決別
日本に帰りたかった。
人は絶望すると、望郷の念に駆られるものらしい。ちっとも私にやさしくなかったあの国が今は無性に恋しかった。
ブランの魔精気を使って造りだされたゴーレムは、ティロロが去ると一瞬にして消え去り、その水は王宮の三分の一を浸水させてしまった。踝まで浸かる水の中、謁見の間を通り屋外に出ると、気持ちよい夜にブランと散策した中庭はすっかり泥田に変わっていた。
ここには色とりどりの花を咲かせた花壇が小径に沿いにずっと続いていて、武骨な王宮の中では数少ない心和む場所だった。
見たことのない花を見つけると、私はその名前をブランに尋ねた。彼は面倒がりもせずそのたびに立ち止まって、一つ一つ名前を教えてくれた。
その花壇もすべて沈み、泥水に漂う花びらだけが、その名残を留めていた。
美月が消えたあと、私はブランを背負い、長い階段を登って寝室に戻った。
ブランの体は通学に使っていたリュックサックみたいに軽くなっていた。いったいどうすれば百九十センチを越える大男がこんなに軽くなるのだろう。外見上の変化は何一つ認められなかった。顔色も良かったし、肌には張りがあった。それどころか彼は軽い寝息をたてていた。ふざけて寝たふりをしているだけで、今にも目を開けそうにすら見えた。身体を構成する素材がそっくり入れ替わってしまったのだろうか。知恵のエミリアですら首を捻るしかなかった。
中身のなくなったブランの身体をベッドに戻すと、私たちは地下で見たことを一切口外しないと誓い合った。
幸いなことに、王太子が寝室から消えていたことに気づいた者は誰も居なかった。目を覚まさない王太子のことに気を回す余裕すらないほど、王宮は混乱に陥っていたのだ。
ウルスラの提案で、私たちは当面王宮に留まることにした。王太子の居室は四人が寝泊まりして余りあるほど広かったし、避難した侍女や使用人たちの大半はまだ戻ってきておらず、見咎める者は誰も居なかった。ただエミリアだけは調べものがあるからとメイジタワーに戻った。
私は一日中、ブランの傍らで過ごし、ウルスラは王宮におけるただ一人の王族として、連日小評議会に顔を出していた。
レオはダークウッドに向かう準備に余念がなかった。レストンが手配してくれた船はすでに出航し、一から船を探す必要があったが、魔獣襲撃の報せはあちこちの港に広まっていた。
噂には尾鰭が付きもので、既に王都は陥落し魔獣が街中を徘徊していると船乗りの間では信じられているらしい。王都に向かう予定の船が次々と針路を変えたのは言うまでもない。マストが森のように林立していた王都の港は船影もまばらなほど閑散としていた。
それでもレオは連日、伝手を求めて朝から晩まで奔走していた。
その日、レオが船に乗る目途が付いたと上機嫌で戻ってきた。ついてはウルスラに資金の相談をしたいと言った。旅をするのに金が掛かるのは当然だが、私の手持ちのお金は底を突きかかっていたし、レオにもそんなお金があるはずはない。私たちの身の回りで、お金の無心ができる相手はウルスラしかいない。王女である彼女なら多少の融通はきくだろう。レオがそう考えるのは当然のことだった。
しかし、私は乗り気にはなれなかった。返せる宛てのない借金をすることも嫌だったが、ダークウッドに行く情熱を私は失いつつあった。
私は美月が不安に怯えながら、助けを待ち続けているのだ信じて疑わなかった。しかし、久しぶりの再会は私のそんな思い込みを木っ端身に打ち砕いた。
美月はティロロのような恐ろしい魔獣を従わせ、渾身の一撃を軽く跳ね返してしまうような力を持った何か別の存在になっていた。魔獣の王の死体から心臓を引き出す姿を見たとき、ティロロは手先に過ぎず、今回の一連の騒動の真の主役は誰なのか理解した。
いったい美月の身に何が起こったのだろうか。ひとつだけ確かなことは、私たちがかつてのような暮らしに戻ることは、もうありそうにないということだけだった。
