5話 入学
大樹が呟いたその時、広間に厳かな声が響き渡った。壇上に立った白髭の学園長が、新入生を見渡している。
「静粛に!これより、入学式を挙行する!」
学園長の隣には、各クラスを担当する教師たちがずらりと並んでいた。その中でも一際威圧感を放つAクラス担任の教官は、腕を組み、値踏みするように生徒たちを眺めている。
退屈な祝辞が続く中、やがてクラス分けの発表が始まった。名前を呼ばれた生徒が次々と各教室へと向かっていく。
やがて、会場の空気が一変した。嘲笑と侮蔑が入り混じった、冷たいざわめきが広がる。
「おい、見たかよ…Fだってさ」
「マジか、よく入学できたな」
「魔力ゼロのゴミだって噂だぜ」
その視線と声の全てが、ただ一人、壁際に佇む大樹へと突き刺さっていた。
Fランクの教室は、校舎の最も奥まった、日の当たらない一室だった。教壇もなければ、まともな机すらない。ただ埃っぽい床に、朽ちかけた木箱がいくつか転がっているだけ。そこは教室というより、忘れ去られた物置だった。
初日の授業と称して連れてこられたのは、広大な訓練場。そこで待っていたのは、同じFランクでありながら、より凶暴で横暴な上級生たちだった。
「ようこそ、クズどもの掃き溜めへ。お前が魔力無しか?」
ニヤついた顔で近づいてきた男が、いきなり大樹の腹を蹴りつけた。呻き声とともに地面に倒れ込んだ大木を、周囲の男たちがゲラゲラと笑いながら蹴る、殴る。
「魔力もねぇ雑魚が粋がってんじゃねぇぞ、コラァ!」
口の中に鉄の味が広がり、視界が霞む。抵抗する気力すら湧かないほどの、一方的な暴力。それは「いじめ」などという生易しいものではなく、弱者に対する剥き出しの憎悪とストレスのはけ口だった。
教師は見て見ぬふりをしている。いや、むしろ面白がっているかのように口元を歪めていた。
殴られ、蹴られ、泥水に顔を突っ込まされ、意識が遠のきかけた頃、ようやくその日は終わった。
次の日も、その次の日も。
同じことが繰り返される。身体のあちこちに痣が増え、骨のどこかが軋むような痛みが常にあった。食事は日に一度、カビの生えたパンのかけらが投げ与えられるだけ。
「やめろ」
絞り出した声は弱々しく、暴行の音にかき消された。
力を込めようとした瞬間、まるで分厚い壁にぶつかったかのように、その力は行き場を失い、霧散してしまう。まるで、錆びついた扉が開かないように、自分の内に秘めたはずの何かを全く引き出すことができない。
「あぁ?なんだって?もっとデカい声で言ってみろよ!」
男が大樹の髪を鷲掴みにして顔を無理やり上げさせる。目の前で下卑た笑いが炸裂した。
「こいつ、まだ自分が人間だと思ってんのか?俺たちはな、お前みたいな魔力もねえ出来損ないを『処理』するのも仕事なんだよ。感謝しろよな!」
再び腹部に衝撃が走る。せり上がりかけた力の残滓が消え失せ、代わりに鈍い痛みと無力感だけが残った。
(なんで…なんで何も起きない…!?)
