第2話
「あー…疲れた」
『おいおい、麓はもう少し先だぜ。大丈夫かよ』
「いや、足が疲れたんじゃなくて、頭が疲れた」
シエルは軽く頭を振った。新しい情報を詰め込みすぎて脳が疲れている気がする。
『なんだそりゃ』
「いや、だって、今みーちゃんに聞いた全部が全く初めて聞いた事ばっかりだったし、何よりここでは私の常識が通用しないんだと痛感して」
ここはアルタール…正しくはアルタール帝国といって、この辺では一番大きな国。王の統治が広大な国の隅々まで行き渡り、ここ何代にもわたって近隣諸国との情勢は至って良好。食料自給率もこの世界では珍しく100%を超え、人々は平和で豊かな生活を謳歌している。
アルタールでは魔法が一般的に普及しており、どんな平民であっても必ず何かしらの魔法を使って生活している。そして諸外国にとってこの魔法こそが脅威。なぜなら魔法は生粋のアルタール人しか扱えず、またアルタール人であっても外国に住居を移すと魔法が使えなくなってしまうらしい。よって他国は絶えずスパイを送り込み、魔法の何たるかを解き明かそうと躍起になっている。
しかしそんな魔法の恩恵を受ける平和なアルタールでも、人々の悩みの種となっている事案がいくつかある。
それは魔法を悪用して犯罪を犯したり、争いの火種を撒き散らしたり…という人々であったり、俗に『魔王の牙』と呼ばれ、人間の意志を乗っ取り、世界を支配しようと企む魔王の魂が込められた道具だったり…というものだ。ひとたび誰かが手にすれば、その人間は魔王の手足として世界を破滅に導く…といわれる伝説の道具。
「……で、みーちゃんはその『魔王の牙』ってやつなのよね…?」
『…何だよ、その胡散臭そうな顔は』
「や、実際胡散臭いから」
シエルはばっさり切って捨てた。魔王の牙、なんて呼び名、胡散臭い以外の何物でもない。
『お前なぁ…使い方次第じゃ世界も統べられるんだぞ?』
「そんな事言われたってピンとこないわよ。日本じゃ魔法なんて存在しないし、そもそも世界制服出来るだけの力があるんならみーちゃん一人でやれば良いじゃない」
『俺は杖だぞ?杖だけじゃ歩けないし媒体もない』
「媒体?」
『そうだ。契約者の身体を媒体にして初めて魔力を解放出来るからな。俺一人じゃ何も出来ねぇよ』
そこまで聞いたところで、シエルはふと立ち止まった。
「…ちょっと待って。私べつにみーちゃんと契約してないんだけど?その感じからすると、今私はみーちゃんの力を使えないのよね?」
『その通りだ。まだお前と俺は契約していない。したがってもし今危険が迫っていたとしても、シエルは俺の力を使えない』
「じゃあなんでさっき火を起こせたの?あれだって魔法なんでしょ?」
『お、鋭いな。あれは初歩中の初歩だから、俺一人でも可能だ。あれ以上強い力は出せないけどな』
「………ふぅん?」
よく分からないといった感じで首を傾げたシエルに、
『ま、あれだ。もうすぐ山を下りるわけだが、下界はどんな危険があるか分からん。俺と契約しとくに越した事はないぞ?』
「危険って?」
『もう分かってると思うが、ここはお前が今まで生きてきた世界とは何もかもが違う。普通に魔法が蔓延っているし、何より今この付近は治安が悪い。正直言って今のお前は不審者だ。魔力を持たない非力なお前なんか、正直ひとたまりもない。もし不審者として通報されて兵士に引き渡されたら処遇がどうなるか分かったもんじゃねぇよ』
真剣な口調に、私は今自分が置かれている状況を嫌でも認識する。
『契約すれば俺がお前を守ってやれる。俺より魔力の高い杖なんざそうそういねぇから、魔力の質だけで相手を圧倒できる』
…妙にすらすら甘い言葉を喋るこの胡散臭い杖を信じて良いものなんだろうか。でも、契約しないで山を下りて、ソッコーで捕まるのは嫌だ。
「……契約って、途中で解約したり出来るの?」
『俺の魔力が尽きるかお前の命が尽きるまでは出来ないな。逆に言えば、どちらかが力尽きると嫌でも契約を解除さざるを得なくなる。契約が成立した時点で俺とお前は一心同体ってわけだ』
「…そんな事言って、契約した途端私の身体を乗っ取る、とかやらないでしょうね」
『お前なぁ。そんな芸当が出来るなら、俺を手にした時点でとっくにやってるっての。シエルと契約しないと、俺も自分の力を100%出し切れねぇんだよ。もしお前に何かあった時、力が出せなくて死なせたなんてあっちゃ、魔杖の名が廃るだろ』
「だってさっき自分で魔王の牙は人間の意志を乗っ取ってどうこうって言ってたじゃない」
『あれは俺が乗っ取るんじゃなくて、俺の力に溺れた奴が俺の意識に引っ張られるんだよ』
「………ごめん、何が違うのか理解できない」
そうこうしているうちに、坂道が目に見えて緩やかになってきた。雑木林も手入れされた後があるし、そろそろ本当に下山しきる。
「………本当に身体乗っ取ったりしない?」
『信用ねぇなぁ。神に誓ってしねぇよ』
シエルは相変わらず胡散臭そうな目でミエドを見下ろしたが、とりあえず森を下りていきなりトラブルに巻き込まれないとも限らないので、大人しく契約することに決めた。
