第17話「はじめてのリング」
中が待つリング上に勝也が上がってきたその時、勝也に向けて隆則のストップがかかった。
「待て待て靴!靴!てかおまえ靴履いたままジム入ってきてたのか?ジムの中は土足厳禁なんだよ!まず靴だ!靴脱げ!靴!」
勝也は一瞬ムスッとした表情を見せたが、運動靴をリングサイドに脱ぎ捨てるとこれで文句ないだろと言わんばかりに裸足で仁王立になった。リングサイドでその様子を見ていた史も”え?そうなの?”と周りを見渡しながらその場で慌てて靴を脱いでソックスになった。
裸足の勝也はそのまま対角のコーナに立つ中にメンチを切りながら近寄っていく。
「こらこら。待て待て…」
「んだよ!待て待て待て待て…まだなんかあんのかよ!?リングの中で殴り合うだけだろ!?ボクシングなんか!」
「グローブだよ!グローブぐらい知ってんだろ!」
「…わーったよ!そんなに付けてほしーならつけてやっから早く貸せよ!」
隆則はため息を一つ吐くと練習生の一人に必要な用具一式を持ってくるように命じた。
「まずはバンテージだ。手だしな。巻いてやっから。」
勝也は「めんどくせえ」「なんでそんなもん」と初めは反抗していたが気がつくと手早くバンテージを巻く隆則の手元にすこし見とれてしまっていた。そして練習シューズを履かせてもらうとジムに余っていたものとはいえ、自分が普段履いているシューズとは格段の履き心地の良さに感動した。グローブをはめてテーピングを巻くと先ほどまで心を覆っていたザラついた感情はどこかに行ってしまったようで、なにか今までに湧き上がったことのない至極まっとうな感情が自分の中で高揚してきている感覚を勝也は覚えた。
”はやくボクシングがやりたい”
そんな気分に浸っている勝也は不思議と周りから見ると絵になっている。対角コーナーの中、リングサイドの史を始めとして隆則、ジムの会長もその姿に目を奪われた。
「まだかよ松本!はやくゴング鳴らせや!」
「な、なんで俺なんだよ。知らねーよ」
「バーカ。コレつけなきゃやらせねーよ」
そう言うと隆則は勝也の頭にヘッドギアを被せる。
「うわっ!何すんだ!いらねーよこんな邪魔くせーもん!しかもなんか…ウゥ…クセー!!」
「邪魔くせーし、くせーかもしんねーけど、お前の頭を守ってくれんだよ。昨日のダメージもまだ残ってんだろ?」
「あ?」
なぜ隆則が昨日のことを知っているのか、勝也がそのことを考えているうちにゴングは鳴った。
「いいな1ラウンドだけだぞ!1ラウンドってのは3分だからな!」レフリーを買って出た隆則のバカにしたような言葉に「うるせー!そのくらい…」と勝也が答えようとよそ見しているうちに中がコーナーからダッシュ!明後日を見ている勝也の顔に鋭い右を入れた。
勢いでダウンしてしまった悔しそうな勝也の顔を隆則が笑って覗き込みながら
「よかったろ?ヘッドギアしてて」
勝也は隆則を睨みつけ、それから中に向かって叫ぶ
「てめー不意打ちなんて卑怯なマネしやがって…!」
「卑怯?ゴングなってんだよ、やる気あんのかバカ」
その言葉を聞いて勝也はすぐに立ち上がると、強引にヘッドギアを脱ぎ捨てた。
「オメー相手にこんなもんいらねーんだよ」
「おい!」
そんな勝也に注意を促す隆則だったが、次の瞬間その対象がもう一人追加された。
「フン…」
中もヘッドギアをとったのだ。
「お前らなぁ…」
頭を抱える隆則を無視し、勝也がコーナーで待つ中に突進していく形で試合が再開された。
「うらぁ!」
勝也の振り回しの左右のパンチも中のフットワークの前では無残に空を切る。
(あたんねぇ!こいつ、こんなに早かったか…?)
