23. 漂流
――――な……
遠くの方で誰かの声が聞こえる。
ほんの微かな声だった。でも、か弱くとも、不思議と私の奥深くに染み入る声なのは確信した。
――――つな……
どこか、懐かしさを感じさせる声。だめだ、思い出せない。私はなぜか今頭が働かない。全てがぼんやりしている。でも、なんでこんな感情にさせられるのだろう、この声は。
懐かしいはずなのに、とても哀しくなってしまうのは、なぜ?
泣きたくなってしまうのは、なぜ?
そういえば、私ってなんでここにいるんだっけ?
私は、詩乃を救うために……決着をつけようとして……
そのあと、わたしはどうなって――――
――――夏菜。
ハッとした。その声の主は明らかに私を呼んでいた。
その刹那、途端に全てが明瞭になった。私はどこにいて、誰が私を呼んでいるのか。
「……お母さん?」
「話聞いてるの?」私の母は怪訝な顔をしながらこちらを見ていた。なぜ私は今母と同じ空間にいるんだ。しかも、ここは病床のようだった。母は頬の骨が薄く表出しており、起こされたベッドにやつれた体を寄せていた。しかし、依然表情は柔らかい。中学生の時に父から暴力を受けようとも平静を取り繕っていた姿そのままといっても違和感はなかった。
「学校生活はうまくいってるの?」
……え? 私のこと?
「夏菜だよ、当然でしょ。どうしたのそんなキョトンとして。お母さんいつも夏菜がどうしてるのかなって考えてるもの」
話が噛み合わない。
「私はもう働いてるんだよ。とっくの昔に学校は卒業して――」
「……何も話したくないの?」
「何……私いま話してたじゃん。だから、とっくの昔に――」
「ごめんね、親だってのに、こんなみっともない姿晒しちゃって、会いたくないものね」
「どうして無視するの? 私は今更何も思ってない。お母さんのことも嫌ってない。なのにまた掘り返すの?」お母さんのこういう気弱なところは昔から好きじゃなかった。純粋に面倒だったし、過去の話を何回も蒸し返されるのはイライラする。
「――ほら、夏菜ちゃん、何か言ってあげたら? 久々なのよ?」
唐突に第三者の声が聞こえて頭が固まった。ここは2人だけの空間ではなかったのか。そしてその声の主もすぐにわかる身近な人物だった。
「おばあちゃん⁉︎ なんで⁉︎」おかしい。私のおばあちゃんは既に老衰で亡くなっているはずだった。
違和感はおばあちゃんを認識してより深まった。混乱して声を出す余裕がない。私は今どこにいる?
思考を巡らせているうちに自分の体も勝手に動いていることに気づいた。頭はお母さんをまだ見ていたいはずなのに、視点は既に部屋のドアへと向かっていた。もう帰るのか。
「待って……! 私は、まだ話し足りない……‼︎」だが、その願いも甲斐なく体は出口へと進んでいく。
「――ねえ、夏菜。お母さんがなんで"夏菜"って名付けたか覚えてる?」
「……!」
思いがけない言葉に私は驚いた。その時だけは、頭も体もリンクしていて、出口への歩みを止めていた。そして、目線も、しっかりお母さんの方を向いて、次に発せられる言葉に期待していた。
私も、私の体も、その質問に対する答えを欲していた。
「やっと振り向いてくれた」お母さんは痩せ細りながらも変わらぬ満面の笑みを浮かべていた。それは昔となんら変わらない愛情。時を経ても変わらず注いでくれていたことに、私は、今まで気づかず……胸が苦しかった。
「なんで、私なんかに……」こんなに、愛してくれていたのか。
「生まれが春なのにって思ったでしょ。"夏菜"って名付けたのはね――」
その肝心な答えは、もはや聞こえなかった。なぜだろう。その時にはもう、視界がぼやけていて、聴覚も機能しなくなっていた。自分の母を認識できなかった。だけど、言葉が聞こえなくても、意味は認識の霧を通り抜けて、私に伝わってきた。
「なんなの、その理由――」
私の体は出口の方向に強制的に吸い込まれていた。待ってと私が手を咄嗟に上げても、吸い込みは加速していく。そこで私は視界に自身の体が映り込むことで初めて気づく。
私は、制服を着た高校生の姿でいた。
そして私がいた白く見える空間は、フェードアウトしていき、深い暗闇に落ちていった。
*
ぼやけていた視界が次第に明瞭さを帯びる。
さっき見えていた無機質に白く光る部屋とは逆に、一向に光を感じさせない。私はまだ瞼を開けていないのかと錯覚したけど、今一度目を凝らしてもそこはやはり暗かった。
私は今、どこにいる?
辺りを見渡してみる。生まれた時は質の良かったように思える、暗色の絨毯が広がっているのが、触覚を通してかろうじてわかる。私は身動きは自由だった。それがわかると、さらに手をレーダーの様に動かし、周囲の把握を行った。視覚が損なわれている今、頼れるのは触覚だった。嗅覚や聴覚はその機能が随分と前に失われて、それ自体が忘却されたかのように、何も感じられなかった。だから、闇雲にでも手を使うしかなかった。
広々と感じられる、この空間は、私を不安にさせてきた。感覚が著しく低下する中、必死に、ここが何の場所であるかを把握しようとした。
そして、私の物理的なレーダーに、一つ異物が検知された。それは、なにか細く、人を傷つけるものであるのは、触覚からすぐにわかった。私はその異物を詳しく素人する。すでに視覚が完全に復活し、自分が暗い場所にいただけだったのは、異物に目を向けたことでようやく自覚した。
それは、紛れもなく針だった。しかも、刺さっている箇所だけが湿り気を帯びていたから、小さな毒針なのだろう。
そこで私は全てを思い出した。
私は撃たれたんだ、あの赤黒スーツに。
でも無傷だ。
針はそこに刺さっていて、あいつは外したんだ。
だけど、それで終わるはずがない。
まだすぐ近くに、あいつはいる。
針の後ろ先が指し示す方にすぐ目を向けた。
気を失っていて全く気づかなかったけど、まだここは撃った直後の時間、場所で、赤黒スーツはすぐ近くにいた。そして、なぜか部屋の扉が開いていて、なぜか、扉の向こうに"彼女"がいた。
詩乃だった。
詩乃は、赤黒スーツに、毒針が仕込まれた銃を向けられていた。
逃げて、とすぐに言おうとしたのに、口が開かない。発声法が忘却されてしまっていた。
だけど、体は動く。
赤黒スーツは私には気づいてない。
眠らせたと思っている。
油断している。
私は床に不時着した針を抜き取り、そろりと立ち上がった。ゆっくりと、ゆっくりと、足の感覚を実感しながら、扉の方へ、赤黒スーツへと向かっていった。
私は、詩乃を、守るんだよ。
「私は……」声なき声に、力がこもる。赤黒スーツは予想外の声に驚いたのか、目を見開いてこちらを見ていた。
もう遅い。この間合いは完全に針を刺せる。
赤黒スーツは何かを叫んだ。しかし、私は何も聞こえなかった。聞いていなかった。私は今はただ、目の前にいる悪者を倒すため、詩乃を救うために、刺突しようとしていただけだった。
そして、忌まわしき凶器は、放った元凶に返ってきて、そいつは膝をついた。




