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第2話完結後、登場人物紹介や簡単な言葉の説明を付けます。
二階の小さな洋間は、あまり物が置かれていなかった。
置かれているのは、煤竹色の箱階段と一抱えほどある藤編みの籠くらいだ。
ちなみに籠の中には、柔らかく暖かそうな布が敷かれている。
―――硝子の嵌め込まれた窓から外を覗くと、植栽の向こうにある瓦屋根の離れの様子がよく見えた。
上壱條杏珠はそれを確認し、栗色のお下げ髪を揺らして後ろを振り返る。
彼女の背後には、この屋敷の主・嶋津森侯爵の厳つい姿と、侯爵の娘で杏珠の友人である環、そして寡黙な家令の姿。両手を握り締め、すがるように自分を見つめている環に頷き、杏珠は口火を切った。
「玉千代さまが鍵の掛かっているこの部屋からどうやって出たんか、たぶん、分かったと思う」
「それでそれで?その玉千代さまとやらは、何処に居たんですか?」
大型犬が尻尾を振って餌を待つようなキラキラした目で、有馬が杏珠に尋ねる。
二重のぱっちりした目、ふっくらとした桜色の唇───人目を惹く可愛らしい容姿の杏珠は、窓際の机の上でせっせと動かしていた筆を止め、眉を寄せて有馬に視線を向けた。
「あのねー、どぉして毎日毎日、うちへ通ってくんの?ちゃっかり珈琲も飲んでるしさぁ。うちはカフェーとちゃうんやで!」
怒られて、有馬はきょとんと目を瞬かせた。
心底わからないといった風に首を傾げ、目の前の珈琲を見る。
「あ。お富久さんの淹れる珈琲は美味しいですね!カフェーで、こんな美味しい珈琲を淹れているところ、自分は知らないです」
「いや、だから珈琲の感想を聞いてるんやないの」
「ご馳走さまです!」
「まあ、おおきに。旦那さまに鍛えられた甲斐がありますなぁ」
「富久。礼なんか、言わんでええ。珈琲のタダ飲みやん。お足、頂こか」
えっ!と有馬が仰け反る。伯爵家のしがない四男、自由になるお金なんて、ほとんど無い。
きゅううん……と耳を垂れて鳴きそうな顔で悲しそうに杏珠を見つめる。自分よりも年上の、身体も大きな男にこんな顔をされると、杏珠としては極悪人になった気分だ。
「ほんまにもう。勘弁して欲しいわ……」
つい、口を尖らせて小さく呟く。
着物に前掛けをした富久が「お嬢様、そんなお顔をなさったらあきまへん」と穏やかに言い、杏珠は小さく鼻を鳴らして立ち上がった。
書き終えた手紙をそのまま机に置いて、少し左足を引摺りながら有馬のいるソファの方へ行き、向かいに座った。
卓の上の、有馬が持ってきたビスケットを遠慮なく取って噛じる。
有馬は窓際の机を振り返った。
「もう代書の仕事は終わったんですか?早いですね。……というか、侯爵からの仕送りは充分あるのに、どうしてこんな小銭稼ぎをするんですか?」
「はあ?小銭稼ぎ?何言うてんの。労働は尊いんよ?一銭でも一厘でも、ありがたーいお金やん。馬鹿にしたらアカン」
ムッとした顔で反論し、杏珠は拳を握り締める。
「うちはね。自分で稼いだお金で夢を叶えるんやからね。がんばって、がんがん働かんと」
「すごいですねー」
「全然、心がこもってない」
「いえ、本気ですごいなって思ってます。自分、お金の稼ぎ方がわかりませんし」
「……」
思わずガックリと肩を落とし、杏珠は富久が新たに淹れて持ってきた珈琲に手を伸ばした。ゆっくりと一口飲んで……ふう、と満足げに息を吐く。そして、「あ、それで」と話題を元に戻すことにした。
「さっきの玉千代さまの件。―――結論から言うたら、玉千代さまがおったのは、台所の野菜を入れる籠ン中やってん。春とはいえ、まだ早春。まだまだ寒いやろ?廊下へ出たものの、寒さにビックリして暖かな台所へ逃げ込んだみたいやね」
「台所?二階から一階まで?」
急な話題転換だが、有馬は素直に付いてきた。
「そう。他の部屋はみんな扉や襖が閉まってて、入られへんかったから。暖かくて扉が閉まってない部屋は何処かと考えれば……ま、消去法ですぐ解るやろ?」
「へーえ」
本当に解ったのやら、どうやら。有馬の短い返答の後ろで、珈琲のサイフォンなどを片付け始めた富久が首を傾げる。
「で、肝心の玉千代さまが部屋を出た原因は?外から鍵が掛かってたんとちゃいましたっけ?」
ああ、それね……と杏珠がやや渋い顔になる。
有馬は手を伸ばしてツンツンと杏珠の膝をつついた。
「杏珠さま。勿体ぶらずに教えてください」