ウルスラが小評議会から戻ってきたのは夜更け過ぎだった。
「ここに戻ってくると、ほっとするわね」
ウルスラは緊張した表情を緩めると、小さな身体を大きな背もたれの椅子に埋めた。ヨシュアが恭しく温めてワインを差し出すと、彼女は優雅な微笑みを浮かべて銀のゴブレットを受け取った。
「何か食べるものをお持ちしましょうか?」ヨシュアが尋ねると、ウルスラは首を振った。
「ありがとう。今は食事を取る気分ではないわ。それよりヨシュア、あなたは怪我人なのよ。起きていては身体に障るわ」
自分にできることが他に何かないものかと、目玉を忙しく動かしているヨシュアに、ウルスラは言った。
「お気遣いありがとうございます。でも怪我のほうはもうすっかり良いのです」
ヨシュアは浅黒い顔を朱に染めて答えた。
彼にとってはウルスラの存在がなによりの養生になるのだろう。
そんな兄の様子をララノアは不機嫌に眺めていた。ヨシュアが目を覚ましたときの第一声が、ウルスラの身を案ずるものだったことが、彼女には気に入らないらしい。たわいないことで、喧嘩ができる二人がうらやましかった。
「実は殿下にお話があるのです」
レオが口を開いた。
きっと話を切り出すタイミングを、はかっていたのだろう。
「どのようなことでも言ってちょうだい。私のできることならなんでもさせてもらうわよ」
改まったレオの様子にウルスラは少し驚いたようだったが、それでも気さくな調子で答えた。
私はレオを押しとどめようと、彼の膝に手を置いたが、彼は構わず話を続けた。
「やっとダークウッドに行く船が見つかりました」
「まあそうだったの……本来なら王家の船を出してあげたかったのだけど、今はすべて食料の買い付けに出払っているのよ。王都の食料は日に日に値上がるばかり。本来ならもっと早く手を打つべきだったのにすべてが後手に回っている」
「小評議会が機能していないのですか?」と、レオは尋ねた。
「食料の問題だけじゃない。王宮の修復、先の襲撃で失った兵の補充、やるべき事が山積している。それなのに王も王太子も不在の今、先頭に立つべき彼らは何一つ決めることもできず、議論を先延ばしにしている。誰も責任を負いたくないのよ」
「どうして?彼らは国の指導者なんでしよ?」
私は憤慨しているウルスラに訊ねた。
「小評議会の面々は皆、ハイデン公が推薦した者たちなのよ。へつらうのがうまいだけの者と、ハイデン公にとって人畜無害な能無ししかあそこには居ない。今頃彼らは飼い主の意向を伺おうと、遣い烏を争って飛ばしているはずだわ」
「いっそ、ウルスラが仕切ってはどうかな」
彼女ならブランという扇のかなめを失ったこの国をまとめることができるはずだ。
「それができるならとっくにそうしているわ。王族の代表として、評議会には顔を出しているけど、意見を求められたとき以外は、彼らのくだらない議論を眺めているだけなのよ。もっとも私はそんなことにお構いなく口を挟んでいるけど、残念なことに決定権は彼らにあるのよ」
ウルスラは思い出すのも腹立たしいといった調子で捲し立てた。
「それでレオ、船が見つかったという話をしたかっただけじゃないんでしょ?」
ウルスラは黙って私たちの会話が終わるのを待っていたレオに訊ねた。
「実を言うとお金のことなのです。船の目処はついたのですが、手付けを払うのが精一杯で、それで殿下に資金を援助して頂けるとありがたいのです」
「なるほど、何をするのにもお金ね。わかったわ、それでいくら必要なのかしら?」
「ざっと計算したところ、六万ダカットあれば何とかなりそうなのです」
レオの答えにウルスラは目をむいた。それがどれくらいの金額か私にはわからないが、ウルスラの驚きかたからして途方もない額なのだろう。
「あなたは、艦隊を率いてダークウッドに乗り込むつもりなのかしら?」
