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21. すべてどうでもよくなる

「しのちゃぁぁん! ちゃんと一人で来てくれたんだねぇ?」

「くッ! このクズ……!」

 突如扉の向こうから現れた大男に引っ張られて、私は部屋の中で転んだ。こんな無様な男でも、力は侮れない。こいつは男だ。男と女の体格差はどうあがいても覆せない。ちょっとでも気を抜いたらやられる。そして、鼻を壊すくらいの異臭にめまいを催す。これは換気が不十分なのか、それとも目の前にいるデブクズ男が不潔なのか、それとも、悪行がまかり通るこのホテルが放出する、忌むべき悪臭なのか……。早々と決着を付けないと、この建物の混沌とした臭いに塗れて気が狂ってしまいそうだ。

「嬉しいよしのちゃん……今日でついに()()()()()()()んだよ……ハハハハハ!!」

 奴はまだ私が詩乃でないことはわかっていないようだ。そして、奇妙な事実に気づいた。

 この大男、商店街のときと比べるとかなり細身になり、大太りから小太りレベルにまで肉が落ちているようにみえる。あの時から1日しか経っていないのに……?

 ……そうか、そういうことね。

 この男は理由はわからないけど酷く追い詰められて、精神を病んでいるに違いない。その結果、絶食状態に陥っているのだと思う。なんて惨めな姿だ。仄暗い部屋の中でもわかる衰弱の様は観るに耐えない。決して平均体重より軽くなっているわけではないのに、顔が黒くこけて不健康な状態を滲ませている。

「ほぉら、ご褒美だよ、しのちゃん?」

 目の前のクズ男野郎は、男の汚物を自慢げに私の顔の前に晒した。詩乃は、毎回こんなことをさせられて……許せない。

「……」

「ん、なんだお。早くしてお。こうみえて僕は不機嫌なんだお、あんな酷い目にあって、なんで僕だけなんだお」

「……」

「早くしろよお!!」

 奴はすぐに頭に血が上り、私の頭を手で抑えようとする。


「やめろ。触るな」

「お……!?」


 私は脂肪がこべりついた手をスラリとかわし、デブクズ男は不意によろけて地面に手をついた。これは普段抵抗できなかった詩乃を装う私ができる、一度限りの賭けだった。こんなクズ男なら予想外の行動に動揺して、弱体化するだろうと私は踏んでいた。

 私は脳みそが汚物なお前とは違う。私の脳はちゃんと機能しているんだよ。わかった?

 私はひざまずくデブ男を見下ろす。

「お前が触っていいわけないだろ。詩乃を」

「だ、だだだ誰だお!? しのちゃんは――」

「許せない」

「ま、おま、お前は!!?」

 どうやら私に気づいたらしく、デブクズ男は手足を必死に使って後退りするも、ここはすでに袋小路。部屋の中では、すぐに壁に背中がつく。

「許せない……!」

「ま、待てお! 僕は! 脅されて――」

「実行してたのはお前だろうが!!! お前が……詩乃を触るなぁぁ!!!」

 目の前のクズ男の発狂が聞こえた気がした。しかし、そんなものは、私の振りかざされる足を止める障壁にはならない。抑えていたあらゆる感情を爆発させた。

 硬い靴を履いた私の足は、一切躊躇のない力を纏って、クズ男野郎の股間めがけて突撃する――――


 発狂していた。

 デブクズ男だけでなく、私もその1人だった。

 私はその時、デブクズ男と共鳴していた。だが、種類が違った。奴は痛みへの逃避で、私は純粋な怒りだった。

「テメエが!! 触るな!! 詩乃を!!」

 語句を吐くごとに私は渾身の蹴りを無防備な股間にぶち込ませた。肉が潰れる惨い音が部屋中をこだましていた、気がする。

「触っていい人間じゃねえんだよ! テメエは!!」

 デブクズ男は泡を吹いていた。それでもお構いなく恨みをぶつける。

「テメエらの軽率な態度が! どんだけ私たちを苦しめてるかわかってんのか!!」

 もはや死体のごとく動かなくなった大男。いまだ蹴りを入れ続ける私。

 やばい。止まらない。

 噴水のようにあふれ出す憎悪が自分では抑えられなくなっていた。今まで男にされてきたことを集約してこいつに全てぶつけていた。

 ()()()()()()

 知らないうちに私の目から涙が出ていた。自分の想像以上に、自分の中に憎悪をため込んでいたことに気づいた。私は、男という恐怖を克服したはずなのに……なんで今私はこんなにも怖がっているの?

 混乱が頭を回り始めると私は蹴りの勢いを緩めていて、なんだか疲れてきていた。呼吸を落ち着かせようと、今一度周りを見渡して冷静に状況を確認する。目の前には何の応答もせず、ほぼただの肉塊と化している男がいる。


 ――私は今どこにいる?

 未来を遮られ絶望を煽るような、この仄暗い空間は、どこに存在するの?

 水野と夜街の入り口で別れ、痛々しい光を浴びながら、詩乃の言った通りの場所へ向かった。そして、この暗闇にいる……はず。

 ――私は、何してる?

