ウッドエルフの村
私たちは川沿いにウッドエルフの村を目指して進んだ。
川といってもその様相は一定ではない。幅が数百メートルもある湖のような場所もあれば、崖の切り立った間を縫うように走る急流にもなる。のんびり川原の道を辿る旅路ではなかった。
いくら地図があってもウッドエルフの姉妹の案内がなければたちまち立ち往生していたことだろう。
「ここからは川を離れて、森を抜けていきます。村はもうすぐです」
王都の城壁のような滝まで来たとき、メイファが言った。
こんな巨大な滝を遡らなくて済んだことに心底ほっとした。体力には自信があったが、強行軍の連続で足腰は悲鳴をあげていた。
「どうせお前たちのことだ。もうすぐとか言って、あと一日くらいは掛かるんだろ。ここで夜を明かして、日の出とともに出発ということにしようぜ」
私以上に足にきていて後れがちだったカイルは手頃な岩に腰をかけた。すかさずカレンがカイルの膝の上に飛び乗る。
「私とお姉ちゃんなら、今から向かえば明日の朝には着くけど、おじさんが一緒だと三日かかるよ」
「まったくお前らときたら、見かけと違って鋼のような足と腰を持っている。そのかわり俺たち騎士には馬がある。まあ、今はないがな」
カイルは革の水筒に詰めたワインを口にした。例のユニコーンの血だ。サタケの船からカイルはかなりの量の酒をくすねてきていた。へばっている原因はその荷物の重さだ。
馬があれば道中はかなり楽になる。私は王都に置いてきたユリシーズのことを思い出した。ヨシュアという信頼できる馬番が居たから預けてきたが、あの子がここにいたらどんなに助かったことだろう。
カイルの意見を尊重して、その日は早めに野宿することにした。正直なところウッドエルフたち以外は異を唱えられないほど疲れていたのだ。
食料の調達はウッドエルフの姉妹とララノアの仕事だ。他のものには出番はない。彼女たちは木を削った手製の銛で魚をとり、弓で鳥を狩った。森の中から見つけてきたキノコや木の実を使って料理を拵えた。ララノアは秘伝の調味料をいくつか持参してきていたので、疲れた体を和ませてくれる食事は毎回楽しみだった。
車座になりおいしい料理に舌鼓を打っていると、キャンプしている気分になる。ここが魔獣のうろつく辺境の地であることを忘れてしまうくらい平和だった。私たちがダークウッドに入って十日が経つ。しかしその間、一度も魔獣と遭遇していない。
「ねえ、ここって魔獣の巣窟じゃなかったっけ。影すら見かけないけど、なんかおかしくない?」
私は満腹で、すでにおねむな様子のメイファに尋ねた。
「普段はあちこちにいます。でも不思議なことに今は気配も感じません」
とメイファは答えた。
あまり性能が良いとはいえない、私の魔精気レーダーにもそれらしい気配は引っ掛からない。
「騎士団が根こそぎ連れて行ったんじゃないのか」
カイルが横から言った。
「七人衆の話からして、王に付き従う魔獣だけが船に乗せられて、この地に住み着いた自生のものは別でしょう」
「だったら俺たちにびびってどこかに隠れているんだろう。どっちにしろこっちは大助かりだ」
確かにカイルの言うとおり、無駄な戦闘は避けるに越したことはない。
だが、どうにも釈然としない。
皆が寝入ると、私は剣の魔獣に呼びかけた。ベルと話すことはめったにない。それでも彼の存在はいつでも感じていた。
心の片隅に間借りしている住人のようなものだ。ひさしを貸して母屋を取られてしまっては困るが、番犬程度の安心感を与えてくれる関係は悪くなかった。
ところがこのダークウッドに来てから彼の存在はどんどん希薄になっている。そこに居ることは間違いないが、今までのような声を掛ければ届くほどの距離感ではなくなっていた。
私は意識を強く込めてベルに呼んだ。反応がない。
返事はしなくても(彼はたいてい返事しないのだけれど)ちゃんと聞こえているというリアクションはあるのだ。
何度か試みたが結果は同じだった。諦めかけたとき魔獣がようやく蠢いた。
――ちゃんと居るじゃない!なんで返事してくれないのよ。
――俺は今、魔精気を極力抑えている。極限までな。
ベルは声を潜めて言った。
――なんでそんなことをしてるのよ。あんたがいつでもアンテナを張り巡らせてくれていると信じているから、こんな場所でもぐっすり眠っていられるのに……
――いくらなんでもそれは油断しすぎだ。お前はまるで成長せんな……
――してるもん! 船の上でちゃんと剣術の稽古だってしてたもん!
――剣術の稽古だと? 剣を置いてまあ、それはともかく俺が魔精気を抑えているのは敵を引き寄せないためだ。
――敵って、魔獣のこと?だったらそんなもの全然いないじゃない。
――いるさ。そいつもかなり魔精気を抑えているがね。
王だ。私はそう直感した。ベルがただの魔獣をそこまで警戒するはずはない。
――それって王のことね。
――まだ完全な姿をとっているわけではないがね。しかし、すでに依り代の体に降臨しているのは間違いない。
――じゃあ美月は!王と分離したんだね。
希望が見えた気がした。魔獣はしばし時をおいて答えた。
――お前は勘違いしているようだが、分離などということはあり得ない。いいか、お前の妹は王を閉じ込めた牢屋の獄卒なんだ。王が脱出するときには獄卒は殺される。
危うくその場に倒れそうだった。
――美月は!美月はどうなったの? 死んだなんて言ったら承知しないから!
――あわてるな。今、感じ取っている王の魔精気は俺が知っている王のものとはどこか微妙に違っている。
――ちょっと待ってよ。あんたは魔獣の王を知っているの?
