第1話
「………?」
自身の机に向かって研究に没頭していた男性は、何かの気配を感じたように周囲へ視線を巡らせた。しかし薄暗い部屋は特に何も変わったところはない。いつもと同じ場所に、いつもと同じ実験器具が整然と並べられている。
少し違うのは、普段使われていない器具が広い部屋の中央に鎮座していること。
男性は立ち上がり、その器具に近付いた。
ゆうに180センチは超えるであろう男性よりもなお高さがあるそれは一見すると巨大なフラスコのようで、中には見る角度によって色が変わる不思議な液体が満たされている。液体は蝋燭の光を受けてゆらゆらと幻想的な光を放っていた。
しばらく覗き込んでみても、変化は見受けられない。
「………気のせいか」
己を納得させるようにぽつりと呟き、フラスコに背を向けて再び研究を再開し始める。
男性が背を向けた瞬間、液体が何かを警告するように揺らめいたのだが、それに気付かれる事はなかった。
一方その頃。
「どこなのよ、ここはー!」
鬱蒼と茂った樹海の中、途方に暮れている一人の少女がいた。
つやつやの黒髪はクセの全くないストレート、くりっとした瞳は翡翠色。それに加えて陶器のようなとろりとした白い肌を持った、パッと人目を引く愛らしい顔立ちの少女は、誰もいない事を承知の上で思いっきり叫んだ。
「誰もいないし!携帯は圏外だし!そもそもさっきまで普通に街中にいたのになんでこんな森の中にいるのよー!!」
そう言ってススキに似た雑草を手当たり次第に引っこ抜く。完全に八つ当たりである。
少女の名は如月シエル。日本人の父とフランス人の母を持つハーフである。ただしフランス語は一切話せない。
本当は『如月・シエル・奏』という本名なのだが、シエルという響きが好きなのと、日本でミドルネームを名乗るには仰々しすぎる上に目立つので普段は如月シエルとだけ名乗っている。
先月18歳になったばかりの彼女は高校三年生、大学受験も無事に終え、今は卒業までの残された時間を友人達と楽しく過ごしていた。
この日もいつものように放課後を友人とカラオケに行ったりゲームセンターに寄ったりして過ごし、日も暮れて来たのでそろそろ帰ろうか、となった矢先。
突然目が眩むような光がシエル達を照らし、何事か分からないままあまりの眩しさにぎゅっと目を閉じ…気が付けば街灯も何もない森の中に一人突っ立っていた、という訳だ。混乱するのも無理はない。
「あゆみは?瑞樹は?恵理子は!?皆どこ行っちゃったのー!?」
再び叫ぶも返事はない。そうこうしているうちに太陽はみるみる姿を消し、あっという間に夕闇が森を支配し始めた。
「これは、まずいかな…」
生まれも育ちも都会っ子のシエルには、森の中でどう動けば良いかなんて知識は当然ない。分からない事があったらすぐに頼っていた携帯も、今は圏外で役に立たない。つまるところ、シエルの味方は何一つなかった。さすがに心細くなったのか、周囲をせわしなく見渡す。
「…とにかく、誰か探そう」
シエルは呟き、その場から離れる。かといってアテがあるわけでは当然なく、山から脱出するなら下り坂をおりれば何とかなるだろう、というだけで、ストラップに付けてあったライトで足元を照らしながら歩き始めた。
それから約1時間。
いっこうに終わりが見えない山道に、シエルは歩く事を放棄し始めていた。既に日は完全に落ち、木々の間から見える夜空には煌々と輝く満月と星が見える。ただしそんな月明かりもシエルの足元までは届かず、ついでにいえばライトも長時間の連続使用を想定していない造りなのか、光が弱くなってきた。
「…どうしよう…これは、やばいかも…」
知識のないシエルでも、このままでは非常に危険な状態だという事は本能で理解している。かといってどうすることも出来ない。
「誰かー!誰かいませんかー!?」
