12:誰がための殺人(後編)
もう戻れない――明石は、 そう言う周の悠然とも気怠げとも取れる面差しに、 朧げな憂愁を見出したように感じた。
周はそんな表情で、 視線を明石の後ろの辺りに投げている。
「最初に感じた違和感は、 包丁の出所」
周は微動だにせず、 ただ口元だけを動かしていった。
「持ち出したのは母親。 それは良い。 けれど口喧嘩が高じて、 包丁を持ち出したというには少しばかり場所が気になる」
「――場所?」
そう場所、 と周は明石の方をちらりと見て、 再び何処かに目線をずらした。
「離婚するなら殺してやる、 とか、 貴方を殺して私も死ぬ、 とか。 まあ感情の昂ぶったとして、 包丁は何処から持ち出す?」
「何処からって――普通に考えればキッチンでしょうか」
「そう、 キッチンだよ。 でも現場はリビングだ。 写真で見る限り、 そう広い家ではないし、 まあ数歩程度の差しかないけれどね。 それでも数歩の違いがある。 だとすると、 父親の方は、 母親がキッチンに行って仕舞ってあるなり置いてあるなりした包丁を掴んで、 自分のところに戻ってくるまで黙ってそれを見ていたということになるだろう」
「――キッチン前で揉み合いつつ、 リビングに移動してしまったのかもしれません」
明石がすかさずそう言うと、 周はその可能性はある、 と特に反論することもなく頷いた。
「次に気になるのは、 浮気相手の証言だ」
「気になり、 ますか? 確かに子供を引き取りたい、 と言うのは多少物珍しくは感じますが、 別段不可解というほどでは……」
そうじゃない、 と周は首を振る。
「父親は離婚後子供を引き取りたいと言っていた、 という点だ」
「……それが何か?」
「つまり父親は子供を気にかけていた、 大事に思っていた。 ならばどうして、 その子供をおいて自殺なんてするんだ?」
「それはだって、 母親を――」
明石はそこまで言って、 そのままの形でぴたりと口を止めた。
違う、 母親は事故死なのだ。 確かに諍いが原因で死亡したことに変わりはないが、 其処に明確な殺意はきっと無かったのだ。 殺意が無かったのならば、 過失致死ならば――殺人極刑法の範囲外だ。
突然のことで頭が回らなかったのか。 否、 確かにそれにしたって自殺を図るというのは些か不合理なようにも思えた。
幼い子供を一人残していくことになるのだ。 仮に殺人として起訴されたところで、 直ぐに刑が執行されるというわけではない。 少なくとも数か月の猶予があるならば、 その間に子供の今後が出来るだけ良い様に計らうこともできる。
浮気相手にすら漏らすほど、 子供を愛していたならば、 そうすることの方が理には適っているように明石には思えた。
「疑問に思うのはそれだけじゃあない。 母親を支配者と表現したのも、 不可解と言えば不可解だ」
「浮気している相手の配偶者を悪し様に罵るのは、 当然のように感じますが」
男がそう吹き込んだのか、 或いは恋敵ともいえる妻に対しする彼女自身の嫉妬がそうさせたのかは定かではないが。
明石がそう言うと、 周はそうじゃないという風に頭を振った。
「それは良い様には言わないさ。 浮気相手の配偶者が良い人間であったら、 それを蔑ろにしている自分達は相対的に悪人になってしまうから」
「だから」
「悪く言うにしたって、 支配者――なんていう単語は少し的外れだろう。 傲慢だとか横暴だとか我儘だとか、 まあそう言うなら分かるけれども」
「単純に語彙の問題では?」
支配、 という言葉はマイナスに響く。 周の言う通り、 罵倒文句としては些か中途半端のようでもあるが、 さりとて決して賞賛しているようには捉えられまい。
「そうじゃあない。 支配者が居れば被支配者も居るはずなんだ。 支配するというのは関係性であって、 性質ではない。 支配的であることと支配者であることは、 次元が違うんだ」
周は足を組み直しながら言った。
「だから、 母親は間違いなく支配者だった。 だとすると被支配者は――多分、 父親だったんだろうね」
「所謂、 女性優位な家庭だったということでしょうか? 女家長主義的な」
「違う、 優位劣位と支配はまた別物だ。 相対的であるか絶対的であるか、 というかそうだな。 もっと簡潔に言ってしまうなら――父親は母親からDVを受けていたんだ」
DV、 ドメスティックバイオレンス。 日本語で言えばそのまま家庭内暴力という意味になる。
明石は思わず眉を寄せた。
当初この言葉が取り沙汰された時、 主に問題となったのは男性から女性に対するそれであった。
何故ならば、 一般的なバイオレンス――つまり身体的な暴力というものに関しては、 肉体的に劣位にある女性がその被害者になりやすいのだ。