――奴が降臨したとき、俺はすでにこの地に居た。
ベルとはいったい何者なんだろう。エミリアが剣に封じ込めた高位の魔獣、分かっているのはそれだけだ。
しかし、彼は剣の魔獣となる前はどんなふうに存在していたのだろう。今とは違う王が降臨したとき一緒に降ってきたのだろうか、それともエミリアか他の魔導師に一本釣りされたのだろうか。
――ベル、あんたは何者なの?
どうせはぐらかされるだろうけど、私はストレートに訊いてみた。
――かつて俺は王だった。
意外なほどあっさりベルは答えた。
――王は何人も降臨したのでしょ。いつの時代の王なの?
――今の王朝ができるより遙か前のことだ。
――じゃあやっぱり悪行を尽くした果てに退治されたの?
――すべての王がお前が知っているような末期をたどったわけではないさ。それはともかく俺たちは狙われている。俺かお前かは分からんがな。かなり厄介な相手だ。用心に越したことはない。
ベルが魔獣の王だったことは驚きではあったが、それほど意外なことではなかった。本気になればあのティロロを怯ませるほどの魔獣だ。王であったところで不思議ではない。それよりも私の関心は美月の安否だった。
――それで美月は? 美月は無事なの?
――まだ羽化する前の王の気配を微かに感じる。しかし、恐ろしく不安定だ。
――どこに居るの?
――魔精気を抑えた状態ではそこまでは無理だ。いいか夏美、今は迫ってくる敵に集中しろ。下手をすると、お前の仲間の命を危険にさらすことになるぞ!
ベルは警告を残すと、気配を絶った。
翌朝早く、私たちは出発した。
太古の自然がそのまま保存されているこの森は危険に満ちていた。
天を覆うように生い茂った巨木、その合間を見たこともない植物が埋めつくしていた。
道なき道を雑草をかき分けながら進んでいく。黒い地面かと思って足を踏み降ろした途端、それが密集した蟻だとわかり思わず足を引いた。たちまち靴を黒く染めるほど蟻が取りついた。
トトが素早く魔法の炎で焼きつくしてくれなければ、蟻は私の体を覆い尽くしたに違いない。蟻の代わりに毒蛇を踏んづける可能性だってある。地雷原を歩いているようなものだ。
トトは一応は解毒の魔法を心得ているらしいが、すべての毒に効果があるわけではないらしい。
危険は何も足下ばかりにあるわけではなかった。
蜂や蚊は絶えず私たちを悩ませ続けたし、とりわけ私を苛つかせたのは体にたかるノミだった。米粒ほどの大きさがあり、人目を憚らず服を脱いで払ったところできりがなかった。こればっかりは魔法の力でもどうにもならない。
ただ私以外の(上流階級に属しているカイルやレオですら)私ほどノミに大騒ぎしている様子はなかった。単純に慣れの問題なのだろうか。
私たちの世界の人間は自分の肌に違和感を感じることに過敏になりすぎているのかもしれない。日頃節約を旨としている私ですら、入浴やシャワーは毎日欠かさない。しかし、この世界の人々はたまに体を濡れた布で拭く程度で、大半のものは、一生体を洗うことなどなく過ごす。私も入浴の習慣を失ってかなりの時が経つ。
そっと自分の腕を鼻に近づけてみたら、汗と垢のなんとも言えない匂いがした。これが本来の人間の匂いなのかもしれない。
今私が電車に乗れば間違いなく半径一メートル以内に人は近寄らないだろう。しかし、私は自分が発する悪臭に無頓着になっている。きっと痒みもその程度の話なのかもしれない。
滝を出発して三日目の朝、私たちはウッドエルフの村に到着した。村はまったくの無人だったが、遺体はすべて片づけられていた。生き残った村人がいるに違いない。きっとどこかに避難しているのだろう。
「私とカレンは村の人を探します。あなたたちは先を急いでください」
メイファが健気に言った。
もちろん幼い二人を置き去りにするつもりはなかった。
手分けして周辺を探そう、そう決めたとき、「誰か来る」とララノアが反応した。
「兄さんだ!」
メイファとカレンはすでに走り出していた。小屋の陰の茂みからウッドエルフの少年が飛び出してきた。
少年の名はアデム、メイファとカレンの兄で、美月たちを村に案内したのも彼だった。
「お前たちの死体がなかったから、連れ去られたと思って、波止場に行ったんだ。そしたら小山ほどもある船が何艘も泊まっていた。その船に騎士団の連中が大きな檻をいくつも積み込んでいたんだ。見なくても中身はわかったよ。魔獣だ。恐ろしくなって、俺は逃げ出してしまった。頼りない兄さんでごめんよ」
アデムは妹たちの頭を抱きしめた。
ララノアはその様子をじっと見つめていた。きっとヨシュアのことを思いだしているのだろう。それに気づいたレオが手を握ってやった。
「ところで、父さんと母さんは無事なの?」
メイファが再会の感涙に浸っている兄に訊いた。
「ああ、二人とも無事だ。今は大蛇の腹の穴に隠れている。生き残ったみんなもそこにいるんだ。行こう。父さんと母さんもお前たちが無事なのを知ったら、喜ぶぞ」
アデムは二人の手を引いた。
大蛇の腹の穴は村から少し離れたところにある洞窟だった。
茂みの中に巧妙に隠された入り口を下っていくと、広い空間に出た。そこには二十人ばかりのウッドエルフたちが居た。
その真ん中に横たわっている男の姿を見た瞬間、私の体は凍りついてしまった。
「生きていたのね。ガランド……」
トトがそう呟いた。