「…そんな事言って契約した途端私の身体に異変があったら、ソッコーで火にくべてやるからね」
『へいへい肝に銘じますよ。そんじゃシエル、宝石に触れな。わし掴むなよ、てっぺんにそっと触れるぐらいで』
言われるがままにそっと宝石のてっぺんに指を置く。と、宝石の中心に、小さな炎のようなものが浮かぶ。
『いいか、その手、終わるまで離すなよ。途中で不気味だと感じたら目ぇ閉じてろ』
ミエドが言い終わるよりも早く、ぶわっと炎が大きくなり、あっという間に宝石の内側いっぱいまで膨らんだ。けれど、めらめらと燃えているようなのにまったく熱くない。シエルは不思議な思いで炎を見つめていた。
「……?」
と、宝石から少しずつ炎が漏れ始めて来た。その炎はゆっくりとシエルの手の方へ向かう。ぎょっとして手を引きかけたが、「離すなって言っただろ」とミエドに一喝されて思いとどまる。
そうこうしているうちに炎がシエルの手に触れた。なのにまったく熱を感じない。そのままじっとしていると、突如ミエドの少しくぐもったような声がした。
『よーしいい子だ。あとちょっとで終わるから、もう少し我慢しろよ』
なんでそんなしんどそうな声なんだろう、と疑問に思った瞬間、凄い勢いで宝石から炎が噴き出した。
「え………っ!?」
その炎は瞬く間にシエルの手どころか全身へ蛇のように絡みつく。宝石から手を離そうにも、炎ががっちり押さえ込んでいて動かせない。
あっという間に、シエルの身体は炎に包まれた。
「な、ちょ、どうなってるの!?」
熱くはないけれど、身体が動かせないので不安になりながらもがくシエルの耳元で再びミエドの声がした。
『…あー…疲れた。契約すんのにこんな膨大な魔力使う事になるなんて思いもしなかったぜ』
背後から聞こえた声に振り向くと、そこに知らない男性が立っていた。
金色の髪に赤い瞳。大袈裟なローブのような服を着た男性は、気だるそうに首をコキッと鳴らした。
『過去一番しんどい契約だったかもしんねぇ。あれかね、別の世界から来た人間だから規格外なのかね』
いやー先が楽しそうだ、とにやりと笑う男性。その口調にはもちろん覚えがあった。
「……え、もしかしてみーちゃん?」
『おうよ。お前と契約したからこうやって人間の姿を具現化出来んだ。やっぱ手足があるっていいなー』
嬉しそうにぶんぶん腕を振り回すミエドを唖然と見つめるシエル。気付けば炎はすっかり消えていた…どころか、杖そのものがなくなっている。
「あれで契約は終わったの?っていうか、杖は?」
『あのなぁ。俺がここにいんのに杖があるわけないだろ。杖はあくまでも俺が人型を保ってられねぇ時の仮の姿だよ。そうそう、お前の手、見てみな』
見ると宝石に触れていた手の甲に複雑な紋章のようなものが刻印されている。…いつの間に。
『それ、俺とお前の契約印な。俺にも同じもんが刻印されてるから、誰がどう見ても一心同体ってわけだ』
ミエドの手の甲にもシエルとまったく同じ刻印がある。それらを交互に見ながら、はたと気付く。
「…これ、日本へ帰るときには取れるよね?」
そう。これはどこからどう見てもタトゥーだ。それもかなりいかつめの。見た限りではインクなんかじゃなさそうだし、こんなものこんな目立つ所へつけたまま日本へ帰ると色々都合が悪い。
『さぁ?』
「さぁって」
『俺だって別世界の人間見んの初めてだし、もちろん契約だってした事ねぇし。わかんねぇもんはわかんねぇよ』
あ、でも、とミエドは付け加える。
『過去に契約者が死んだら印も消えたって事があったから、もしかしたら消えるかもしんねぇな。なんだ、そんなにその契約印が嫌か?』
「嫌なんじゃなくて、日本じゃこれはタトゥーっていって、あんまり良いイメージのもんじゃないのよね。温泉とか入れなくなるし」
『温泉なぁ。こっちにもあるけど久しく入ってねぇなぁ。…さて、と。立ち話もなんだし、そろそろ下りますかね。麓の村に俺の知り合いがいるから、とりあえずそこ行くぞ』
そういって、ミエドはシエルに向かって『ん』と手を差し出した。怪訝な表情をしたシエルに、
『歩き方からして、お前あんまり山道慣れてねぇんだろ。その靴も歩きにくそうだし、手ぇ繋いでやるよ』
ほら、と再び差し出された手を、シエルは反論も出来ずにそっと取る。するとミエドの手は予想外に温かく、ここしばらく人肌に触れていなかったシエルは思わずほぅ、と安堵の息を吐いた。
『もう少し早く契約できてたら良かったんだけどなぁ。そしたら麓までワープしてやれたのに』
「……それ、なんで私がミードを拾った時に言わなかったのよ」
『こっちの話も聞かねぇで力いっぱいぶん投げたくせによく言うぜ…って、みーちゃん呼びはどこ行ったよ』
「…その姿でみーちゃん呼びは、どう頑張っても可愛すぎて似合わない。でも、ミエドって言っちゃうと魔杖だってばれちゃうから、これが精一杯」
真面目な顔でつぶやいたシエルに大笑いしながら、ミエドは彼女を麓まで導いていく。
変わった拾い物をしたな、と心の内で思いながら。