しかし昨今DVというのは別段身体的なそれに限ったものではない。
精神的、 性的、 経済的、 社会的――暴力というのは、 横暴で理不尽に力を振りかざすことを示し、 そしてその力とは何も視覚的、 物理的なものだけではない。
故に、 女性から男性に対してのDVというのもあるらしいことは明石も知識として了解していた。
唯男性からのDV以上に、 女性からのそれは一層発覚しにくいのだ。 DV被害者には弱者というイメージが付き纏うばかりに、 男性被害者は中々声を上げられないのだという。
一般的ではないというよりも、 一般に認知されていない。 だから一瞬周の言葉に 「そんな馬鹿な」 と返しそうになった自分を恥じるように明石は唇を一度強く噛みしめた。
「――そう思う根拠は、 他に?」
「無いよ。 少なくともこの資料には明確な根拠と言えるものは他に無い。 ただそれが事実なら、 もっと詳しく調べれば何かしら出てくるとは思うけれど」
「現段階では憶測に過ぎないと」
「別段俺は警察でも何でもないからね。 憶測や想像でものを言ったところで、 咎められる由縁はない。 ただそう考えれば、 すんなりと理解出来る」
周が目を伏せる。 その行為が何を意味するのか察しかねてたじろぐ明石を他所に、 周は更に続けた。
「DVや虐待の加害者が根本的に抱えている感情は何だと思う?」
「……執着、 でしょうか」
自分のモノだと主張したい。 自分の元から離れて欲しくない。 相手の全てを自分が管理し、 相手の全てが自分であって欲しい。
それだけ言えばまるで激しい愛情のようにも聞こえるのに、 愛情とDVは決して結びついてはならないものだし、 結びつかないものに違いない。
だからそれはきっと執着なのだ。 愛情は執着を引き起こすが、 執着は愛情には成り得ない。
明石がそう言うと、 正しくと周は首肯して、 徐に付け加える。
「だから矢張り俺のアンタに関する感情は、 愛情なんだろうな」
「――それこそ執着ですよ」
「別に俺はアンタを支配したいと思ったことはないし、 暴力を振るった覚えもないけど」
それはどうだろうか、 と明石は反論しかけて開いた口をまた直ぐ閉じる。
話を本筋に戻すように促せば、 周は詰まらそうに肩をすくめた。
「支配者にとって最も恐るべきは被支配者の喪失だ。 被支配者が何らかの方法で支配から脱しようとするとき、 支配者は激しく抵抗する」
「だから離婚を拒んだと? それは最早憶測というよりも妄想です」
「そうかもしれない。 けれどそうだとすれば、 父親が離婚して子供を引き取りたいと浮気相手に漏らしたのも理解出来るだろう」
「――というと?」
「被支配者の交代――父親はそれを恐れていたんだ」
周が言うところの意味を確認するように、 明石は小さくその言葉を繰り返す。
「つまり父親が家庭から離脱することで、 今度は子供が母親からDV――この場合は虐待ですね――を受けるだろうと?」
「そう。 とすると、 包丁の話がすんなりと納得できる。あれはもっと前の段階で出てきていたんだ」
周は淡々と続けた。
「恐らく母親は既に離婚の意志を固めた父親の支配を諦め、 被支配者を子供へとシフトした。 一般的な親子関係を逸脱した支配関係。 物理的な暴力は体に残るが、 視覚的に恐怖感を植え付ければ証拠は残らない――視覚的な、 生命の危機を感じさせるような小道具として、 包丁が持ち出されたとしたら?」
「何を馬鹿な。 妄想が過ぎます。 何の証拠も根拠もない」
「事実と事実。 証拠と証拠の間は全て想像で、 妄想だ。 今回は余りにも証拠が少なすぎるんだ、 アゲハ――俺はアンタが差し出されたモノ以上のことを知ることは出来ない。 その隙間は俺自身が埋めるしかないのだから」
周はでもね、 と更に言葉を繋ぐ。
「子供が父親を刺殺したという真実からは、 どう想像を巡らせたところで逃れられないんだよ」
明石は思わず言葉を失った。
何を言い出すのだろうと、 一瞬周の正気を疑って、 何時の間にか真っ直ぐ明石に向けられた双眸の奥に毅然としたものを見出した。
そんな馬鹿な、 と言いたかったのに、 喉は張り付いたように動かず、 乾いた唇が無意味に開閉した。
「今更何を驚くことがあるんだ? アンタは最初から気づいていたはずだ。 アンタがずっと探していたのは、 この悲劇の理由なんだから」
「そん、 なことは……」
「躊躇い傷の有無は自殺か他殺の相違点になり得る。 普通に考えるならば躊躇い傷の無い今回の事件は、 殺人と認識してしかるべきだった。 それをそうとしなかったのは、 そうして必然特定される犯人のことを、 誰も犯人だとは思わなかったからだ」
