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ペイトンが帰国した報告を受けたのは、ジェームスが定時に出勤してからのことだった。
予定より早く、深夜に単身で帰国した意味を考えると、不吉な予感しかない。更に、すでに目覚めて、日課のランニングと湯浴みを終え、朝食を執務室に運ぶように命じているという。休暇から戻った後のいつも通りの振る舞いが、余計にジェームスの不安を煽った。ペイトンは、どうにもならないことに関して、最初から何もなかったみたいに、バッサリ切り捨てる癖がある。母親が家を出た時も、家庭教師に襲われた時もそうだった。恐らく今回も同じだ。部屋に籠って、ふて寝でもしている方が幾分もましだ、と思いながら、ジェームスはペイトンの部屋をノックした。
「お帰りなさいませ。奥様はご一緒ではないようですが、どうなさいました?」
遠回しに聞いても嫌味っぽくなるし、アデレードの不在を尋ねないわけにもいかない、と単刀直入に口火を切った。
「契約は終了したからな。あの子は、そのままノイスタインに残ることになった」
ペイトンは、執務机から顔を上げずに答えた。
「契約ですか? 婚姻期間は一年のはずですが」
ジェームスも、できるだけペイトンの温度に合わせて冷静に返した。
「そっちの契約じゃなくて、僕とあの子が取り交わした契約の方だ。僕が負けた」
「その契約も一年ですし、審判は私です」
だから、お前が勝手に勝敗を決めるな、と意味を込めてジェームスが反論すると、ペイトンは書類の上を走らせていたペンを止めて言った。
「初日にお前がポイントつけた時から、勝敗なんて決まっていただろう」
「最後までやってみないとわかりませんよ」
「わかるだろ。あの子にポイントがつくことはないんだから」
ペイトンが鼻で笑う。
「そんな卑屈になる必要ないでしょうに」
ジェームスが、呆れたように告げるも、ペイトンは何も言わなかった。仕方ないので続けた。
「まぁ、負けを認めたのはわかりましたが、それで何故奥様を置いて帰国してきたのですか」
ペイトンはまた無言だったが、今度はジェームスも黙ったままでいた。すると、面倒くさそうにペイトンは口を割った。
「負けた方は勝った方の望みを叶える。それが罰則だっただろ。だから、あの子が、レイモンド・リコッタと寄りを戻せるように手配した。後は白い結婚を解消するだけだ。手続きは全部こちらでやる」
「それ事実ですか?」
「嘘なわけがあるか」
「いえ、別に嘘とは言ってないですよ。でも、事実とは思えなかったので」
結婚しているのに、別の異性と寄りを戻すなど、ただの不貞だ。アデレードはそんなタイプではないし、第一バルモア侯爵が許さない。ペイトンがよっぽど何かしない限りは。
「奥様とはちゃんと話されたのですか? 『レイモンド・リコッタと寄りを戻すから、一人で帰れ』と、奥様に面と向かってはっきり言われたのですか?」
「そんなことを言わせるほど、僕は間抜けじゃない」
ペイトンが、非常識を諭すみたいな口調で答える。間抜けじゃないが、情けなさすぎる。告白もしないで逃げたのか、という感想しかない。しかし、ジェームスは詰めるようなことはしなかった。跪いて愛を乞うなど、できない男だと知っている。プライドが高いからじゃない。拒絶されたら立ち直れないからだ。避けられるリスクは、避けるべきだと信じている。だから、この選択はいつものペイトンらしい。そして、もしこのまま別れれば、何事もなかったように次の政略結婚の相手を探すはずだ。フォアード家の嫡男として、今度は事前に顔合わせをして、きちんと相手を見極めて、ちゃんと契約を遂行できる相手を選ぶ。ならば、綺麗なまま終わりにすることが得策ではないか、とジェームスは、この屋敷の筆頭執事として思った。アデレードのことは、やがて遠い初恋の思い出になる。例えば、身分違いの恋人と別れるのと同じ。貴族社会にはありふれたことだ。
執務机に視線を落とす。ペイトンがペンを走らせていた書類の傍らに、アデレードが以前作成した契約書が見えた。その下にあるのは、バルモア家と交わした書状だ。口先だけでなく、既に契約終結の書類をまとめているらしい。