誰もいないだろうと半ば諦めながら叫んだ時、少し離れた場所から何か聞こえた。ぎくりとしてその方向にライトを向けて凝視する。しばらく無言で見つめていても、もう何も聞こえない。それでももう一度、さっきより少し声のトーンを落として呼びかけると、
『……おーい……ここだここだ……』
微かだが、今度ははっきりと男性と思しき声が聞こえた。
「わ、人がいた!どこですかー!?」
シエルは声のした方へずんずん突き進む。向こうが定期的に声を上げてくれているおかげでだいたいの場所が把握出来る。
「お兄さん、今どの辺にいるんですかー!?」
『もうちょっと奥に進んでくれればいるよー』
「もしかして、動けないんですか?」
さっきから声は同じところから聞こえてくる。もしかして怪我でもして動けなくなっているんだろうかと心配したが、
『んー、自分で動けないっちゃ動けないねぇ』
返って来たのは切羽詰った、とは程遠いのんびりした口調だったので、シエルはひとまず最悪の状況ではなさそうだと判断した。
そして、声がした場所周辺まで辿り着いたのだが…
「あ、あれ?」
そこには人影はおろか、人間がいた形跡すらなかった。雑草も踏まれたように見えないし、掻き分けられた跡もない。
「……どうなってんの?」
思わず呟いた途端、
『おーい、ここここ。君の足元だよ』
至近距離で聞こえた声にぎょっとして、言われたとおり足元を見下ろす。が、人はいない。
『今、目が合ったんだけどなー。俺の事、見えない?』
「見えない?って言われても……ん?」
その時、シエルの目に草ではない、きらりとした何かが映りこんだ。
「なにこれ……杖?」
拾い上げてみると、それはまさしく『杖』だった。杖そのものは細かな彫りが施されている以外はすらりとして非常にシンプルな木作りで、とても軽く手にしっくりと馴染む。きらりと光って見えたものは杖の先端に取り付けられたこぶし大の宝石のようなもので、ライトを当てると様々な色に輝いてとても綺麗だ。
「なんでこんなところにこんな物が…」
あまりの軽さにぶんぶん振り回していると、
『ちょいちょい、あんま振り回さないでよ。目が回るって』
「!?」
そろそろ聞きなれた声が、予想の遥か斜め上から降って来た。…そう、杖の先端から。
「………えっ?今、声が」
『あー、やっと草むらから脱出できた!いい加減飽き飽きしてたんだよなー。ありがと、お嬢ちゃん』
人間なら思い切り伸びをしながら発しているだろう雰囲気だ。なんとなく、宝石が揺れているようにも見える。
『しっかしお嬢ちゃん、なんでこんなとこにいるんだ?捨て子、ってわけでもなさそうだけど』
問われたシエルは目の前で起こっている事に頭が追いつかず、穴が空くほど宝石を見つめている。
『ここはアルタールにある魔封じの森なのは知ってるよな?普通一般人は絶対に入れないんだけど、お嬢ちゃん、どうやってここに入ったんだ?…あ、もしかしてオプファーの間者じゃないよな?』
ここまで聞かれてもなお無言のままのシエルを不審に思ったか、『……おーい?聞いてる?』と杖がみたび問いかけた瞬間。
「い、いやぁぁぁぁーっ!!」
『え、ちょ、うわっ!?いてっ!!』
森に迷い込んで以来最大の声量で悲鳴を上げ、シエルは杖を思いっきりぶん投げたのであった。
「……………」
『……………』
「……えーっと、ごめん?」
『なんで疑問系なんだよ!俺思いっきり木と岩にぶつかったんだけど!?』
頭にひびいってたらどーするんだよっ!と抗議の声を上げる杖を、シエルは胡散臭い目で見る。
力いっぱい遠くへ投げたはずの杖だったのだが、ここは森の中。すぐ近くの木に激突し、落下のついでに岩にしたたか宝石を打ち付けた、というわけだ。
「見たとこひびなんて入ってない入ってない。大丈夫だって。私にしてみれば、喋る杖と出くわしたなんて悪い夢でも見てるようだもん、そりゃ投げたくもなるって」
