決着
目の前に居る男は間違いなくブランだ。そうでなければ、あの扉は開かない。
しかし、私の愛したブランではなかった。今の彼は心を乗っ取られた哀れなパペットに過ぎない。
逡巡している暇はないのだと、私は自分に強く言い聞かせた。
ヨシュアの命が掛かっているのだ。小さなウッドエルフはウルスラを守るために躊躇なく身を投げ出した。私にはそれに応える義務がある。
「夏美、死んでもそいつを私に寄せ付けるな。今から私の魂も幽界に向かう」
エミリアは一言残すと、目を閉じた。
言われるまでもない。剣を一振りすると、私はブランを迎え討った。
人の心は失っても、ブランの剣技は健在だった。
あの月の夜、私を魅了した流麗な動きで攻め立ててくる。攻守の切り替えに隙がない。攻めの動作が即、守りの予備動作になっているのだ。なかなか付け入るチャンスがない。
しかし、私もあの時の私ではない。流れが相手にあるときには、けして無理をしない。レストンは魔操剣使いは攻撃型と守備型の二つに分かれると言った。
これまでの戦いを振り返ると、私はそのどちらでもないようだ。強いて言うなら、ハイブリッド型か。すべては向こうの出方次第だ。相手がジルバを踊るならジルバを、ワルツを踊るならワルツを。それが私の目指すやり方だ。
ブランの剣は速いが、バリャドリーのような骨の髄まで響いてくる重さはなかった。ティロロのような変幻自在な軌道の剣でもない。素直で予測しやすいのだ。
それは魔精気の流れを見てもわかる。ティロロの魔精気は体全体から湯気のように沸き立ち、攻撃に転ずると、それが一本の線のように鋭く伸びてくる。躰を取り巻く魔精気の流れにむらがないので、出所を読みにくい。
一方、ブランの魔精気はほとんど右腕に集中している。そこにさえ注目していれば、不用意な一撃を食らう心配はなかった。
問題はその速さだ。速さが攻撃によって生ずる守備のリスクを大きく下げている。
ただしその速さを維持するのに彼はかなりのエネルギーを消耗しているはずだ。魔精気というものは、そういつまでも高いテンションで維持できるものではない。私はただ待てば良い。
彼がどこかで羽を休めたとき、渾身の一撃でけりをつける。
エミリアはヨシュアの額に手を置き、旅立とうとする魂を呼び続けていた。
ララノアとウルスラは不安げにそれを傍らで見つめている。レオは剣を抜き、用心深く辺りを警戒していた。
そのレオが何かに気づいたように動いた。
鳥の視点が捉えたのは、床から沸き上がった氷のスケルトンだ。ご丁寧なことに氷の剣と盾まで装備してやがる。やはりティロロはどこかに潜んでいるのだ。
ガラスのコップが割れるような音があちこちで響いた。嫌な予感がする。そして戦闘中の嫌な予感はたいてい的中する。ワラワラと沸き上がった五体のスケルトンがエミリアたちの方に向かっていくのが見えた。
それまでの余裕が一瞬にして崩れた。五体のスケルトンからエミリアたちを守りながら、ブランの相手をするのはどう考えても無理だ。
エミリアは自分の身の回りで起こっている状況にまるで気づいていない。彼女の魂は今幽界に居るのだろう。
――ベル、魔法でこいつらを一気に始末できない?
魔獣が蠢く気配がした。
――おまえ、魔法を使えるのか?