「昼に、父上に報告しにいくつもりだ」
ジェームスの視線に気づいたのか、ペイトンは言った。
「大旦那様のご予定を確認いたします」
「いや、もう先触れ出してある」
用意周到に手配している様子からも、突発的な行動ではない。こちらに指示すれば、不要な口出しをされる、と懸念して、すべて自分で手配したのだろうと察した。
「そうですか。では昼食のご用意は不要ですね」
ジェームスは、他に言うべきことが思い浮かばず返した。
「あぁ、夕飯は家で食べる」
馬鹿みたいに呑気な会話に、ジェームスは胸の奥がチリチリと焦げた。フォアード家の執事としては満点でも、幼い頃から傍にいた乳兄弟としてはどうか。「奥様は人の気持ちを無下にする方ではありませんよ」くらい言ってやるべきか。ジェームスは、事務作業を再開したペイトンを見つめながら考えたが、何の効果もない気がしてやめた。代わりに、
「奥様にやり込められるのは、いつものことでしょう。最後も同じでよいのでは?」
と、だけ告げた。ペイトンは黙っている。無反応であることは、反論されるよりいい。否定しきれない引っ掛かりが、ペイトンの内にあるのだから。
「夕飯は、いつもの時刻にご用意しておきます」
ジェームスは、また呑気な会話に引き戻すと、一礼してから部屋を出た。
父の屋敷へ向かう馬車の中。見慣れた街並みが、車窓の向こうを流れていく。
ペイトンは、その景色を見るともなく目で追いながら、ノイスタインでの出来事を反芻していた。
コリンズ邸で、アデレードの甥に「レイモンドからアデレードを取ったのか」と尋ねられた時から、嫌な予感はあった。商工会の夜会で、男女の諍いを目撃した時、その女性が、レイモンドの恋人だと知って、ならば、相手の男はレイモンド・リコッタだったのでは? と強い疑念が生まれた。あの男がレイモンドなら、二人は上手くいっていない。だが、「もしかしたら、君は大きな勘違いをしているかもしれないぞ」とアデレードに言ってやらなかった。だって、自分は……とペイトンはそこまで考えて、ぐっと頬の内側を噛んだ。
(まったく、吐き気がするよ)
ルグランで、最後に見たアデレードの笑顔が、思い浮かぶ。自分がお膳立てせずとも、いずれアデレードは自分でレイモンドに会いに行ったはずだ。白い結婚を終えて、独身に戻ってから。じゃないと、レイモンドに想いを伝えられない。寄りを戻せない。アデレードは、そういう変に律儀な性格だ。待てなかったのは自分の方なのに、「負けたから、君の願いを叶える」などとよく言う。
(……みっともないよな)
はぁ、と大きく息を吐いた。ため息と一緒に消えればいいのに、負の連鎖みたいに、余計なことまでどんどん蘇る。ルグランへ行く前日、バルモア侯爵の前で偉そうに意見した自分の姿がありありと浮かぶ。
ペイトンはぎゅっと目を閉じた。
あの日、アデレードは朝からドレスの調整にかかりきりで、それを気にしてか、バルモア侯爵が昼食に招いてくれた。指定された店に着き、婚礼前の非礼を改めて正式に謝罪して、つつがなく食事は進んだ。共同事業の話、今手がけている仕事のこと、と有意義な時間を過ごした。が、ふいにできた沈黙を埋めるように、
「そういえば、君は今夜の舞台は観に行かないそうだね。劇は嫌いかい? 演目は、月桂樹だったかな。私も観たが、なかなか面白い話だったよ」
と、バルモア侯爵が言った。なぜ、わざわざ「月桂樹」の話を持ち出したのか。一気に身体が硬直した。自分には、後ろ暗いことがある。商工会の夜会でレイモンドとメイジーのことを、知っていて握り潰した。あんなに嫌悪していたハリス公爵と同じことをしている。それを見透かされているんじゃないか。試されているのではないか。バルモア侯爵は何をどこまで知っているのか。疑心暗鬼、被害妄想。点と点を勝手に結び付けて、目まぐるしく考えた。冷静に自分を落ち着けようとしても、急に床が抜けたみたいに肝が冷えていった。
「……いえ、僕は、夜は友人と会う約束がありまして……」
絞りだして答えた声が上擦る。
「そうか。こっちに友人がいるんだね」