焦りと苛立ちが募るが、現実は変わらない。自分はただのサンドバッグ。無数の拳と足を受け止め続けるだけの、無力な肉塊だった。
いつものように暴行が続く中、ふと、上級生の一人が動きを止めた。
「…ん?おい、誰か来るぞ」
その声につられて全員が視線を向けると、訓練場の入り口に一人の少女が立っていた。風に靡く翠色の髪、軽やかな笑みを浮かべた口元。学園でも屈指の人気者、Bクラスのフィリーだった。彼女の周りだけ、空気が違うように澄んで見える。
「あれー?こんな所で何してるの?なんだか楽しそうだね!」
彼女は小走りにこちらへ近づいてくると、何のてらいもなく輪の中に入ってきた。そして、泥だらけで倒れている大樹を見て、わざとらしく目を丸くする。
「わ、この人、大丈夫?すごい怪我してるじゃない。もしかして、君たちがやったの?」
悪戯っぽく笑いながら上級生たちを見回すが、その瞳の奥は笑っていなかった。風が彼女を中心にそっと渦を巻き、彼女の言葉には有無を言わさぬ圧がこもっている。
「げっ、Bクラスの…!い、いや、これは…こいつが転んだだけで…」
さっきまでの威勢はどこへやら、男たちは途端に狼狽え始めた。Bクラスのエリートであるという事実が、彼らを萎縮させていた。
「ふぅん?そっかぁ。でもさ、弱い者いじめって、見ててあんまり気持ちいいものじゃないんだよね。それに、これ以上やるとさ、私が“手当て”しなきゃいけなくなっちゃうかも?」
フィリーが指先でくるりと風を描くと、小さなつむじ風が舞い上がり、男たちの頬をかすめた。
「ありがとう……」
「ううん、気にしないで。私がやりたくてやっただけだから」
彼女はにこっと笑いかけ、しゃがみ込んで大樹と目線を合わせた。その笑顔は太陽のように明るく、先ほどまでの冷たさが嘘のようだ。
「私はフィリー。見ての通り、ちょっと風魔法が得意なBクラス生徒だよ。君の名前は?」
屈託のない問いかけ。彼女は大樹に手を差し伸べ、立ち上がるのを助けようとする。その手は小さく、柔らかそうだった。
遠巻きに見ていた上級生たちは、フィリーの登場と警告で完全に戦意を喪失していた。彼らは大樹を最後に一度だけ忌々しげに睨むと、「ちっ…行くぞ」と吐き捨て、そそくさとその場を後にしていく。
あっという間に静けさを取り戻した訓練場に、二人だけが残された。
「大樹くん、ね。よろしくね!」
大樹が手をつかむと、フィリーは軽々と彼を引っぱり起こした。その力は見た目に反して強い。
「頼みがあるんだけど……図書館へ行きたい…
Fクラスだと権限が無くてほとんど見れないんだ……」
「図書館?いいね、私も好きだよ、静かな場所。…そっか、Fクラスだと制限があるんだ。それは面倒だね」
二人は並んで、夕暮れの廊下を歩き始める。
「ねえ、ちょっと聞いてもいい?大樹くんと会った時からなんだけど、周りの精霊たちがなんだかざわついてるんだ」
フィリーはいつもの笑顔を少しだけ曇らせ、不思議そうに首を傾げた。
「怖がってるわけじゃないの。むしろ、興味津々っていうか…懐かしい匂いを嗅ぎつけたみたいに集まってきてて。大樹くん自身からは魔力を全然感じないのに、すごく不思議なんだ。何か、特別なものでも持ってるの?」
風の精霊使いである彼女の純粋な好奇心が、真っ直ぐに大樹へと向けられる。それは他の誰もが抱かなかった、魔力以外の“何か”に対する違和感だった。
二人が歩く道すがら、すれ違う生徒たちは皆、物珍しそうな、あるいは侮蔑の目を大樹だけに向けてきた。「F級がB級と?」「また何か企んでるんじゃないのか」。そんな囁きが風の噂に乗ってフィリーの耳にも届くが、彼女は気にした素振りも見せない。
「特別なもの……あったけど、
今は全く使えないみたい……」
「あったけど、今は使えない…?」