――いや、魔法の講義はさっき受けたばかり。実践はまだ。
――なら無理だ。俺ができるのはおまえの持つ力を増幅させることだけだ。
ベルは男前な声できっぱりと言った。
カタログスペックにないものまで、どうにかしてくれるわけではないらしい。
今優先すべきはエミリアとヨシュアを守ることだ。私はブランから距離を取ろうと、半身を捻った。
「戦いに集中して! こいつらは私とレオでなんとかする」
私の意図に気づいたウルスラが言った。
バシャン!と氷のはじける音がして、迫ってきたスケルトンの頭を矢が吹っ飛ばした。
「ボクも戦うから、こっちは平気。ヨシュアには指一本触れさせない」
ララノアが弓を器用にクルクルと回しながら言った。
「なにその弓、すごい威力ね」
「一族に代々伝わる破魔の弓だよ。ばば様がダークウッドから持ってきたんだ。孫の中で使えるのはボクだけなのさ」
「そいつは心強いね」
ひとまず骸骨どもは彼らに託そう。
私は向き直ると、ベルに声を掛けた。
――勝負に出るよ。
魔獣は低い唸りで応えた。
(夏美、聞こえるか?)
剣を振りかざしたとき、頭の中に声が響いた。懐かしいあの声。今度は間違いない。正真正銘のブランだ。
(ブランなの! 正気に戻ったのね)
私は緊張をほどこうとした。
(だめだ、奴に気づかれる。戦っている振りを続けろ)
(奴って、ティロロ?)
(俺は奴に操られている。意思とは無関係にな。奴が氷の骸骨を作り出すのに意識を取られている隙をついて、おまえに話しかけている)
彼が操られていることは解っていたが、まだ正気の部分が残っていることには正直、驚いた。
(俺が正気を保っていられる時間はもうあまりない。王宮で起こっている馬鹿騒ぎは俺の魔精気を使っている。奴は人の魔精気を操ることができるのだ。一時に魔精気を大量に使えばどうなるか、お前ならわかるだろ)
魔獣化したバリャドリーの姿が私の脳裏に浮かんだ。
(でも、なぜ? ティロロにそんなことができるなら、どうして私と戦ったとき、私の魔精気を利用しようとしなかったの?)
(剣の魔獣がお前を守っているからだ。残念ながら俺の魔獣はそれほど強くないのさ)
なるほど、そういうことだったのか、圧倒的な強さに眩惑されて気づかなかったが、ティロロ自身はベルを恐れていたのだ。そう考えればティロロの不可解な行動も説明が付く。
ベルが居る間、彼女は本気で私を殺しにこなかった。しかしその後、ベルが応答しなくなると態度がころりと変わった。エミリアが助けに来なければ、あの時私は死んでいただろう。
しかし、それならなぜブランはもっと強い剣を使わないのだろう。高位の魔獣の宿る魔操剣は城一つ買えるほどの価値があるらしいが、王太子の彼なら手に入らないことはないはずだ。
その疑問を口にしようとしたとき、私は彼が出会った日に語ったことを思い出した。ブランの剣は、彼が愛したエレノアの形見だったのだ。
嫉妬の感情は湧いてこなかった。むしろ彼を誇らしく思った。一国の王太子なら私情を捨てるべきなのかもしれない。その脇の甘さが今の事態を引き起こしたのだから。
それでもやっぱり私はこの男を愛したことを誇りに思う。
(いいか、これから俺の話すことを良く聞くんだ)
再びブランが話し始めた。
(ティロロは俺の背後にいる。魔精気を極限まで抑えて俺の魔精気に紛れ込ませているのだ。俺を盾にしているのは、お前が放つ全力の一撃を恐れているからだ。迷いのない今のおまえの力はティロロといえども粉砕してしまうだろう。しかし俺という盾があれば直撃は避けられる)
ブランは一度そこで言葉を切った。
(おまえのすべての魔精気を込めた一撃を俺に叩き込め。俺はそれを防御しない。俺もろともティロロを殺すんだ)
(そんなことできるわけないじゃん!)
ブランがまだブランの中に残っているとわかったからには、彼を殺せるわけがない。
(奴を倒す方法はそれしかない……どのみち俺はもうすぐ魔獣になる。最後に見た俺の姿が化け物ってのはお前だって嫌だろ?)