中は攻撃を交わしながらも隙を見ては攻撃に打って出て、また距離をとるヒットアンドウェイスタイル。
(しかも一発一発が重てぇ…)
上下へと打ち分けられる攻撃を勝也はことごとく貰い、逆に繰り出す攻撃はことごとくかわされる。グローブから伝わるダメージは蓄積され、思考もどんどん限定されていく。
(こいつ…調子に乗りやがって…!)
”きっと勝ち誇ったむかつく顔をしてるに違いない”狭まっていく視界の中で、中の顔を確かめようとした勝也の目に飛び込んできたのは…意外にも真剣そのもの”絶対に負けない!”そんな目をした中だった。
「テメー!逃げ回ってんじゃねえぞ!正々堂々打ち合いやがれ!」
中の目を見たその後に思い浮かんだ現状打開策はただの挑発。もはやまともに思考できる状態ではなくなっていた。
(こりゃきまりかな…)
隆則がそう感じ、スパーを止めようとしたその時だった。
「そんなに早死してえなら要望にこたえてやらあ!」
中がなんと挑発に乗ってきたのだ。リング中央、勝也と頭がぶつかりそうな距離まで詰め寄ると脚を止め、打ち合いの体制に入った。
「おい!」隆則の声は二人にもう聞こえていない。
「ぐあっ」
接近戦でも中の強打が優先的に勝也に突き刺さる。
「くそっ」
振り回す勝也の攻撃は当たらない。接近した距離でも見事に交わしていく中に隆則も会長も止めることを忘れて見とれてしまう。
「これがお前のナメたボクシングだ!」
(俺は誰にも負けない!プロになって、自分で金を稼いで…!)
連打を確実に当てていく中に周囲で見学していた練習生たちも「おいおいスパーになってんねえじゃん。あの素人もかわいそー」とヘラヘラリングサイドで笑い飛ばす。練習生たちはすこし上か同い年ぐらいだろうか。見るとどいつもこいつも高そうなシューズを履き、スポーツブランドのロゴが入ったウエアを着ている。そんな練習生たちの発言はリングサイドで同じく見学していた史の心にザラついた何かを塗りつけきた。
「おい!近藤!頑張れ!」
ボロボロの勝也を応援する、そんな史を見て練習生たちはまた笑い出す。「無駄無駄!なにムキになってんだこいつ」
無謀な応援をする史とリング上で無謀なスパーリングを続ける自分を嘲笑う練習生たち。その様子を見て勝也の頭の中に再び浮かんできたのはSTARSの店長の言葉だった。
「夢中になれるものもない」
「お前は甘えてるんだよ」
「夢中になれるものがあんのがそんなに偉いのかよ…」
対戦相手から視線を外し、リングの外を見て何かをつぶやく勝也に、中の拳が容赦なく襲いかかる。
「よそ見してんじゃねー!」
倒しにかかった中の拳は大振りになった。一方振り向きざまに出した勝也の拳は直線的に中に進んでいく。その拳はカウンター…とまでは行かなかったが、ガードの上から中の拳より先に到達した。勝也のこの攻撃はクリーンヒットとまではいかなかったものの、このスパーで初めて中の体を捉えた瞬間であった。
だがそのたったの一発。そのたったの一発がなんと中の表情を苦悶の色に変えていく。
その隙を勝也は見逃さない。初めてのチャンスに連打を打ち込んでいく。必死に打ち込んでいく。そんな勝也を驚きの表情でみつめているのは隆則だ。
(おいおい、ガードしてたんだぜ…しかも一発かよ…)
そして必死に打ち込んでいく勝也の表情をみて何故かうれしそうな顔をしているのだ。一方押し込まれていく中だが、負けるわけには行かない。その目は死んでいない。
(負けるわけにはいかねー…負けるわけには行かねーんだ!)