フィリーは興味深そうに目を輝かせる。その言葉は、風に揺れる木の葉のように彼女の心をくすぐった。
「なにそれ、なんだか面白そう!どういうことか、もっと詳しく聞きたいな」
隣を歩きながら、キラキラした目で大樹の顔を覗き込む。他人の秘密や、常識では測れないものに彼女は目がない。特に、それが大好きな風の精霊たちを惹きつけるものであれば尚更だった。
「でも、無理にとは言わないよ。話したくないことなら、別にいいし。ただ、もしその“使えるようになった”ら、一番に私に教えてくれると嬉しいな。約束!」
そう言って、フィリーはいたずらっぽく小指を立ててみせる。契約を司る精霊の名を冠する彼女の仕草には、どこか遊び以上の真剣さが宿っていた。
やがて、巨大な両開きの扉が見えてきた。『大図書館』だ。高い天井まで続く本棚が迷路のように並び、古紙とインクの独特な香りが二人を迎える。
「はい、ご用件は?」
カウンターに座る厳格そうな司書が、分厚い眼鏡の向こうから二人を見た。
「この子が調べものがしたいんですけど、Fランクだと閲覧できる本に制限があるって聞いたんです。何とかなりませんか?」
フィリーが司書と話している間、大樹は広大な書架の間を当てもなく歩いていた。指が偶然触れた一冊の古びた本。『魔力の根源とその起源について』。何かに導かれるようにその本を開いた大樹は、そこに書かれた内容に愕然とする。
『魔力とは、生命が生まれながらに持つ根源的なエネルギーである。後天的な増減は稀であり、ほとんどの場合は先天的に決定される。詠唱や魔法陣はこの根源エネルギーを増幅・変換し、事象として顕現させるための補助輪に過ぎない』
その一文が、冷たい鉄槌のように頭を殴りつけた。
(先天的…?じゃあ俺に…魔法は使えない…?)
魔力がないから魔力操作ができず、それを増やす手段もない。完全な袋小路。努力でどうにかなる問題ですらなかった。絶望が再び心に影を落とす。本を持つ手が力なく垂れ下がった。
「おーい、大樹くーん!こっちこっち!」
不意に明るい声が響き、ハッと顔を上げる。少し離れた場所で、フィリーが手招きしていた。
「特例で許可が下りたよ!私が保証人になるなら、禁書庫以外は自由に見ていいって!やったね!」
「フィリー……俺は魔法が使えないみたいらしい……」
「え…?」
ぱっと咲いた花のような笑顔が、一瞬で凍りついたように消える。フィリーはいつもの調子で駆け寄ってきたが、大樹から発せられた言葉の重みに足を止めた。彼女の翠色の瞳が、心配そうに揺らぐ。
「どうしたの、急に。さっきの本に何か書いてあったの?」
彼女は大樹の手から力の抜けた本へ視線を落とし、タイトルを読む。「魔力の…根源…」。そして、彼の表情から全てを察したように、そっと息を呑んだ。
「…そっか。そういうこと、だったんだ」
同情でも憐れみでもない、ただ静かに事実を受け止める声。彼女は無理に元気づけようとはせず、大樹の隣に並んで立つ。いつもの軽やかさは影を潜め、穏やかな風のように寄り添う。
「それは…辛いよね。この学園は魔法の強さで全部決まるようなところだから。でも…」
そこで言葉を区切ると、フィリーはいつになく真面目な顔で大樹を見つめた。
「なにか無いか探してみせる……」
「うん、そうだよ!探せばいいんだよ!」
沈んでいた空気が、彼女の一声でふわりと浮き上がるようだった。フィリーはいつもの太陽のような笑顔を取り戻し、ポンと大樹の背中を叩いた。
「『魔力がないから魔法は使えません』なんて、そんなの、誰が決めたのさ!その本?そんなのただの昔の人の考えかもしれないじゃん!」
彼女の風の髪が、まるで意志を持ったかのようにふわりとなびく。
「私も手伝うよ!風の噂を使えば、どんな古い文献だって見つけられるかもしれないし!きっと何か別の方法があるって考えてくれるよ!」