嘘でない。学生時代の友人だ。ルグランの予約を捻じ込んでもらった礼をしに行く。しかし、とってつけたような言い訳に聞こえたのじゃないか、と居心地が悪くてたまらなかった。
「……あの、立ち入ったことをお伺いしますが、リコッタ伯爵家の嫡男についてご存じでしょうか」
矢も盾もたまらず尋ねた。何を唐突に言っているのか、と自分の声が耳に届いた瞬間はっとした。ティーカップに掛けたバルモア侯爵の手が止まる。
「知っているとはどういう意味かね? リコッタ家の夫人と私の妻は古くからの友人でね。もちろん、私とも昔から親交があるよ」
もって回った言い回しに、戻るのも進むのもこちらに任せる、という意思が汲み取れて、膝の上の拳を握りしめた。
「彼は、アデレードを待っているんじゃないですか?」
観念してはっきり問いかけると、
「そうだね」
迷いのない答えが返ってきた。知っていたのか、とまるで騙されていたような、身勝手な苛立ちが湧き上がった。
「……彼女は、彼に別の恋人がいると勘違いしています。教えてやらなかったのですか」
「レイモンドが私のところに来たのは、アデレードが嫁いで行った日の夕刻だった」
「では、すぐに連れ戻せばよかったのではないですか」
汽車代をケチって帰国させないなんて、つまらないオチはないだろう。バルモア家の羽振りがよいことは十分承知している。では、なぜ? と安直に思うまま尋ねると、
「娘は君と結婚している。他の男と会わせてどうする?」
とバルモア侯爵は、心底不思議そうに質問を返してきた。冷や水を浴びせられたように、すっと血の気が引いた。なんと返せばよいか。自分のことなどどうでもよいから、アデレードに教えてやって欲しかった、なんて馬鹿な発言ができるはずがない。そんな問題じゃないことに、全く思い至らない自分を羞恥した。沈黙が落ちる。その空気をどう判断したのか、バルモア侯爵は続けて言った。
「確かに、私はあの子が悩んでいることを知っていた。同時に、その悩みを私達に知られまい、としていることも知っていた。だから、口出ししなかった。無理やり介入すれば良かったと今更思うところはある。でも、あの子の好きなようにやらせることにしたんだ」
そうか、アデレードが隠していた秘密を知っていたのか、と間抜けなことを思った。アデレードはどう贔屓目に見ても、我儘に育てられている。愛情をかけて。その両親が何も気づかないわけなどないのに。
「だがね、結婚については話が別だ。自分の都合で嫁いで、用がなくなれば『はい、さようなら』なんて道理が通るはずがない。ただでさえ、不純な動機で推し進めた結婚だったんだ。きちんと誠意を持って、フォアード家の妻として契約通り一年は務め上げねばならない。それができない恥さらしの娘に育てた覚えもない。あの子もそれは承知だろう」
誠意を持って、フォアード家の妻として、という言葉が強く耳に残った。確かに、あの日、アデレードは一時間待ちぼうけを喰らわされても、応接間で大人しく待っていた。だというのに、自分は開口一番に暴言を吐いた。どんな気持ちで聞いていたのだろうか。後悔するのも烏滸がましい。償わねばならない。償いたい。何を? どうやって? このひどくまっとうで、常識的で、理想的な人間を前にして。そんなの無理だ。正論で勝てるわけがない。バルモア侯爵と目が合った。アデレードと同じ瞳の色。父親似なのだな、と現実逃避めいて考えながら、
「事情は承知しました。ならば、僕から契約破棄を申し出れば問題ないですね」
と気づけば、ぺらぺらと屁理屈が口を衝いていた。どの道、最初から厚顔無恥な男だった。じゃあ、最後までそれでよいのではないか、と思ったから。
「彼女が誤解していることを知って黙ったまま何食わぬ顔で暮らすのも、真実を教えたとして『後五ヶ月待て』という不合理を強いるのも僕の道理に合わない」
こちらの荒唐無稽な主張を、バルモア侯爵は黙って聞いた。それから、顎を二度ほど撫でて静かに言った。
「君がそんな青臭いことを言うタイプとは思わなかったな。共同事業はどうするつもりなんだ。国境を跨ぐ通商事業だ。婚姻関係を前提に、通商許可や関税上の特恵を受けている契約もある。婚姻を解消すれば、その前提条件が失われる」