いや、 認めたくなったからかな――と周はぼやくように言った。
現場には三人の家族しかおらず、 外部から侵入した他人の痕跡は発見されていない。 母親が先に倒れたことは明らかであったし、 父親を刺した人物がいるというならば、 残った一人――ただ一人生き残った子供しかあり得ない。
純朴な子供が人を殺すわけがないと、 そんな無根拠を振りかざしているつもりはなかった。
子供にだってきっと殺意はある。 その殺意が何らかの契機で、 体現してしまうこともあるかもしれない。
けれど、 そうと分かっていて、 それでも、 明石はあの子供の小さな手に、 鈍く光った包丁が握られて、 それを父親の腹に突き立てる光景など思い浮かべたくもなかったのだ。
――それは、 耐え難い悲劇だ。
「子供に包丁を突き付けている母親。 帰宅した父親がそれを見て母親を咎め、包丁を取り上げる。 二人は言い争いになり、 やがて掴み合いの喧嘩になって、 母親は死んでしまう。 いや、 最初はどうでもいい。 そうであってもそうでなくても良い。 明石が認められないというのならば、 まず両親が喧嘩をして、 それが高じて包丁が持ち出されたとしても良い――それは良いが、 じゃあ包丁にどうして子供の指紋がつくんだ?」
「父親、 は……自分を刺した後包丁を抜いたのでしょう。 だったらそれを拾って、」
「どうして拾うんだ? そんなものを」
「目の前の惨劇に混乱して、 子供ですから、 理屈の沿わないようなことも……」
「子供にだって理屈はあるよ。 大人のそれと違うだけでね」
周はすげなく言った。
「……惨劇の前に、 付いたのかもしれません。 事件が起こったのは午後七時前後、 ということですから、 その日の夕食の手伝いでもして」
「俺には子供が居ないし、 一般的な家庭環境では育っていないから何とも言えないけど、 八歳の子供に大人用の包丁を持たせるものなのか?」
持たせない、 だろうと明石は言葉に詰まった。
八歳と言えば、 小学校二年生か三年生か。 身体も小さいし、 手も小さい。 包丁というのは存外重いものだし、 子供が危うげなく扱えるものではない。 絶対にしない、 とは言い切れないが、 良くあることだとは到底言えない。
「それにね……父親の利き手はどっちだった?」
唐突な質問に 「利き手、 ですか?」 と明石が尋ね返す。 周は無言の儘、 頷いた。
そんなこと知る由もないし、 聞いてもいないと返そうとして、 明石は自分の見た父親の遺体を思い返した。
血の気の無い青ざめた肌、 凝固してこびりついた血、 開いた瞳孔――そう、 死後まだそんなに経っていなかったせいか、 まだ角膜は透明度を保っていた。
背丈は170センチメートル前後、 特に太っているわけでもなく、 華奢というわけでもない。 所謂中肉中背。
手は、 そう。 左手の薬指には結婚指輪がまだあって、 シルバーのそれは大分くすんでいて、 血で汚れていた。 その手首にはまだ新たしめの腕時計がしてあって、 秒針がかちかちと――嗚呼、 と明石は声を上げる。
右手の中指が僅かに変形していたのを思い出したのだ。 あれは、 ペンだこだ。
「右利き、 だと思いますが」
「じゃあ父親の傷口の位置は?」
明石はそこでようやっと、 周が暗に指し示していることを察した。
傷口は鳩尾よりやや右下。 右胸骨中線と第七肋骨下縁を結んだ辺りにあった。
右利きの人間が自分の腹を刺したにしては、 位置が不自然だ。
右過ぎて、 利き手に力が入れにくいのだ。 そんな部分に躊躇い傷も無しにひと思いに刺せるとは思えない。
だから矢張り父親は――、
「刺された、 のですか」
「刺されたんだよ、 子供にね」
「だって、 どうして……」
「母親に酷いことをしたから」
周は起伏少ない声色で言った。
「母親が子供にどういう風に接していたのか、 それはもう分からないけれどね。 どうであったとしても子供にとって母親は世界だよ」
「……世界」
「そう、 世界。 専業主婦だったというのだから、 子供が母親と過ごす時間は父親と比べればずっと長かったのだろうし。 母親は子供にとって、 全ての基準に成り得る」
その感覚は明石には分からないでもなかった。
確かに母親と父親は何かが違っていたのだ。 例えば母親には言えることも父親には言えなかったりしたし、 父親が許しても母親に許されないことは出来なかった。
父親が嫌いだったわけではない。 寧ろ明石は父親っ子だった。
けれど、 そう。 確かに周の言う通り、 子供の頃の価値観は全て母親に依存していたように思う。
周は続けた。
「だから――そんな母親を苦しめる存在は、 自分の世界を壊してしまう敵だ。 父親であっても、 何であっても、 その子にとってそれは敵だった」