「できるならそうしたいくらいです。今回のことで解ったのは生半可な準備ではどうにもならないということです。艦隊は無理にしても、それなりの戦力を整えないと……少なくとも魔操剣使いが十人、腕の立つ戦士五十人は必要です。すでにその手配もある人に頼んであります。船を仕立てる費用、傭兵への支払い、その他もろもろの費用を考えると、最低それだけは必要なのです」
レオつがこれほど大がかりな計画を建てていることを私は聞かされていなかった。船と言っても商船に便乗させてもらう程度に考えいたが、まさか専用の船を雇い入れ、傭兵まで集めていたとは……
「レオ、いくらなんでもそんな大金をウルスラに出せというのは無茶よ。たださえ国がたいへんで出費が嵩んでいる時期なのよ。すこしは考えなさい」
私はレオを叱った。
レオはそれまで見たことのないきつい表情で私を見返した。
「ダークウッドにはティロロのような魔獣があとどれくらいいるかわからないのですよ。夏美さんの魔操剣一本でどうにかなると思いますか?」
「そんなのわからないでしょ。それに私が言ってるのは、お金の無心をウルスラにするのは筋違いだということよ」
自分が感情的になっているとわかっていたけれど、声を荒げずにはいられなかった。しかし、レオは怯まなかった。
「夏美さんはこの世界に来た目的を忘れたのですか?」
「忘れるわけないじゃない!」
「だったらなぜ行動しないのですか? 船一隻見つけようともせず、日がな一日、王太子のそばでため息をついていただけじゃないですか」
「ブランがこうなった責任の一端は私にあるのよ……こんな彼を置いていくなんてできないわ」
「夏美さんが傍にいたからといって、王太子が目覚めるわけではないのです。エミリアさんはメイジタワーに隠り、王太子を蘇生させる方法を求めて古書と格闘しています。ウルスラ王女は王太子の不在を埋めようと必死に働いている。なのにあなたは悲しみに暮れているだけだ」
「うるさい、もう黙って! あんたなんかに私の気持ちがわかってたまるか!」
「わかっています。夏美さんは、ダークウッドで、真実を知ることが怖いんだ」
ウルスラが割って入らなければ、私たちはつかみ合いをしていただろう。
2
最悪な気分で居間を出ると、ブランのベッドの脇に置いた籐の椅子に倒れ込んだ。執務が深夜まで及んだときは、ブランはこの椅子に腰掛けて、私の寝顔を見つめていた。私が目を覚ますと、「お前は赤ん坊のようにすやすやと眠るのだな」と目を細めた。
今は私が彼の寝顔を見下ろしている。彫りの深い彼の顔を見ていたら、高校時代のバレーボール部の合宿のことを思い出した。
昼間の猛練習にもかかわらず、夜になると同室の部員たちはしばしば恋話を咲かせたものだった。私はいつもそういう輪に入ることを慎重に避けていたけれど、その日ばかりは逃れることができなかった。
「夏美って好きな人はいるの?」
彼女たちは興味津々な面持ちで訊ねた。
私にだって気になる存在くらいはいた。でもなぜかそのとき、こんなことを答えた。
「今、好きな人はいない。でもどんな人を好きになるかはわかってる。勇敢で、やさしくて、私より背が高いとびきりのイイ男なんだ」
「夏美より背が高くて、その三条件を揃えた男となると日本にはなかなかいないよ」
誰かが言った。
「でも、ヨーロッパとかならいるかもしれないよ。あの辺の人なら夏美より背が高い人はごろごろ居そうだし」
別の誰かが言った。
結局、私の好きな人はヨーロッパを飛び越えて、異世界に居たわけだ。
現実を受け入れるべき時がきた。今私が見ているのはブランの抜け殻に過ぎない。エミリアですら見つけることができないほど、遠い世界に彼の魂は旅立ってしまった。私がその抜け殻の傍を離れることができないのは、引き止めるブランの手を振り払った後悔と贖罪の気持がそうさせているのだ。