「もちろん、損害は僕が私財をもって補填します。バルモア家に一切の不利益は及ぼしません」
「君には、なんの落ち度もないのに?」
「あります。彼女を傷つける発言をしました」
答えると、バルモア侯爵は一瞬目を見開いたが、すぐに表情を戻した。
「それなら、レイモンドにも落ち度はある。長年、アデレードを蔑ろにしてきたのだからね。これは、その報いでもあるのだよ」
何を言ったのか問われるか、と思ったが違った。バルモア侯爵の言葉は、どこまでも正論だ。部外者は黙っていろ、と言外に告げられている。居た堪れなくなった。でも、ここで引き下がるほど、口先だけの発言をしたわけじゃない。
「それで彼女が後五ヶ月も、傷ついたまま暮らすのは本末転倒ではないですか」
余計な世話だと思われてもいい。
「僕は嫌です」
こんな幼稚な発言は、実の父にすらしたことがない。でも、愚かでよいと決めた。
「私も嫌だよ」
バルモア侯爵は、笑って言った。
「君が、幸せにしてやる道はないのかね」
揶揄っている素振りはない。しかし、何故そんなことを言うのか、心底わからなかった。アデレードには最初から、レイモンド・リコッタがいる。もう二度と誰も好きにならないと言うくらいに。
「……残念ですが」
喉が熱い。こんなことをわざわざ言わせないでほしかった。
「そうか」
「……彼に、アデレードが傷ついているとだけ伝えます。それで会いに来たなら、認めてやってください」
「もし、会いに来なければ?」
「来ないとお思いですか?」
バルモア侯爵は、何も言わなかった。それが答えなのだろう。レイモンドが、体裁と高位貴族である侯爵からの厳命を粛々と守るだけの男なら良かったのに、と思った。
「残念です」
もう一度言うと、バルモア侯爵はそれ以上は追及してこなかった。
(あーあ、本当に吐き気がするよ)
ペイトンは、深く息を吐いて、閉じていた目を開けた。馬車はもう実家前の舗道に差し掛かっていた。父にどう説明するか。頭の痛い問題が、すぐそこにある。父は旧知の仲であるバルモア侯爵の為人を熟知している。相応の理由もなく白い結婚の契約破棄を認めるはずがないことも、当然わかっている。つまり、下手な嘘を吐けない。
(全く割に合わないよな)
でも、自分で決めたことだ。別れ際、「娘を大事に思ってくれて、有難う」とバルモア侯爵が告げた言葉が胸に重く残っている。そんなんじゃない。買い被りだ。大事になんて思ってない。ルグランで、レイモンドの来訪を告げるノックが響く直前まで、来ないことを願っていたのだから。みっともない。みっともない。だが、願うくらいは許されたい。期待には応える。事後処理は、全部上手くやる。
馬車が止まった。屋敷の停車場に、父の馬車はなかった。「朝は出掛ける。来るなら昼以降にしろ」と先触れの返事を受けていたが、どうやらまだ帰宅していないらしい。考える猶予があるのは、喜ばしいことなのか、不吉な兆しなのか。
(結局、事実を話すしかないよな)
ペイトンは顔を上げ、肩を回して大きく息を吐くと、玄関へ向かって歩き出した。
「待たせたようだな」
応接間で、ペイトンが、ソファにだらしなく足を投げだしていると、ノック音とほぼ同時に扉が開いた。時刻は十六時を過ぎている。予想以上に待たされた。しかし、自宅にいるとアデレードの不在と、ジェームスの物言いたげな視線が重くのしかかるため、ここで時間を潰せたことは良かったと思う。
「いえ、突然来訪したのはこっちなんで」
「悪い知らせなんだろう?」
父は、向かいのソファに腰を下ろしながら言った。面倒ごとは早々に解決したい性分だ。もう少し、デリカシーを持ってくれてもよい気はするが。
「白い結婚を破棄することにしました」
「……お前達は、上手くやっていたように見えたが」
「喧嘩別れしたわけじゃないですよ。契約を破棄した方がよいと、僕が判断しました。当然、共同事業での違約金は、僕の私財で賄います。バルモア侯爵にもそう伝えてあります」
脳内で予行演習した通り話した。このまま「わかった」で済まないことも重々承知だ。
「お前にとって、それはよいことなのか?」
でも、思った反応とは少し違って、一瞬返事に躊躇った。それを見逃さない父ではない。こちらの返事を聞くより先に続けて告げた。