「……玉千代さまって人嫌いなんよ。近付いても怒らへんのは、環とお手伝いさんのツルさん。そして、大奥さまのヨシさまくらい。うちもお猫さま部屋に入っただけでシャーッ!って威嚇されるねん」
「そうなんですか。それで?」
「環は、今日はお猫さま部屋には入ってへんねんて。ツルさんは午前中にお世話を済ませ、その後、玉千代さまが毛繕いしてるのを確認してきちんと扉は閉めたと言う話やった」
「ふんふん」
「そしたら、残るは大奥さまだけや。違う人間が玉千代さまの部屋に入ったら、絶対に引っ掛かれるもん。痕が残ってすぐ分かる」
ちなみにその大奥さまは、昼から気鬱になって部屋に籠っていた。故に玉千代が行方不明で大騒ぎになっている件は知らない。
杏珠は学校帰りに環に誘われ、嶋津森邸へ寄った。すると飼い猫の玉千代がいない!と女中たちが大騒ぎしており、成り行きで一緒に玉千代を探す羽目となったのだ。
ただ、嶋津森侯爵邸はやたら広い。なので闇雲に探すのではなく、杏珠はまずお手伝いさんやら庭師やらにあれこれ聞いて回ることから始めた。そして、そこから導きだしたのは───
「どうやらね。大奥さまが、“嶋津森侯爵が若いお手伝いのコに手を出してる”って噂を聞いたみたいやねん。で、それがホンマか確かめようと、お猫さま部屋に入ったんちゃうかな。女中さんの一人が、昼前に二階へ上がってゆく大奥さまを見ててん。あの部屋の窓ってさ、離れがばっちり見えるんよ。で、たぶん、ホンマに侯爵が若いコとイチャイチャしてるのを見てしまって衝撃を受け、大奥さまはふらふらと部屋を出た。玉千代さまはそのときに一緒に付いて出たんやけど……大奥さまは気付かずにそのまま自分の部屋へ」
「そして取り残された玉千代さまは、自分の猫部屋に再び入ることが出来ず、仕方がないので暖かい台所へ避難したって訳ですね?」
「正解~」
片付け終わった富久が手を拭きながら杏珠のそばに来る。
「あら、そしたら騒動の原因がわかって、嶋津森侯爵はちょっとバツの悪い思いをしはったんとちゃいますか」
「そうやの、しかもちょっとどころやあらへん。環が「不潔やー!」ってものすごく怒り出して大変なことになってん。大奥さまが黙ってるんなら、うちが言うべきやなかったかなあって思ったわ」
プッと有馬が吹いた。
杏珠の非難の眼差しを受けて、慌てて手を振る。
「いや、だって環さまが真相を知りたいと言ったんでしょう?別に杏珠さまが気にする必要はないんじゃないですか。大体、父親がちょっと若い娘に手を出したくらいで騒ぐなんて」
「何よ、有馬も愛人囲いたい派?男ってホンマにロクでもないんやから。……環ンところは、大恋愛の末に結婚したって話やもん。そのことを環はすごく大事に思ってたんやからね。それやのに若いコとイチャイチャなんて……動揺してもしゃあないやん」
杏珠は友人の心情を思って、少ししんみりした。しかし、すぐに大きな伸びをする。
学校帰りに環の家へ寄り、『少女画報』を読ませてもらう予定だったが───玉千代探しのせいでそれどころではなくなってしまった。歩き過ぎて、すっかり足が疲れている。
無意識にトントンと軽く左のふくら脛を叩くと、有馬の目が細くなった。
「……明日からは、学校帰りにお迎えをしに行った方が良さそうですね?」
「え!?そんなん、止めて。今日はたまたまやん」
ハッと顔を上げ、慌てて首を振る。有馬は真剣な顔で杏珠を見つめた。
「杏珠さまに何かあると、自分は上壱條侯爵に怒らます」
「なんもあらへん。環ん家で何があるっちゅーの」
「足、痛いんですよね?もし、帰り道で動けなくなっていたら、どうするんですか」
「そういうときは、ちゃんと車を呼ぶから問題あらへん。有馬に背負われて帰るのは絶対イヤや」
杏珠は去年、階段から落ちて骨折をした。そのときの後遺症で、やや左足が不自由だ。歩くのに支障はないのだが、常に杖は持っている。
富久の心配そうな視線に、杏珠は大丈夫!と必死で訴えた。
「階段の上り下りが多くてちょっと疲れただけやし!今日はもう代書の仕事も片付けたし、出掛けへんから問題ないよ」
「あんまりムリしはったら、あきまへんえ?」
「大丈夫、大丈夫!週末は今日のお礼で環が活動写真に連れて行ってくれるしね。へたっていられへんわ」
元気を強調するために拳を作ってぶんぶん振り回す。その前で有馬が低く呟いた。
「週末に活動写真?!」
「あっ」
「自分も付いて行きます」
「きゃあ、最悪~!」
口を滑らしたせいでお目付け役の同行が決定してしまった。杏珠はがっくりと頭を抱えた───。




