第6話:社内インサイダーの緊急監査――「身内のバグは本日中に強制決済します」
誰も口を開かなかった。
馬車の車輪が軋む音だけが、夜道に響いている。
蕭何は。
張良が差し出した、血塗られた竹簡を見つめていた。
前世でも、何度も見た。
不正会計。
横領。
競合への情報漏洩。
会社を内部から腐らせる「バグ」の気配を。
そして今。
その腐敗は、創業したばかりの劉邦軍を蝕んでいた。
「項羽の刺客、か」
劉邦が低く笑う。
だが。
いつもの軽薄な笑みではない。
人間の本質を嗅ぎ分ける、創業者の目だった。
「蕭何。どうする?」
「このまま進めば、俺たち、咸陽に着く前に身内に殺されるぞ」
「慌てないでください、CEO」
蕭何は衣を整えた。
声は冷たい。
「どれだけ巧妙な内部不正でも、数字には歪みが出ます」
「人は嘘をつく。ですが、消えた物資と帳簿の差額は嘘をつきません」
「本日中に緊急監査を実施します」
蕭何は即座に樊噲を呼んだ。
「樊噲。全軍停止」
「これより棚卸しを行います」
「はぁ? 行軍中だぞ?」
「兵どもが騒ぐぜ?」
「却下です」
蕭何は即答した。
「これは我々の生存に関わる監査です」
「従わない者は、全員解雇します」
樊噲は頭を掻いた。
「……お前、ほんと怖ぇな」
だが。
文句は言わず、外へ出ていく。
戦時中の緊急監査。
現代で言えば。
全社システムを止め、徹夜で全勘定を洗うような狂気だった。
だが。
やらなければ死ぬ。
蕭何は張良を見る。
「張良殿。あなたの採用可否は、この監査結果で決めます」
「知っている情報を、すべて開示してください」
張良は楽しそうに微笑んだ。
「刺客は単独ではありません」
「楚軍と連携し、我が軍の兵糧を監視するグループがいます」
「すでに物流中枢へ深く入り込んでいるはずです」
「なるほど」
蕭何は頷く。
「情報漏洩だけではない」
「兵糧横領も兼ねているわけですね」
馬車の中へ。
大量の竹簡が運び込まれる。
戸籍。
兵糧台帳。
輸送記録。
消費一覧。
ここからが。
CFOとしての地獄だった。
23:00。
荒野の陣幕。
一本の蝋燭だけが揺れている。
蕭何は竹簡の山と格闘していた。
「……まただ」
前世の記憶が蘇る。
監査法人。
三日連続の徹夜。
辻褄の合わない貸借対照表。
心臓の痛み。
それでも数字を追い続けた夜。
「……これか」
蕭何の手が止まる。
「碭郡で編入した新兵二千」
「その兵糧支給量が、毎日三十石、過剰計上されている」
張良が目を細めた。
「横領ですか?」
「逆です」
蕭何は別の竹簡を開いた。
「帳簿の数字が、多すぎる」
「つまり、存在しない兵員が登録されている」
「幽霊社員です」
張良が静かに笑う。
「なるほど」
「架空人員で兵糧をプールしている、と」
「ええ」
蕭何は馬の移動記録を広げた。
「さらに、深夜だけ不自然な輸送履歴がある」
「行き先は東」
「楚軍先遣隊の方向です」
劉邦が暗闇から現れた。
酒ではない。
抜き身の剣を持っている。
「主犯は分かったか?」
「ええ」
蕭何は冷たく答える。
「この兵糧支給を承認できる人間は、一人しかいません」
「沛県時代からの古参役人」
「新兵管理を任せた男です」
02:00。
丑三つ時。
輜重隊の天幕が乱暴に開かれた。
中にいた男が、慌てて竹簡を隠そうとする。
「夜分遅くに失礼します」
蕭何が入る。
後ろには、巨大な斧を担いだ樊噲。
男の顔色が変わった。
「し、蕭何様……?」
「何か御用で……」
「緊急監査です」
蕭何は竹簡を机へ叩きつけた。
「あなたの兵糧勘定に、説明不能な差額が発生しています」
「エビデンスを提示してください」
男の額から汗が噴き出す。
「し、知らん! 私は正しく――」
「無駄です」
蕭何は遮った。
「架空兵員二千人分」
「計九十石の使途不明」
「さらに」
張良が後ろから竹簡を掲げる。
「楚軍密偵との契約書も、確保済みです」
男の顔が崩れた。
「……俺は悪くねぇ!」
「項羽様の方が勝つ!」
「劉邦なんかについていったら全滅だ!」
男が小刀を抜こうとする。
その瞬間。
蕭何が冷たく告げた。
「身内のバグは、本日中に強制決済します」
次の瞬間。
樊噲の斧が、一閃した。
鮮血。
竹簡が赤く染まる。
静寂。
「……終わったな」
樊噲が武器を収める。
蕭何は。
倒れた男を見ない。
血のついた帳簿だけを拾い上げ、静かに拭った。
「これで不採算部門の整理が完了しました」
そして。
張良を見据える。
「張良殿」
「あなたの情報提供は有効でした」
「正式採用します」
「我が軍の最高戦略責任者として、その企画力を使ってください」
張良は優雅に一礼した。
「光栄です」
「ここまで監査が厳しい組織は、初めて見ましたよ」
こうして。
劉邦軍は内部の膿を切除し。
再び咸陽へ向けて進軍を開始した。
だが。
蕭何は理解していた。
今回の事件など、序章に過ぎないことを。
巨大な利権。
裏切り。
謀略。
それらが、この先で待っている。
数字の辻褄を合わせるたび。
寿命が削れていく。
それでも。
電卓を叩く手は止まらない。
「……よし」
蕭何は新しい竹簡を開いた。
「今期の緊急決算、終了」
そして。
深く息を吐く。
「では、次の残業を始めましょう」
馬車が揺れる。
進捗率。
まだ数パーセント。
過労死ループは、始まったばかりだった。
第6話:了
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また、歴史ものである本作とは別に、魔剣を手に戦う王女の復讐劇も書いており、戦記物としての熱量はそのままに、ファンタジーならではの逆転劇を描いています。
『魔剣に選ばれた王女 〜亡国から始まる反逆の戦記〜』
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