氷のスケルトンは、今や二十体以上に増えていた。ウルスラもレオも肩で息をつきながら、なんとか凌いでいる。状況はブランの正しさを証明している。
(わかったよ)
私は答えた。
(生まれ変わっても、もう一度俺を選んでくれるか?)
ベッドの中でいつも私の耳元で囁いたあの声で、ブランは言った。
(もうこりごりよ。英雄ぶる男はたくさん。退屈でも、今度はもっと平凡な男にする)
(なら今度は農夫にでも生まれてくるか……時間だ。やれ)
ブランの気配が消えていくのがわかった。
――ベル、行くよ。
――ほんとに良いのか?
――くどい。
私は大きく剣を振りかぶる。剣は輝きを増し、力が漲っていく。
いつものようにその場で大きく踏み切った。
ブランの右腕は切れかけの蛍光灯のように明滅し、攻撃を防ごうと、引きつけられるように上にあがろうとしていた。相反する力がそれを抑えている。
ブランは大きく目を開き、私の顔を記憶に焼き付けるように見た。
「さよならブラン……大好きだよ」
私は彼の頭上に剣を振り下ろした。
しかし剣は空を斬り、身体全体に強い衝撃を感じた。私はゴムまりみたいに後方に弾き飛ばされ、後ろの壁に激突した。
素早く身を起こすと、ブランを見た。
彼は空気が抜けてしまったみたいに、その場へ崩れる落ちていく。
辺りを徘徊していたスケルトンも一匹残らず姿を消していた。
いったい何が起こったのだろう。
――上だ!間に合わん。急所を外せ
ベルが言い終わらないうちに、白い影が視界に入った。
「やめなさい!」
知っている声が響いた。
ティロロは動きを止めた。
「しかし……」
「目的は達した。余計なことはしなくていい」
私の眼前に声の主が姿を現した。
艶やかな黒髪は、蜂蜜色に変わっていた。碁石のように真っ黒だった瞳は、深い湖のように碧かった。
それでも目の前に立つ少女は私のかけがえのない妹だった。
「どうしてここに……ううん、そんなことはもうどうでもいい、帰ろう」
私は手を伸ばした。しかしそれは虚空をつかんだだけだった。
「ごめん、お姉ちゃん……帰ることはできないの」
「何言ってるの! 迎えにきたんだよ。早く家に帰ろう」
「私だって帰りたいよ! でも無理なんだ。この子を置いてはいけないんだ」
「意味が分からない。この子って誰なの?」
「お願いだから、お姉ちゃんは元の世界に帰って……お母さんがきっと心配している」
「帰るなら、二人一緒だ」
しかし、美月は首を振ると宙に舞い上がった。
そのまま真ん中の台座の王の屍体の上に舞い降りると、二言、三言つぶやいた。
白い手がさらに白く輝き始めると、美月はその手を王の心臓の部分に差し入れた。
私はその様子を茫然と見ているしかなかった。
やがて手は紅蓮の炎のように燃えさかる心臓をひきずりだした。
美月はもう一度、私を見た。
「さようなら」
そう唇が動いたのが解ると、私は狂ったように台座に駈けだした。
「行くな!」
幻のように消えていく美月に、私は叫び続けた。
ただ泣き続けた。這いつくばってひたすら泣いた。
涙と鼻水が床を濡らすのもかまわず、幼子のように泣いた。
愛する者を一度に失った。
いったい私は何をしにここに来たんだろう。結局、なにひとつできなかったじゃないか。
激しい悪寒を感じて、私は自分の身体をかき抱くようにその場にうつ伏せに蹲った。
「立って下さい」とレオが言った。
「王太子はまだ死んだと決まったわけではありません。それに妹さんの居場所はこれではっきりしました」
レオは腕をつかみ、むずがる私を無理やりに立たせた。
「行きましょう。ダークウッドへ」
「白い呪術師編」は今回で終わりです。
お付き合い頂きありがとうございました。
第四部「ダークウッド編」も引き続きよろしくお願いします。