「彼女となら、この先も上手くやっていくと思っていた」
「……元々、一年の契約だったでしょう。それが少し早くなっただけです」
「だったら、その少しを早める理由はなんだ?」
アデレードとレイモンドが寄りを戻したから、と伝えれば端的に明瞭だ。だが、それで父がアデレードをどう思うか。悪く思われたくない。しかし、隠したところで、二人が婚姻すれば必ず父の耳に入る。下手に伝わるより、今ここで話した方がよい。想定内の問いかけだったので、ペイトンは整理していた通り、
「確かに、彼女となら、この先も上手くやっていけたと思います。でも、それが最高の幸せかと問われたら違います。ノイスタインで、彼女の思い人だった男が、彼女を待っていると知りました。二人の間に誤解が生じていたようです。人として、それを解決してやるのは当然のことです。だから、白い結婚は破棄してきました」
と答えた。何一つ嘘じゃない。堂々と言える。自分は、どっかの卑怯者と違う。他人の手紙を捨てたりしない。
「それが、最高の幸せなのか?」
「えぇ、彼女はずっと悩んでいましたから」
一瞬の沈黙の後、瞳の奥を覗き込むような目を向けて、父は溜め息を吐いた。こちらが事後処理を担うと言っても、共同事業に少なからず支障は出る。その点において、厄介な話だ。謝罪しかないので、黙っていると、
「ペイトン、私はさっきからずっと、お前のことを聞いているんだよ」
「え?」
間抜けな声が出た。だから、現状を伝えているじゃないか、とは反論できなかった。父が何を聞いているのか、わからないほど鈍くない。父の、言い訳する子供を諭すような口調に、泣きついて、慰められたいような感情が湧き上がってくる。胸の芯が熱くなる。
「……僕がどうであれ、結末は同じです。だったら、気持ちよく送り出すべきだと思いました」
今更どうにもならないのだから、自分のしたことは正しかった、と肯定してほしい。そしたら、綺麗さっぱり忘れられる。甘ったれた思考が巡る。
「そうだと言ってやりたいが、過去は変えられないからな」
「どういう意味ですか?」
眉が寄る。心に余裕がない。
「私は、自分の我を通して結婚したからな。しかし、残念ながら、後悔はしていないんだ」
どうして急にその話を? 全く関係ないじゃないか、と思った。大体、それは、長年、禁忌の話題ではなかったか。いや、違うか。母親のことは一切語ってくれるな、と自分が言外に拒絶の態度を示したから、父は何も言わなくなったのだ。
「……他の男と駆け落ちしたのに?」
自分の放った言葉に、ぐっと喉が熱くなる。遠い記憶。もう顔も有耶無耶なほど。だけど、最後の日のことだけは覚えている。男の馬車に乗り込む姿と、振り向いて放たれた一言だけは、耳の奥にこびりついている。誰にも言っていない。言えなかった。
「お前には申し訳ないことをしたと思っている。金目当ての結婚だ、騙されている、と散々周りから反対された上での結婚だった。生まれた子供がどう思うかなど全く意識が及んでいなかったんだ。すまない」
「それは……謝罪されることではないでしょう」
真実そう思った。しかし、父は所在なげに笑った。
「彼女は、私の前では、ずっと私が望む女性像を演じていたし、彼女も、望み通りの贅沢な生活ができた。お互いそれで暮らしていけばよいと思っていた。愚か者だろう? 人間そんな風にはできていないのに。慣れればそれが当たり前になって、もっと良いものを望むようになる。彼女は私の前で良い顔をするのが面倒くさくなって、私もそんな彼女を冷めた目で見るようになった」
「……再婚しないのは、あの女を、まだ好きだからと思っていました」
こんなことを言ってよいのか。ただ、この機会を逃したらもう二度と聞くことができない気がした。
「優秀な息子がいるからな。家名のために世継ぎを望む必要はなかったし、それなら無理に後妻をもらう必要もなかった。好きで好きで仕方ないから結婚したい、という情熱が湧き上がるような相手が現れたら、再婚していただろうが、残念ながらいなかった。それを彼女に未練があると言われると心外だな」
