二章〈邂逅〉2/5
イサクが雑居房に入れられて二日目の朝。配給されたパンを食べて終えて、何もすることがないイサクは、定位置となりつつある部屋の隅に座り、ただ雑居房の冷たい床を見つめていたときだった。
看守が部屋を訪ね、イサクの名を呼んだ。返事をして、のぞき窓だけが開けられている鉄のドアまで歩いた。
「出ろ。お前の身元引受人が来た」
「―――え?」
イサクは耳を疑う。誰かに身元の保証を頼んだ覚えがなかった。考えられるのは、イサクがベリトへ来る前働いていた町の酒屋の店主か、もしくはその前の育った村くらいしかない。
だが、もしどちらかが本当に来ているというなら、それはイサクの出身が明らかになった可能性があり、イサクの隠してきた過去までもが知られてしまったということを示唆していた。
動機が激しくなる。口の中が急速に渇いていくのを、イサクは感じた。
廊下に出たイサクを迎えたのは、四人の看守だ。取り調べのとき同様に、両手首には手錠を、腰には縄をつけられた。
命じられるまま、イサクは廊下を行く。いったい誰が待ち受けているのか。拘置所から出られるかもしれないが、むしろ恐れのほうが大きかった。
イサクが連れて来られたのは、面会室ではない。取調室で使われた狭い部屋だった。
手錠と腰の縄が外される。突然の解放に戸惑いを見せるイサクに、看守は中へ入るように言った。取り調べの時と違い、看守が先に入ろうとも、ドアを開けようともしない。疑問を持つが、看守は無表情で何を考えているのか窺うことはできない。
鉄のドアを開ける。鍵はかかってなかった。
狭い部屋に一つだけ設けられた、鉄格子のついた窓。テーブルが一つと、椅子が二つ備えられている。窓から差し込む光だけでは足りない光量は、油ランプの光で補われていた。
薄暗く狭い空間で、先に椅子に座ってイサクを迎えたのは、赤髪の美しい女性だった。腕を組んで、部屋に入ってきたイサクを強い眼差しで見つめた。
「一昨日ぶりといったところか。少年」
ランプの光で彼女の綺麗な赤髪が栄える。金色の両眼がイサクを映していた。一昨日見たときと同じ、至る所にファスナーのついた錆色の革製の服を着ていた。
イサクは驚きを隠せない。ドアを開けたまま、固まってしまった。
(赤髪の……)
どうして彼女が自分の前に現われたのか、まったく見当がつかなかった。
ドアを開けたまま固まるイサクに、赤髪の美しい女性は言った。
「とりあえず中に入ったらどうだ。そこに立っていられると話ができない」
「は、はい」
促されて硬直が解けたイサクは、中に入る。ドアが閉められる。結局、看守は誰一人入ろうとしなかった。
イサクは用意されている椅子には座らず、立ったままで、テーブルを挟んで赤髪の美しい女性と対峙する。赤髪の美しい女性の持つ雰囲気がそうさせているのか、座ったままでも十分すぎる存在感が彼女にはあった。
「初めまして、といったところか。もう知っているだろうが、私がシャルロット・スフォルツァだ。世間では赤髪の儀式方術士とも呼ばれているらしい。少年が会いに来ていた女と同姓同名で、偶然にも同じ二つ名で呼ばれているな」
最後のは皮肉があった。
イサクは、一昨日の夜の一件で彼女が何者か知っていた。目の前の女性が自身で宣言していたこともあり、何より彼女には、噂に聞いた現実離れした実力と同等の力が備わっているようにイサクは感じていた。あの夜、岩の巨人を操っていたのだ。
イサクは、赤髪の美しい女性の挑発には乗らず、冷静に返した。
「あなたが、本物のシャルロット・スフォルツァですね」
「ああ、そういうことだ。看守が聞き耳を立てているだろうから、単刀直入に選択肢を二つやろう。私に着いてくるか、ここに留まるかだ」
まるで、すでにどちらを選ぶか知っているかのような口調だった。彼女の表情は自信に満ち溢れている。
なぜ自分の身元引受人になったのか、どうして自分を連れて行こうとしているのか、イサクは聞きたいことがいくつかあった。
まさか、という不安要素もあった。シャルロットが、イサクの過去を知っているかもしれないかった。目の前の女性が本物のシャルロット・スフォルツァでも、彼女がこちらに友好的な考えを持って、身元引受人を名乗り出たとは限らない。
しかし、それらを含めても今は優先すべきものがあることは、イサクはわかっていた。
「着いて行きます。最初からそのために、この町に来たのですから」
どちらを選ぶまでもなく、イサクは目的のために拘置所から出なければならなかった。
「いい選択だ」
赤髪の儀式方術士こと、シャルロット・スフォルツァは満足そうな笑みを浮かべた。椅子から腰を上げて、鉄のドアの方へ歩く。イサクの横を過ぎてから、振り返った。
「看守に少年の服と荷物を用意させる。ここで着替えるといい。先に外で待っているぞ」
ドアを開けたシャルロットは、綺麗な赤髪の優雅に靡かせて部屋を去った。
しばらくしてから、看守がイサクの服と荷物を持って部屋に入ってきた。
「着替え終わったら出ろ。外まで案内する」
「わかりました」
看守は無表情でイサクに持ってきたものを渡し、さっさと部屋を出た。イサクは、自分の荷物がちゃんと揃っているか確かめた。全財産の入った財布と、着替えもチェックする。
全部確認したイサクは、とりあえず安心した。拘置所の服を脱いで、元の自分の服に着替えた。分厚いコートを羽織る。
最後にサングラスをかけて、具合を確かめた。いつものサングラス越しの世界が見られて、イサクは心のざわつきが落ち着くのを感じた。
バッグを肩に掛けて部屋から出たイサクを、ドアの側で待機していた看守が迎えた。看守は一人だけしか見かけなかった。あと三人の姿はない。本来の仕事に戻ったようだ。
「着いて来い」
歩き出した看守の後を追う。看守はイサクが着いてきているか確認すらせず、歩幅の広い足運びで歩いて行く。イサクは、小走りで後を着いて行くことになった。
廊下に設けられたいくつかの鉄格子を抜けて、やがて看守は廊下の突き当たりにある鉄の扉で足を止めた。
「ここから出ろ」
始終無表情で、イサクからしてみれば閉じ込める側の看守に、イサクは礼を言っていいものかわからず、無言で看守の前を過ぎるしかなかった。
イサクはドアを開けて、外へ出る。二日ぶりの外、そして外気に触れて、全身の肌が刺激に震えるのがわかった。
暖房の利いていない外は寒く、吐く息は白く染められる。当たり前のことだが、密閉空間から解放されたイサクは、感動として噛み締めた。自由の嬉しさが身にしみる。
高さ十数メートルはあろうかというコンクリートの分厚い壁。外に出たイサクの正面に、コンクリートとは違う色のものがある。外界へと繋がる唯一の道でもある大きな鉄の両扉が、一つだけあった。車で収容者を運ぶためのもので、普段開けられることはない。
大きく強固で、無表情に閉じられた鉄の扉の隅に、人ひとりがようやく通れそうな小さなドアがついていた。そこだけが開けられていて、ぽつんと外界を覗かせている。
あそこを通れば、拘置所から本当の意味で解放される。イサクの足は、開けられたドアへと歩き出した。自然と、足早になる。その背中に―――。
「もうくるなよ、坊主」
ぼぞりと聞こえた声にイサクが振り返ったとき、拘置所の鉄のドアは、バタンと音を立てて閉じられた。ありがとうございます、とイサクは呟いてから、再び前を向く。外を目指した。