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スイートピーの花束後編




 新名が美籐探偵事務所に顔を出したのは、夜になってからの事だった。

 窓際のスイートピーが僅かに萎れている。


 杏子はソファの上で膝を抱えていた。その黒い瞳に自分の姿が映るのが、新名は好きだった。けれど今は、どこか胸が痛む。


「ニーナ君、どうだったの?」


 いつも通りの杏子の平坦な声。新名はほっとしたような、寂しいような感覚がした。


「もうしばらくしたらわかります」


「……そう」


 杏子は新名から目線を外しぼんやりと壁を見つめる。新名は彼女の斜め前に腰を下ろした。


「獏の正体は畠中マリさんではないと思います」


「じゃあ誰?」


「寂しさ、です」


 杏子の眉が寄せられる。

 お構いなしに新名は続けた。


「晃くんは母親にマリさんについて相談したことがあるそうです。でも母親は晃君の言うことを信じなかった。これがきっかけだったんじゃないでしょうか」


 自分よりも自分を虐める人を信じる母への失望は、それまで耐えてきた孤独を実感させるには充分だ。


「マリさんに怒られる事が、晃君が自分の記憶を消してしまう直接的な要因だったのは事実です。……きっと、怒られる度に、傷つけられる度に、両親は自分を助けてくれない、と感じてしまったんだと思います」


 幼い晃にとって、どんなに悲しい事だっただろう。

 自分も子どもだったはずなのに、大人は子どもの気持ちがわからなくなる。新名もそうだった。あんなに忘れまいとしたのに。


 杏子は新名の話に驚いたようだったが、しばらくして口を開いた。


「それで、ニーナ君はどうしたの?」


「――晃君自身に解決して貰うのが一番だと思いました。両親に自分で自分の気持ちを言うように言って、一緒に練習したんです。だから今頃、頑張ってる筈です」


「……ニーナ君らしいわね」


 杏子はどこか嬉しそうだった。


 言わなきゃわからない事ばかりだ。親子も、探偵と助手も。


 長い沈黙が室内を支配する。ぴんと張り詰めた空気は、待ち望んでいた着信音によって壊された。


 急いで電話に出た新名は、電話口で涙に滲んだ晃の声を聞いた。

 不安そうに新名を見つめる杏子にぐっと親指を立てて見せると、彼女は一瞬泣きそうになってそれから笑った。








 クリスマスイブは曇りだった。雪は降らないのかな、と新名は窓の外を眺める。


 テーブルに並べられた食事は、どれも手の込んだものばかりだった。そのほとんどを聡が作ったのだと、新名に教えたのは母の文香だった。

 聡は大したことないと謙遜したが、練習してくれたんだろうと新名は思った。


 食事終わり、文香が洗い物をしにキッチンへ行った。自分がするから、と申し出る夫と息子に「いいから」と言う彼女は満足そうだった。


 きっとわざと二人きりにされたリビングで、新名はワインを飲む聡に言った。


「どうして母と結婚されたんですか?」


 話すことが一番なのだと、気が付くのに一年近く経ってしまった。もっと早く、聞けばよかった。

 聡は目を見張って、薄く笑みを浮かべた。


「一生一緒にいたいって思ったから」


 聞いた新名の方が、赤面してしまった。新名は咳払いを一つした。


「でも、年の差だってかなりあるじゃないですか。僕だっているし」


「君のお母さんは、君が思っているより素敵な人だ」


「……それは知ってるつもりです」


「結婚は、大切にしたいと思った人とするものだと俺は思う。それが文香さんだった。それから、君がいたから今の彼女がある」


 お酒のせいか普段よりも饒舌な聡に新名は驚かされた。

 疑り深い事ばかり考えている自分が恥ずかしくなるくらいに、聡は真っ直ぐだった。


「……ごめんなさい、僕、信じられなかったんです。自分とそんなに歳も変わらない人が、母と結婚するって言って、本当に大切に思ってくれてるのか。何年も苦労してきた母が本当に幸せになれるんだろうかって」


 心や言葉一つ一つの重さが、聡と文香では違う。どんなに聡が本気だとしても、その本気は文香のものには勝てないのだと、新名は感じていた。それこそ、自分がどうしても文香に勝てないように。