父の言葉は真実なのだろう。女嫌いで有名な自分と違い、父は、社交界でも温和で人付き合いのよい人格者として知られている。頭では理解しているのに、
「未練があるから、他に好きな相手ができなかったのではないですか」
つらつらと底意地の悪い言葉が口を衝いた。そんなことを今更聞いてどうするのか。父を責めるつもりは微塵もないのに。
「私が思うに、人を好きになるのは人生で一度じゃないが、一度の場合もある。惚れっぽい人間もいればそうじゃないのもいる。一生誰も好きにならない場合もある。だから、せっかく好きになれたのなら、結果はどうであれ伝えた方がいい」
恋多き人間とそうじゃない者。その両者がいることには共感する。だが、結果はどうであれ伝えた方がいいとは? そうだろうか。本当に? 自分と父は違う。だって、
「……あの女が、屋敷を出て行った時、僕は庭で遊んでいたんです。裏口にいるのが見えて、何とはなしに近づいて行ったら『お前は来るな』と言われました。一緒に行きたいなんて一言も言っていないのに。それが惨めでたまらない。今でも……堪らない気持ちになるんです」
何も言わず、黙って出て行ってくれればよかった。それさえしてくれればよかった。綺麗なまま終わってほしかった。だから、今度はそんなヘマはしなかっただけ。また繰り返したら、今度こそ、もう一歩も動けなくなる。完璧な終わりがいい。空に燦然と輝く太陽みたいに、一点の曇りのない終わりだ。十年後も二十年後も、眩しく目を細めて思い出せるような。
「気づいてやれなくて、すまない」
父の沈んだ声に胸が軋む。心底、やめてくれと思う。
「いえ、謝罪させたくなかったから、言わなかったんです」
父を恨んだことなどない。目を合わせられなくて、テーブルの冷めた紅茶の入ったカップを手に取った。一気に飲み干す。昔から、この屋敷の紅茶は領地で採れる茶葉を使っている。飲み慣れた味がして、なんだか妙に泣きたくなった。
「……お前を、慰めてやるなら、あの時、親権を放棄すれば不貞の慰謝料は請求しないと告げていた。フォアード家に彼女が太刀打ちできるはずがない。お前を置いていく他に選択肢はなかった」
この期に及んで庇うのか、と鬱屈した思いが湧いた。
「だからと言って、お前にそんなことを言う必要もなかった」
見透かしたように父が続けた。目の奥が熱くなる。
「今更彼女のしたことをどうしてやることもできない。でも、それでお前が縛られているのは見過ごせない。なぁ、ペイトン。どうせなら、好きな人に傷つけられて、もう二度と立ち直れなくなった方がよいんじゃないか」
真面目な顔をして何を言っているのか。無茶苦茶じゃないか。ペイトンは、父から目を逸らし、目頭を押さえる代わりに、カップの底をひたすら見つめた。父にまで無茶苦茶なことを言われたら困る。そんな変な理論を展開して、人を遣り込める人間は一人でいい。例えば「君を愛することはない」と言われたら「嫌です」と平然と返すような。
「……立ち直れなかったら、フォアード家の血脈が断たれるかもしれませんよ」
下を向いたまま、ぼそぼそ言うと、
「なるようになるさ」
父から、あまりに気安い答えが返ってくる。流石、かつて恋に生きた男は違う。アデレードの顔が浮かんだ。確かに、もし心の傷が疼くたびに浮かんでくるのが、あの子のことなら悪くないかもしれない。単純だ。笑ってしまう。血は争えない。今更戻って、あの子はなんて言うだろうか。「だから、愛するふりをしていたら、そのうち愛せるようになるって言ったでしょ! やーいやーい、ざまぁみろですね」とか、普通に言いそうだ。ろくでなしの小娘だから。
「……すみません」
「お前が謝ることなど、何もない」
「急用を思い出したので帰ります」
一分一秒も惜しくなって立ち上がると、父は声を上げて笑った。
急いで出てきたのは良いが、今からバリバラを発ったとして、ノイスタインに到着するのは夜中になる。そんな時刻に、バルモア家を訪問するのは非常識だ。かといって、このまま朝まで屋敷で手を拱いているのは、勢いが削がれるようで嫌だった。
ペイトンは、逸る気持ちを抑えて、とりあえず駅に向かった。卒業シーズン真っただ中とあって、駅舎は人でごった返していた。
