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卯都高等師範女学校三年生。
本日、午後最初の授業は裁縫である。“職業婦人”を目指す女子のための先進的なこの学校でも、裁縫は必須授業だ。一月ほどの期間で着物を一枚縫い上げるという課題が出されている。
提出期限が近付いてきたため、今はどの生徒も必死の形相だった。
そんな中、せっせと針を動かしつつも環が杏珠に身を寄せてくる。そして教師に聞こえない小さな声で囁いた。
「ねえ、杏珠。今日の帰り、時間ある?」
「なになに?カフェーに行く?」
「ううん。佐江さまの家に一緒に行かない?」
「佐江さま?」
杏珠は首を捻った。
確か……一学年下の子ではなかっただろうか。芥河原佐江。芥河原男爵の一人娘。かなり派手な娘なので、他人に興味のない杏珠でも印象に残っている。といっても、全く交流はない。
環とて、特に親しくはなかったはずなのだが。
「杏珠は謎解きが得意じゃない?その手腕を見込んで、佐江さまの家の謎も杏珠に解いてもらいたくて」
「謎?」
「黒い絵ですって!」
「??」
うふ!と環は可愛らしく微笑んだ。
結い流しの髪がさらりと揺れた。
一日の授業が終わり、環と共に門へ行くと、派手な椿柄の着物を着た女生徒が落ち着かなげに立っていた。
環の姿を見つけるなり、ぱっと顔を輝かせて走ってくる。
「環お姉さま!わたしの我が儘を聞いてくださり、ありがとうございます」
「ううん、わたくしでは謎の解明は難しそうだから助っ人を連れてきちゃった~。こちら、わたくしの友人の上壱條杏珠さまよ。お父さまは、上壱條忠誠侯爵」
女生徒は目を見張り、慌てて頭を下げた。
環は傍らを振り返り、紹介を続ける。
「杏珠。佐江さまよ。芥河原佐江さま」
「初めまして、佐江さま。上壱條杏珠です」
「初めまして、上壱條さま……」
尻すぼみの挨拶を受け、杏珠は内心、苦笑する。
環は変わった話が好きである。怪奇現象などの類いはすぐに飛び付く。
きっと佐江も、環の気を引こうとそういった話を持ち掛けたのだろう。なにせ環は嶋津森侯爵の大事な一人娘、親しくなりたい者は多いのだ。その上、美しい一重の切れ長の目、すっと通った鼻筋、きゅっと薄く小さな唇。典型的な日本美人の環は、“エス”になって欲しいと学校中から憧れの眼差しを受けている。毎日、環の机にはこっそり忍ばせた付け文でいっぱいだ。
ちなみに杏珠も侯爵の娘で、人目を惹く愛らしい容貌をしているものの……残念ながら環のような人気はない。己の素姓を喧伝した覚えはないものの、みな、裏事情をご存知ということなのだろう。
───環の気を惹くための話ならば、下手に関わって恨みを買ってしまうのも面倒である。同行を遠慮しようかと口を開きかけたら……環がずいっと前に出て佐江の手を握った。
「あのね。杏珠は、実は探偵なの。探偵ってご存じ?英吉利では、探偵が警察でも手を焼く殺人事件を解決したりしているのよ。いろんな謎の解明をする仕事なの」
「はあ……?」
突然、とんでもないことを言い出した環に、杏珠は慌てて彼女の袂を引っ張った。
「環!」
「いいから、いいから。───もちろん、専門家だからちょこっと依頼料は必要なのだけどね。カフェーに二、三回行くくらいの依頼料かしら」
(ええ?!お金もろて謎を解くん?それ、ちょっと難易度高いわぁ)
「わたくしも先日、飼い猫がいなくなって彼女に解決してもらったのよ。聞き込みして、あっという間に逃げた原因も逃げた場所も解いてくれたの」