「ごめんね、ブラン。私はダークウッドに行くことにしたよ。あなたが目覚めるまでそばに居たかったけれど、やっぱりそんな殊勝な女は柄じゃない。エミリアならきっと良い方法を見つけてくれると思うんだ……何も約束はしないよ。戻ってこれる保証なんてないからね。この世界に来て解ったんだ。明日なんて誰にもわからないってことが……だからあなたは私のことを精一杯愛してくれたんだね。私はちゃんとそれに応えられていたのかな……あれはあれで私の精一杯だったんだよ」
私は何も言わないブランの寝顔にさよならを告げた。
「夏美、レオが行っちゃったよ」
いつの間にか眠り込んでいた私は、ララノアに揺さぶられて目を覚ました。
「行ったって、どこに?」
「レストンのところに行くって言ってた。やらなければならない準備がまだあるから、王宮に戻る時間がもったいないって……」
ララノアは半べそをかきながら言った。なるほど、あくまでもあいつは私をダークウッドへ連れて行くつもりらしい。ひとりでに笑みがこぼれてきた。
「夏美? なんだか嬉しそうだけど、どうしたの?」
「しゃあない、私も出かけるとするか」
「出かけるってどこへ?」
「ダークウッドさ」
尻込みする私のケツをいつも蹴っ飛ばすのはレオだ。
私はウルスラに王宮を出ると告げた。
「それがいいわ。お金のことは私がなんとかするから心配しないくていい。でも、あなたがうらやましわ。レオみたいな信頼できる従者がいつも傍に居てくれるのだから」
彼女はそう言うと、私をきつく抱きしめた。
王宮の門に差し掛かったとき、ヨシュアが不意に立ち止まった。
「ララ、やっぱり俺はここに残るよ。ウルスラ様をひとりにはできない」
ヨシュアは思い詰めた表情で言った。
「まだそんなこと言ってるの。侍女たちが戻ってきたら、私たちは王宮を今までのようにうろつくことはできないんだよ」
ララノアは兄を諭すように言った。
「わかっている。だから馬番に頼んで、下働きに雇ってもらうつもりだ。俺は馬のことなら詳しいからね」
兄の言葉にララノアは悲しげに首を振った。
「ウルスラ様は王女様なのよ。ヨシュアがいくら好きでもどうにかなる相手じゃないんだ。心の傷が深くなる前に忘れてしまう方がいいんだよ」
それは彼女が自分自身に言い聞せているように聞こえた。
「そういうんじゃないんだ。そりゃあウルスラ様のことは好きだ。でも俺があの人の傍にお仕えしたいのは、あの人は俺たち哀れなウッドエルフのために神様がお遣わしになった救世主だと思うからなんだ」
「救世主?」
「こんな話をしても信用してもらえないかもしれないけど、地下でウルスラ様が王太子様に斬られそうになったとき、声が聞こえたんだ。『ヨシュア、その娘を死なせてはいけない』ってね。あれはきっと神様の声に違いない」
ララノアは兄の顔を穴が開くほど見つめていた。
「わかった。ヨシュアがそう決めたのなら仕方ないよ。でもボクはヨシュアの妹なんだ。そのことは絶対に忘れないでね」
ララノアは瞳を潤ませた。
「あたりまえだろ。おまえがどこに居ようと、俺にとってララは自分の命より大切な妹だ」
「どこに居ようとって、なんだかボクが遠くにいくみたいじゃないか」
ヨシュアはララノアでなく私を見た。
「夏美さん、お願いがあるのです。ララをダークウッドに連れて行ってやってくれませんか?」
「生きて帰れる保証はないんだよ」と、私は言った。
「だからこそなんです。このままレオさんと別れてしまえば、ララは一生後悔すると思うんです」
けして離してはいけない手がある。私はそれを離してしまった。でも、あのとき居住区に向かった選択は正しかったと思っている。それはきっと、避けられない運命だったのだろう。
ララノアとレオの二人にどんな未来が待っているのかはわからない。でも離さずにすむ手なら、繋いだままでいるべきなのだ。
おいおい声をあげて抱き合う二人を見ながら、私は強くそう思った。