溜め息混じりに呟く少女を、杖はまじまじと見つめた。
青緑色の瞳はさして珍しくもないが、黒髪はこの地方はおろか、国中でもそうそう見つかるものではない。数人心当たりがあるにはあるが、他の部分があまり似ていない。服装も初めて見る形状をしており、何の素材で作られているか見当も付かない。
それに、さっきからこの反応。
『…お嬢ちゃん、ほんとに俺を見てそれだけしか思わない?』
「うん。それ以外はザ・杖って感じ。喋るのだけは理解出来ない」
きっぱりと言い放った。
実はこの杖、『魔杖《まじょう》』と呼ばれる杖で、先端に飾られた宝石は魔力の塊。悪意ある物が手にすれば世界を滅ぼしかねない代物で、この国の住人は誰もが杖の名前と形状を知っている。
『俺の名前、言ってなかったな。俺の名は魔杖ミエド。ミエド・ロコ・アルマってんだ。よろしくな』
この名前を告げれば、この国…いや、この世界の人間なら震え上がるものなのだが…
「ふぅん…私は如月シエル…えーっと、正しくは如月・シエル・奏です」
目の前の少女は何の感情も浮かべる事無く、淡々と自己紹介をした。その瞬間、ミエドは彼女がこの世界の人間ではない事を理解した。
『…そうか。で、何て呼べば良いんだ?キサラギ?シエル?カナデ?』
「シエルで。如月は苗字だし、奏よりはシエルの方が良いかな。…あなたは何て呼べば良いの?」
『俺か?魔杖ミエドで通ってるけど…シエルの好きに呼べば良いさ。この名前は色々インパクトでかいからなー』
「ふぅん…?」
『…あのな、俺って一応この世界では恐れられてる杖なわけよ。なんでかって言うと、この杖を持っていれば世界を統べられるぐらい凶悪な魔力が自分のものになる。それぐらいこの宝石には膨大な魔力が込められてるんだ。それこそ出来ない事はないぐらいにな』
いまいちピンときてないシエルに、ミエドはいちから自分の素性を説明する。
『こんなのがほいほい世に出たら世界が乱れたい放題になるだろ?だからこの世界の偉ーい魔術師さん達によって長い間ここ魔封じの森に封印されてるってわけだ。………何だよ、その顔は』
ここまで一気に喋って、ようやくシエルが何ともいえない複雑な表情を浮かべている事に気付く。
「…いや、最初から最後まで意味分かんない。魔力とか魔封じの森とか。それに…」
ちらりとさっきまでミエドが落ちていた地面に目をやる。
「……どう甘めに見ても、封印されてるっていうより、ただ雑にほっぽり出されてる感じだったんだけど」
『そこかよ!』
「いや、そこ以外全く理解出来なかったもんだから。そもそもここがどこかも分かんないし」
そう。シエルにしてみれば杖が喋るところから既に理解の範疇をあっさり超えており、その上で魔力がどうとか封印がどうとか言われても、脳がフリーズしているせいで情報が全て右から左へ筒抜けていたのだ。
『あー…そうか。そこからか…』
しまったしまった、とミエドは一人呟き、咳払いをした。
『シエル、お前は多分別の世界から来た人間だ』
「……………うん」
突然言われた事実を、シエルはあっさり受け止めた。ミエドを見付けた辺りから、薄々ここが日本ではないだろう事を頭の片隅で理解していたのだ。ミエドに言われた事で、それが確信に変わっただけ。
『なんだ、意外と冷静だな。で、だ。今俺たちがいる場所はさっきも言った通り魔封じの森って言って、帝国アルタールの北端にある。ここから王都まではそうだな…俺の瞬間移動なら一瞬だが、普通なら馬車で軽く10日はかかるな。基本的に結界が張られていて、おいそれと近付けないようになってる。だが最近ここに俺が封印されてるって情報を掴んだ隣国オプファーが何とかここに潜り込んで俺を手に入れようと間者を送り込んでて…』
「……ちょっと、ストップ」