 混乱が漣にまで落ち着くまで自問自答する。

 ――私は、存在する?


 ……うん、する。大丈夫。

 私は、自分の意志でここまできた。

 私は、2度と詩乃を苦しませたくなかった。

 私は、自分の選択の上でこの暗闇にいる。

 ふてぶてと太った男は、びくとも動かずベッドの隣で倒れていた。


「もういいでしょう。そこの男は終わったのです。肉体的にも、社会的にも、ね?」


 不意に声が耳に届き、私は暗闇の部屋を見渡す。その人は、部屋の角にいた。その人はデブ男の隣にあるベッドのさらに奥に配置された1人がけのソファに、肘掛けを堂々と使い鎮座していたようだった。入り口の扉から差し込める微かな光がその人のシルエットを映し出している。肉食獣のような鋭い眼光がその光を反射させ、思わず体内に蔓延る血液を想像してしまうような、グロテスクな赤黒いスーツを少ない光が照らす。この声は、馴染みのある声だ。あるとき、そう、詩乃とゲームセンターにいたときは、勇気づけられさえもした。今思えば不可解な点しかなかった。人の弱さ、いや、もっと悪いところに手を差し伸べる悪魔……。


「……知っていましたよ。あなたが裏で糸を引いてることは」

「そんな。いつからバレていたのでしょう?」

 薄ら笑いを浮かべながら、いつものように赤黒スーツに身を包んだ人は言った。驚いた演技をしたのちに、話を続ける。

「私はね、あなたのことをずっと見ていたのですよ。あなたのとても素敵な老婆心で小暮詩乃を救おうともがいていたのですよね。素晴らしい、あなたは(あなたの)社会になくてはならない存在ですねぇ。その英雄のような行動は(あなたの)社会では賛美されることでしょう。(わたしの)社会には必要ない人ですよ、あなたは」

「ふ、私がどういう覚悟できたかわかってるわけ? 私は本気。あんたがいくら御託並べようと、私はこのデブ男を後悔させる。そして、必要なら、あんたもね」

「しかしですね、あなたは状況を把握できていない。お気づきにならないですか? それとも、知っていてなおここにきたのですか?」

「……いや? 私は望んでここにきてる」

「私にはそうは見えない。私には焦っているようにしか見えない」

「なにを……」

「わかっていたんですよね? あなたは男が嫌いで、たまたま小暮詩乃と出会い、境遇が似ていたから、共鳴し、守ろうとして、ここにきた……。いや、本当はもっと個人的なことだ。あなたはただあなた自身を否定したくてここにきた。あなたが今まで見なかったことにして蓋をしてきた、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を、否定しにきたのでしょう?」

 私はその人に肌の内側からするりと触られているようで気色が悪くなった。そして、私は何も言えなかった。私はその感情は捨て切ったはずなのに。いま、こうして、否定をしようにも、声に力が入らない。お腹は空気を溜め込み声を発する準備が整っているのに、頭がそれを拒否している。

「安心してください。あなたのような無謀な人はよく見かけますよ。何かいい気になっているけど、焦っているのが丸見えです。何か真理を目にすると、その真理の底知れなさには目が届かないのが、私にはとても耐えられない。愚かなことに、私の方があなたのことを知っているのです」

 私の頭にじわじわと警報信号が回り始めていた。いや、元から回っていたのに、あまりの目の前に対する盲目さで気付けていなかったのかもしれない。私は思わず後退りしてしまう。心拍数が上がっていくのが、手を当てていないのに自分でも感じられた。

「いい加減この状況を認めたらどうです? その方が威厳がありますよ」赤黒スーツはついに立ち上がり後退りする私と距離を詰める。ローファーのかかとが部屋の絨毯の繊維に引っかかり、体勢を崩してしまう。尻もちをついてさらに焦ってしまって、もうどうすればいいのかわからなくなってきた。

 ――これが、恐怖?

 赤黒スーツは笑みをこぼしながら近づいてくる。「ンフッ」と上機嫌さを窺わせながら、気が動転しているであろう私の顔を覗いて品定めをし、そして私を通り越して入り口のドア付近に立った。そして尻もちをついている私の方を向いた。

「私の好きな言葉、覚えてますか――」そう前置きをして、赤黒スーツ内側の胸ポケットから取り出したのは、拳銃だった。私はフィクションでしか見たことなかった物体を間近にし、初めて今立たされている状況を理解した。私は、肉食獣のテリトリーに入ってしまったのだった。私の頭は機能を停止し始めて、それに不安を覚えた体は震え始めた。

「あなたみたいな女性一人で、暴力を解決できるわけないでしょう――?」


 ――私は、どうしてここにきたのだろう?


「それでもいいんです。あなたが浅はかでもいいんです。こんな状況に立たされても、何も心配する必要はない。なぜか――?」

 赤黒スーツの指が動き始め、金属同士の軋む音が聞こえてきた。


 私はこの人生の結末を察する――――


「――――"Everything(すべて)is Okey(どうでもよくなるから)" ですよ――」


 ――もういいや、私の人生なんて、もうどうでも…………


 そして引き金は引かれた。

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