「そうであっても、 殺す理由にはならないでしょう」
「ならないかもしれないし、 なるかもしれない。 殺すつもりがあったのかどうなのかは分からない。 けれど自分より大きくて力の強い敵を倒すために武器を使うという行為は、 極めて合理的な判断だ」
多分父親は子供を抱きしめようとしたんだ、 と周は淡々と語った。
「母親を死なせてしまって、 父親は恐らく酷く動揺したんだろうが、 怯えた様子の子供の姿に我に返る。 そして兎に角子供を宥めようと両手を広げて、 身をかがめて――そこを刺されたんだろうね。 傷口の位置的に」
明石は何も言えなかった。 根拠のない妄想だとそう声高に言い切るだけの力もなかった。
否、 分かっていたのだ。 周の言う通り。
躊躇い傷がないこと、 傷の位置、 刃物の指紋、 唯一の生存者。
分かっていたのだ。 父親は自殺ではなく、 子供に殺されたのだと。
けれどそうでないことを願った。 そうでない真実を導き出したくて、 さりとて無秩序に根拠を集めてしまえば、 そうであることの証拠になりそうで出来なかった。
そしてもし子供が父親を殺したというのなら、 その理由が欲しかった。 そうならざる得なかった理由が、 この悲劇に釣り合うだけの理由が欲しかった。
「母親を傷つけたから――母親を助けるために、 父親を殺したと」
「嗚呼」
「母親はもう、 亡くなっていたのに?」
「そうだ」
「貴方の、 語った話では、 父親は子供を助けようとしていたというのに?」
父親は子供を助けようとして母親を死なせ、 その子供に殺された。 子供は母親を守るために父親を殺したのに、 守りたかった母親は死んでいた。
明石は猛烈な虚無感に襲われる。 無意味じゃあないか。 二人も人が死んで、 殺されて、 結局誰も救われていない。
この悲劇に理由などなかった。 否、 理由があったからこそこの悲劇が生まれてしまった。
アゲハ、 と呼びかけてくる周の声に何かを返す力もなかった。
「――アゲハ。 暴力に愛情が返ってくるなんてことはあり得ないんだ。 愛情の表出として暴力を使ってしまった時点で、 この結末は十二分に予想出来る範疇でしかない」
「……致し方なかった、 と?」
周は明石の言葉には直接答えずに、 ただ明石にこれからどうするのかと尋ねた。
「どうしようも、 出来ないでしょう。 私は法医学者で、 警察ではないですから。 明日にはもう送検される事件です。 警察が父親を自殺と判断した以上、 その判断に口を挟める立場じゃありません」
明石が差し出した情報は全て警察でも把握している情報であり、 そして警察は明石よりもより多くの情報を持っているのだ。
警察は決して無能ではないのだ。 彼らがそれらの情報を元に、 父親は自殺ということで処理するというのならば、 きっとそれが正しいに違いない。
――否、 そう思って逃げているのかもしれない。
八歳の児童であるならば、 刑事責任年齢に達していないのだから、 基本的殺人極刑法が適用されることは無い――はずである。 明石は法律の専門家というわけではなかったし、 あの子供を殺人犯として糾弾したことで、 万が一にでも彼が死刑に処されることになったら?
子供を殺すのは厭だ――例えそれが社会から批判されるような振る舞いでなかったとしても。 それでも結果として子供を殺してしまうのは、 厭だった。 どうしても、 厭だ。
周はそんな明石の心情を見透かした上で、 明石にこんなことを尋ねたのだろう。
彼はまた何処を見ているのか定かではないぼんやりとした眼差しで言った。
「罪というものは、 例え露見しなくとも自分の中では決して消えないものだ――そんなことはアンタだって分かっているだろうに」
「……何が、 言いたいのですか」
「罪という秘密は、 子供の心を容易に蝕む。 誰も気が付いてくれない、 自分にしか見えない汚点を抱えて生きることは至極辛い。 まあそれが罰だと言われてしまえば、 そうなんだろうけど――でもね。 その子、 このまま放っておいたら、 俺のようになるよ」
周は自嘲する様に笑って、 明石の方をちらりと見る。
オリーブ色の瞳は薄暗く濁って、 まるで淀んだ沼地の様に沈んでいることに驚き、 そして恐怖する。
それは深淵であった。 明石が心から恐れる深淵は、 確かにその双眸の奥に横たわっていた。
彼のようになる――明石が思わず逸らしてしまった薄暗い眼を、 あの子供もするようになるのだと彼は言っているのか。
明石の視線は周の口元辺りを彷徨っている。 彼はそれを歪ませながら言った。
「俺が最初に人を殺したのは八歳の時――殺したのは、 母親だ」