(明日までにはノイスタインに着きたいんだが)
後になればなるほど今更感が強くなる。焦燥が募った。こんなことなら、ルグランで素直に思いの丈を吐露してから、レイモンドの元へ送り出せば良かった、などと弱気なことが頭をもたげる。それでも「やっぱりやめよう」という思考にならないのが、自分でも不思議だった。父の言うように「古い傷を忘れるには新しい傷を」というのが妙にしっくり腑に落ちている。人生の終わりに、誰かに尋ねられたとして「昔好きだった女性に手酷く振られて独身を貫きました」と言いたくなった。でも、アデレードは、我儘娘ではあるが、人の気持ちには敏感だから、手酷くと言うのは違うかもしれない。なんやかんやろくでもないことを言った後、きっと困った顔をする。でも、それもよい気がした。これまで散々やり込められてきたのだから、最後くらい意趣返ししてもいい。どんな顔をするのか見物だ。負け戦に行くのに妙に浮かれた気分になる。早く会いたい。
ペイトンは、これまで感じたことのないような高揚感を抱えて、足早に切符売り場へ向かった。幸いに、ノイスタイン行きの汽車の席には、まだ余裕があった。最終のひとつ前の二等席が手に入った。二十時出発だから、到着する頃は日付が変わる。向こうで宿をとり、昼にバルモア家を訪問する。計画は決まった。宿が取れるか、という問題が新たに生じるが、金を積めばどうとでもなることだ。
後は、一旦帰宅して、旅行鞄に着替えを詰めれば、出発時刻を待つのみ。ジェームスに、どう告げるかだけが面倒くさい。尤も、今朝、物言いたげな目でじっとこちらを見ていたから、ノイスタインへ行くと言えば、手放しで送り出されるに違いない。ペイトンは、再び馬車に乗り込むと駅を後にした。
屋敷に戻ると、待ち構えていたようにジェームスが迎えに出てきた。
「随分、遅かったですね」
夕食の用意を頼んで出掛けたが、まだそんな時刻じゃないだろう。他に予定があるわけでもない。遅刻したみたいな口振りで、嫌味を言われる筋合いはない。
「僕の自由だろ」
「まぁ、それはそうですが」
じろじろと嫌な視線を向けてくる。歯の奥に何か挟まったような切れ味の悪さも、釈然としなかった。長い付き合いだ。ジェームスがこういう態度の時は、大概こっちに良くないことを隠している。
「なんだよ。言いたいことがあるならはっきり言え」
「私は別に何もありませんが」
「じゃあ、誰なら何かあるんだ?」
「奥様が」
「は?」
「お待ちですよ」
何が起きているのか、理解するまで数秒、間ができた。どうして? なぜ? もう離縁の事後処理にきたのか。早すぎるのでは? というアデレードに対する不穏と、待たせてないで知らせを寄越してくれよ、とジェームスに対する憤りで、頭の中がごちゃごちゃになった。ただでさえ、昨夜ノイスタインから帰国したばかりで、おまけに一睡もしていない。屋敷で少し休もうと思っていたのに、それはないんじゃないか。ちょっと一旦時間がほしい、と突如、弱気な気持ちが顔を出した。それを見透かしたように、
「もう、二時間くらいお待ちです。荷物を整理しに来たと仰っておられました。今は応接室で休憩しておられますよ。旦那様が帰ってこないので、私がおもてなししておきました」
ジェームスがしれっとした顔で続けた。二時間という言葉にぎょっとした。じゃあ、帰宅した直後に、まずそれを伝えるべきじゃないのか。なぜ、そんな悠長にしているんだ、と全ての入り組んだ感情の上に、もっとも単純な怒りが乗った。
「どうして早く言わないんだ!」
「機嫌が悪そうだったので、奥様に当たり散らされたら困るなと思いまして」
「僕が、あの子にそんなことするわけないだろ。お前、誰の味方なんだよ!」
ジェームスは笑った。確かに幼稚な発言をしたが、絶対に笑うべきじゃない。詳しい経緯は話していないが、大体察しているくせになんなんだ、とペイトンは信じられない思いでジェームスを睨んだ。だが、今抗議するのは、時間の無駄だからやめた。
「後で覚えていろよ!」
ペイトンは、安い小悪党みたいな捨て台詞を吐いて、応接室に走った。
「ご武運を」
背中で、余計に腹が立つ声が聞こえたが、振り返ることはしなかった。




