめかみに向けてゴルフクラブの旋廻するような音を立てて回し蹴りを叩き込んだ。
鈍くくぐもった音と共にまたも茶背広が横倒しになるが、今度はマウンテンバイクにぶつかられたときよりダメージが大きいらしく、茶背広の目は焦点があっておらず虚ろな状態になっており下半身が奇妙なステップを踏んでいる。
「何者だ」
紺背広の問いかけを無視して、冬峰は千秋の手を引っ張り紺背広達の包囲網を抜けようとするが、多勢に無勢、冬峰登場によって生じた空間は別の誘拐犯のメンバーに埋められた。
バス停まで百メートル。長いとはいえない距離だが相手の数が多く容易に進めそうに無い。