「そう思って当然だ。おそらく文香さんも俺を心から信頼してない。だから、少しずつでも頼って貰えるように努力するつもりだ」


 聡はそう言ってワインを飲み干した。


「努力……」


 無意識に独りごとを口にして、新名は考え込んだ。果たして自分は、努力をしただろうか。杏子に信頼してもらうために。


「今日は来てくれてありがとう。陽康君と話せてよかった」


 聡が言い終わると同時に、新名は勢いよく立ち上がった。


「僕、行かなきゃ行けないところがあるんでした。ごちそうさまです!」


 キッチンの文香に一声掛けて、走って駅へ向かう。


 話していない人がまだ一人いた。








「メリークリスマス! ……です!」


 ドアを開け放つと、中で一人ケーキを食べていた杏子がびくりと体を跳ねさせた。

 新名が美籐探偵事務所に着いた時には、もう夜の十時を回っていた。いつから食べているのか、テーブルの上のホールケーキは四分の三が食べられている。杏子はコーヒーには砂糖を少しも入れないのに、甘いものは好きだから不思議だ。


「一人でホールですか」


「急に来ておいて何」


 新名の発言に杏子は顔を顰めた。その鼻先に、新名は花束を差し出す。


「これ、プレゼントです。スイートピー、お好きみたいだったので」


 杏子は花束を受け取り、じっと見つめた。スイートピーをメインに、沢山の花が包まれている。

 大きく息を吸って、杏子は微笑んだ。


「スイートピーは、父が私の誕生日に買ってくれた花なの」


 杏子の口から、父という言葉が出てくるのを新名が聞くのは初めてだった。


「……僕とビトーさんのお父さん、そんなに似てるんですか?」


 新名が言うと、杏子は目を見張った。しかしすぐに合点がいったらしく小さくため息を吐く。


「どこまで聞いたの?」


「大まかに、ビトーさんがここで事務所をやる理由まで」


「ほとんど全部じゃない」


 呆れた、と杏子は花束を左右に振った。花束を持ったまま、キッチンで大きなコップに水を入れる。


「譲さんにはこんなおままごとみたいな探偵事務所に協力して貰って感謝してるけど、口が軽すぎるわね」


「おままごと……?」


「だって私、何も出来ないから探偵事務所を選んだの。霊能力なんてもちろんなかったし、頭も良くなくて特別な資格もなにも持ってないから。探偵事務所なら、とりあえず開く事くらい出来ると思って」


 水の入ったコップを持って戻ってきた杏子はまたソファに座り、新名に座らないの、と小首を傾げた。


 新名は杏子の向かいに腰を下ろす。


「ずっとここに居るせいか、今でこそ少し霊感が出て来たけど、小さい頃は全くなかった。だから父さんの職業が嫌いだった。周りの子にもインチキって馬鹿にされたし、私も信じられなかった。だから反抗ばっかりした。ひどいことも沢山言ったし、無視したこともある。でもそれは、いつか謝ればいいって、思っていたからなの」


 花束のリボンを解いて、杏子は花をコップに移していった。

 せき止められていたかのように、杏子はどんどん早口になっていく。


「何度も謝ったわ。でもその度、忘れちゃうの。どんなに時間が経っても、父さんの中の私は反抗的で可愛くない私のまま。だからこうしてここで待っていて、もし父さんが帰ってきたって、私だってわからないかもしれない」


 馬鹿みたいでしょ、と杏子は自嘲的に言った。

 新名は声を荒げる。


「馬鹿なわけないじゃないですか」


 街から聞こえてくる音が楽しそうで、新名は下を向いた。


 ねえ私の昔話、聞いて。


ふいに杏子が言ったその声は現実離れして聞こえた。彼女が自分から新名に過去の話をするのは、今日が初めてだった。


 あの日は高校一年生の夏だった。私は進学の関係で高校からおじいさんの家で住んでいて、忙しい父さんとは休みが合わなかったから、顔を合わせるのは三ヶ月ぶりくらいだった。母さんから学校に電話が掛かってきて、おじいさんの車で病院に行った。父さんは寝ていて、痛々しかった。次の日、やっと目を覚まして、私は良かった、今までごめんね、って言ったの。この一言で元に戻れると思った。ちっちゃい頃みたいに素直に父さんと話せるって。父さんはにっこりして、私を抱きしめた。それからしばらくして、私から離れて首を傾げた。なんの話してたっけ、って。母さんから話は聞いてた筈なのに、その時やっとわかった。記憶が残らないって、どういうことなのか。