解いたあと、激怒していたことはもう忘却の彼方らしい―――環は佐江に向かってニコニコと杏珠の売り込みをする。
佐江は戸惑うように環と杏珠を見比べていたが、やがて真面目な顔で杏珠に頭を下げた。
「上壱條さま。よろしくお願いします」
芥河原邸へ向かいつつ、杏珠はそっと環に苦情を申し立てる。
「ちょっと!探偵って何?!」
「杏珠が教えてくれたのでしょう、そういう面白い職業があるって。これ、商売にしたら代書屋より稼げるんじゃない?」
「簡単に言うわぁ。謎を解くって大変やん」
「杏珠なら出来るわ」
妙な自信を持って環が太鼓判を押す。
そのキラキラとした瞳が彼女の本音を語っていた。
『面白そう』
まったくもって、環らしい。
芥河原男爵邸は、見事な洋館だった。
まだ、建てられて間がないのだろう。庭の植栽は枝が短く、疎らな感じがする。
立派な玄関を入ってすぐのホールには、なかなか高そうな像や金縁の大きな鏡が飾られていた。
環と杏珠がそれらを感心したように眺めていると、それを見てやや得意げな様子の佐江が「あちらの客間の方へ……」と、ホールの右奥にある部屋を指す。
客間の扉はすでに開いていた。
三人が入ろうとした途端───男性の怒鳴り声が響き渡る。
「ふざけるな、貴様の店の商品だろう!分かりませんとはどういう事だ!」
環が目を丸くした。
しかし一瞬だけ足は止めたものの、そのまま遠慮なくスタスタと室内に入る。杖をついた杏珠も、落ち着いた顔でその後に続く。
佐江は軽く息を飲んだが、慌てて二人の後を追った。
明るい客間だった。南向きなのだろう。陽の光がふんだんに射し込んでいる。
入って正面は立派な硝子窓だ。天井には真新しい電灯。重厚な革張りソファに美しい刺繍のクッション、豪奢な赤い絨毯。見事である。
そして、室内には二人の男がいた。
一人は、洋装の豊かな口髭をたくわえた貫禄ある壮年の男性。もう一人は、和装姿の頭がやや薄くなった老齢の男性だ。
三人の娘が室内に入ってきたので、顰め面をしていた壮年男性は眉を上げた。
「佐江?今は取り込み中だ。少し外しなさい」
「まあ、ごめんなさい、芥河原男爵」
環がにっこり微笑んで、前へ進み出た。
「初めまして。わたくし、嶋津森環と申します。佐江さまから、とても不可解な現象のお話を聞きまして、わたくし、そういう話が大好きなものですから……是非にと無理を言って連れて来て頂きましたの」
男二人の顔色がハッと変わる。
「嶋津森侯爵の?」
「ええ、父は島津森俊親ですわ」
鷹揚に頷く環。芥河原はすぐに愛想笑いを浮かべて、環に近寄った。
「これはこれは。失礼いたしました。まさか、佐江が嶋津森侯爵のお嬢様と知り合いとは。……ああ、佐江の父、芥河原茂です。ようこそ、我が屋敷へ」
「ありがとうございます、芥河原男爵さま」
環は優雅に腰を折って挨拶した。
(やっぱり環はカッコええなぁ)
その後ろでおとなしく控えながら、杏珠は感心していた。
環は、興味を持ったことならグイグイと前へ進む。そのときに、自身の使える力―――侯爵家の威信などを使うことに躊躇いはない。さらに大の男相手だろうと、己より身分の高い者だろうと、怯むことだってない。杏珠も怖いもの知らずな方だと自負しているが、環にはとても敵わないと思う。
「それで……佐江さま、黒い絵ってどれかしら?」
芥河原男爵を親の威光で強引に押さえ込んだ環は、くるっと後ろを振り返って佐江に聞く。
佐江は自身の父を気にしながら、おどおどとすぐそばの壁を指した。
「あの……こちらです」
「あら!本当に真っ黒だわ」
入って、左の壁。
そこに黒い絵画が掛けられていた。