そして中は勝也の一定のリズムの連打に、その右に、いとも簡単にタイミングを合わせカウンターをあてた。その瞬間勝也は目の前が一瞬真っ暗になり、初リングの記憶はここまで。二人の戦いはここであっけなく幕を閉じたのだった。
そして次に勝也が目を覚ましたのはジムのベンチの上だった。
「おまえなかなかつええじゃん!その歳で中と渡り合えるなんてそうそういねーぞ!なんかやってんのか?格闘技?」
目を覚まして一番に声をかけてきたのは隆則だった。というより隆則の騒いでいる声で勝也は目が覚めた気もする。
「べつになにも…それに…負けたんだろ俺?その瞬間見てたんだろーが。だいたいなんだオメー。だれだよ?」
「あ?人にもの尋ねる時はまず自分からだろーが。まあお前の名前は知ってっけどよ…俺は坂本隆則っつうんだ、オメーと同じ中学の3年だよ」
「へー、そーかよ。…てかオメーが先になんか格闘技やってんのかって俺に質問したんじゃねーか!オメーだよ、先にもの訪ねてきたのは」
「はっはっ!そーかよ!それにしてもすげぇな、お前。何もやってねーのかよ。いいセンしてるぜ」
「流してんじゃねーよ!ったくなんか調子狂うなこいつ…」
「まあ聞けよ、あいつは中はよ。全日本アマチュアボクシング小学生の部のチャンピオンなんだぜ」
「んだよ。小学生かよ。たいしたことねーな」
「オメーもこないだまで小学生だったろうが」
勝也と隆則の会話に割ってきたのは史。
「んだよ、いたのかよ」
「んだよ、ずっといたよ」
「それであいつは?病院?」
「なんでだよ、行った方がいいのはお前だよ。植草なら奥でシャワー浴びてるよ」
ジムの奥のシャワー室では水の流れる音が聞こえている。戦士が熱を持った体を冷やしているのだ。だがスパーが終わってからもう何十分と入っている。熱を持った体を冷やす時間としてはちょっと長い。シャワー室の戦士は勝也の右拳をガードした左腕を重点的に冷やしていたのだ。そしてその場所には今現在まだ完璧には感覚が戻っていない。
「くそっ!なんてパンチしやがんだアイツ…!」
感覚を完全に戻すことをあきらめ、中がシャワー室から出てくるとそこには会長が待ち構えていた。
「腕に力が入んねーか」
「…」
「ガードした腕があがんねー。そうすると顔が空く。そこにあの小僧が気づいて尚且つ当てる技術があれば勝負はわかんなかったな」「それは…もしもが重なりすぎですよ」
会長と中が練習場に戻るとまだ隆則と勝也が騒いでいた。
「だからボクシングやれって!絶対いいとこまでいくぜ!お前なら!」
「だからやらねーっつってんだろ!ボクシングなんか!あ、てめー植草!てめー勝ったと思ってんじゃねーぞ!」
「俺の完全勝利だろーが負け犬」
「なんだぁ!てめーコラ!」
「おまえらいつまでやってんだ。練習だ練習」
会長の声で中も隆則も練習に戻って行った。
サンドバックを叩く者、縄跳びを飛ぶ者、壁の大きな鏡の前でシャドウボクシングをする者、そんな中で再びやることがなくなってしまった勝也と史は再び場違いな気分に苛まれる。
「けっ、いこーぜ松本」
「おい近藤!お前まじでセンスあっからよ、ボクシングやりたくなったらいつでも来いよ」
帰り際の隆則の勧誘にも”うるせー”だの”何回言わせんだ”だの勝也はもう何も答えなかった。
裸足にヨレヨレの運動靴を足早に履いて史を置き去りにするようにジムを後にする勝也の姿を史は見つめていたが、すぐに追いかけ、二人はジムを後にした。
空はすっかり夕刻色に染まり、あたってくる風もどこか冷んやりしていた。自転車も同じように夕刻色を反射させ少し冷たい風を切って町をあとにする。
「あーあ、結局昼何にもくってねーじゃん」
「お前は気ぃ失ってたからな」
「え!?お前なんか食ったの?」
「あぁ。適当に」
「なんだよそれ!ズリー!」
「ズルくねえよ!お前が気ぃ失ってんのが悪いんだろ!」
「んだよ、あ〜腹減った〜!!」