 話し終えて、杏子はテーブルの上のケーキを指さした。


「食べていいわよ、食べかけだけど」


 ケーキの上ではサンタクロースが倒れていた。


 新名は腰をあげ、「コーヒー、いれましょうか」と言った。杏子は首を横に振り、自分の横を叩く。少し悩んでから新名は杏子の横に座った。


「子どもっぽい服を着て、子どもっぽい事をして、子どもっぽく見えるようにメイクして、それでも少しずつ、歳をとっていくの。私は父さんに「誰だ」って言われるのが一番怖い。なのに会いたくて探偵ごっこなんてやってる」


「……ごっこじゃありません。ビトーさんに救われた人だっているはずです。もっと自分のやってきたことに誇りを持って下さい」


 杏子は俯いてしまった。静寂の中で、彼女の涙が花の上に落ちる音がした。


「いまだに、父さん宛ての手紙や小包が届くの。どれも『ありがとう』って書いてある。最近は父さんの代理で、霊媒の真似事をするようになったけど、行ってみたらただの冷やかしで笑いものにされたこともある。父さんが誰に何を言われたって頑張ってきた仕事が、今になってわかるようになった。本当は私だけでも理解するべきだったのに」


 杏子は静かに泣いていた。花の香りが鼻腔に届いて、新名は少し目を閉じた。何を言っても、彼女の心の奥に届かせる事は出来ないと思った。薄っぺらな言葉で説教や励ましをしても、きっと彼女を傷つける事になる。

 出来ることなんてないにも等しい。けれど今、杏子の隣にいるのは新名だ。そばにいたいと思ったから、ここにいる。


 思えば、ここで働き出してもう後三ヶ月もすれば一年になる。あの時あのビラを見つけなければ、今自分はどうしていただろう。


 瞼を持ち上げると、視界がはっきりしていた。


「ビトーさん。僕、ここで働き出す前は、人の気持ちを深く考えたことありませんでした。ぼんやり生きて、ぼんやり嫌なことから逃げてました。でも今は、色んな事が少しずつわかるようになってきたんです。こんなに変われたのは、きっとこの事務所のお陰で」


 杏子はそっと新名を見た。新名はふわりと笑った。


「ビトーさんも変わっていいんですよ。大丈夫です。顔が変わったって、服が変わったって、性格が変わったって、ビトーさんはビトーさんです。お父さんが気付かない訳ないじゃないですか」


 杏子は涙を堪えて、手を伸ばした。新名の眼鏡を取っていたずらっぽく笑う。


「こうしたら、あんまり似てない」







 クリスマスから数日が過ぎた。


 杏子は騒がしさに眉を顰める。

 コンビニへ買い物に行ったものの十分の間に、ソファが占領されていた。

 新名と譲、それに晃が加わってくつろいでいる。


「なにこれ」


 杏子は状況が理解できずに呟いた。

 すると三人それぞれから返事が返ってくる。彼らが口を揃えて言うには、遊びに来た、らしい。


 大きなため息をもらす杏子に、晃が近付いていって脚に抱きついた。


「ありがとうございました!」


 晃の後ろで新名がニコニコしている。子ども苦手だって知ってる癖に、と杏子は思いながらも笑顔を作る。


「もう獏は現れない?」


「うん!」


 晃は満面の笑みで頷いて、新名のもとへ戻っていった。

 振られちゃったねえ、と譲が杏子の肩を叩く。


 少し恥ずかしくなってそっぽを向くと、新名と目が合った。


「もう寂しくないでしょ」


 得意気な新名に、ばーかと口だけ動かしたが、彼はわかっていないようだった。


 ふと甘い花の香りがして、杏子はほんの少し頬を緩めた。

 窓際のスイートピーが日を浴びてきらきら光っている。

 







*スイートピーの花言葉:優しい思い出

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