シエルはミエドを手で制し、ついでに眉間に指を当てた。……何を言ってるんだ、この杖は。
「…とりあえず、ここが日本じゃない事は分かった。一般人が入れない所にいるんだって事も分かった」
『おぉ、物分りが早いな』
「……なんでこんな所にいるの、私」
非常に重要かつ初歩的な疑問を口にする。それに対してミエドの答えは
『さぁ?』
端的かつあっさりしたものだった。
「さぁって、強い杖なんでしょ?それぐらい分からないの?…あ、そうだ!さっき出来ない事はないぐらい強いって言ってたよね?だったら私を日本に帰して!」
『無理。さすがに時空は超えられねーよ。っていうかやった事ない。出来たとしても、時空を捻じ曲げた瞬間にお前まで捻じれる可能性が高い。四肢がばらばらになっても帰りたいか?』
ことのほか真剣な口調のミエドに、シエルは何も言えずに黙り込む。
しばらく無言でいると、空気を変えるようにミエドが切り出した。
『ところでシエル、その格好寒くないか?』
「え、あぁ…ちょっと寒い、かな」
シエルは自分の姿を見下ろす。学校帰りだったので制服のまま。長袖カーディガンこそ着ているものの、夜の森ではいささか頼りない。
『ん、じゃ俺を持ったまま…そうだな、そこにある切り株に近付きな』
言われるがままミエドを持ち、一抱えほどある切り株に向かう。
『で、俺を切り株に当ててみな。あぁ、軽くで良いぞ』
「…………?」
シエルは言われるがまま、先端の宝石をちょん、と切り株に触れさせる。
と、触れたところから小さな火が生まれ、切り株はあっという間に燃えて、辺りを照らし始めた。
「わ、すごい!」
『あー、久しぶりに力使ったなー。うまくいって良かった』
シエルは一瞬延焼を心配したが、不思議な事に時折風が吹いても火はすぐ近くの雑草に燃え移ることなくただ切り株だけを燃やしている。
「はぁ…あったかい。どういう仕組みになってるのか分からないけど、すごいね、『みーちゃん』」
『み、みーちゃん!?』
突如呼ばれた愛称に、ミエドの声がひっくり返る。
「だってミエドって呼んだら色々問題あるんでしょ?ロコもアルマも何かしっくり来ないし。だったらみーちゃんで良いやって」
『……………』
あっけらかんと言い放つシエルに、ミエドは沈黙で抗議の意を示したが、当然彼女には伝わっていない。
「いいじゃん、みーちゃん。可愛いし。…まぁ、口調からすると男性なんだろうけど、男性でもみーちゃんって呼ばれてる人いるし」
それに、と付け加える。
「…なんか、あなたが魔杖だってバレたら色々めんどくさそうだし」
鋭いところを突いてきたシエルを、ミエドは驚きの目で見た。…この少女、年齢こそ不明だが、決して愚鈍ではないようだ。
『……ま、呼び方はそれで良いとして、だ。シエル、とりあえず山を下りようぜ。お前、腹減ってないのか?』
「おなか…」
言った途端、シエルのお腹が空腹を訴えた。思えばこの森で相当歩いたし、時間的にもお腹が空きだす頃だ。
『こんなとこにいたって食えるもんは何もないし、ここは野獣も出る。今はまだ気配はないが、いつこちらの存在に気付くか分からん。まぁ、もし見つかったとしても俺が始末してやるけど…』
「……でも、山を下りたとしても、私お金持ってないよ」
一応カバンの中に財布は入っているが、この世界で通用するとはとうてい思えない。
『心配すんな。ツテはある。もう少し歩く事になるけど、大丈夫か?』
「うん、あとちょっとなら」
もうちょっと頑張ればご飯にありつけるなら、とシエルは気合いを入れなおす。
『よし、じゃあ行くか。ついでにこの世界の事いろいろ教えといてやるよ』
こうしてシエルとミエドは山を下り始めた。
これが後々『神の子シエル』と呼ばれる事になる始まりだとは、シエルはもちろんミエドすら気付いていなかった。