力強い言葉。一人で閉じこもりかけた大樹にとって、それは暗闇に差し込んだ一筋の光だったかもしれない。
「諦めちゃダメだよ、絶対!ね?」
それからというもの、放課後のチャイムが鳴ると同時に、二つの影が図書館へ向かうのが日常の光景となった。大樹とフィリー。
フィリーはただひたすらに大樹に付き合い、膨大な蔵書の中から「魔力なしで戦う方法」「異能の覚醒」「伝説の無魔術師」といったキーワードで関連書物を探し出すのを手伝った。時には風の精霊に頼んで本の隠し場所を教えてもらったりもした。
しかし、成果は芳しくなかった。
「うーん…やっぱり、基本的には『魔力があって当たり前』っていう前提で書かれてる本ばっかりだねぇ…」
机の上に山積みになった本の山を見つめながら、フィリーは頬杖をついてため息をつく。
その日も二人は書架の間で手分けして探していた。フィリーは上の段を、大樹は下の段を。ふと、大樹が目にしたのは、白い服、白い髪をした人物が本棚に一冊の本を戻すところだった。
その人物はすぐに姿を消してしまい、夢か幻かとさえ思った。
気になってその本に近づくと、それは古びてはいるが、他のどの本とも違う奇妙な気配を放っていた。背表紙には何も書かれていない。ただ、惹きつけられるように手に取る。
その瞬間、頭の中で何かがカチリと音を立てた。バラバラだったピースが、一つの形を成していく。
フィリー!買い物に行こう!
「へ? 買い物?」
本の整理をしていたフィリーが、きょとんとした顔で振り返る。
「本探しはもういいの? 急にどうしたのさ」
大樹のただならぬ様子に、彼女は首を傾げた。その目には「何か見つかったの?」という期待が浮かんでいる。
「見つけた!今すぐにこれが欲しい!」
メモを描きフィリーに見せる
「んー…なになに? 『肉、キャリーバッグ、毛布、鏡、笛…?」
メモを覗き込んだフィリーは、さらに困惑した表情を深めた。
「肉と毛布は野営でもするのかなって思うけど…キャリーバッグ? 鏡に笛? 全然関係性が見えないや。これが、君の言ってた『答え』に必要なものなの?」
風の探求でも、このリストの意図を読み解くことはできないようだ。フィリーは不思議そうな顔をしながらも、どこかワクワクしているようにも見える。
「まあ、いいや! 面白そうだし! 行こう行こう! 市場なら大体のものは揃うでしょ!」
結局、考えるよりも行動するのが彼女の性分らしい。ぱん、と手を一つ叩くと、「早く行こ!」とばかりに大樹の腕を引っぱった。
「ここが市場……」
フィリーに案内されてたどり着いた市場は、活気に満ち溢れていた。石畳の道の両脇には露店がずらりと並び、威勢のいい売り子の声が飛び交っている。香辛料の焼ける匂い、家畜の鳴き声、人々の笑い声。それらが混じり合い、街全体が生きているかのようだった。
大樹がこれまで過ごしてきた、寮と訓練場だけの殺風景な世界とは全く違う、色とりどりの光景がそこにはあった。
「おっ、すごい人だねー! さ、まずはリストの一番上からいこっか! 肉だ、肉!」
フィリーは目を輝かせながら、人混みを器用にすり抜けていく。その手には、いつの間にか串に刺さったリンゴ飴のようなものが握られていた。
「フィリー……その…言いにくいんだけどさ……
ごめん!お金貸してくれない?!」
「ん? お金?」
肉屋に向かって歩き出していたフィリーは、ぴたりと足を止めて振り返った。口に咥えていた果物を飲み込むと、ぱちくりと目を瞬かせる。
「あー…そっか、そうだよね! 大樹、まだお給料とかもらってないもんね、Fクラスだと」
しまった、という顔をして、自分の浅はかさを反省するように舌をぺろりと出した。四天星としての任務や研究で、彼女の懐はかなり潤っている。
「ごめんごめん、気が利かなかった! もっちろんいいよ! いくら必要? この市場で買えるものなら、全部買ってあげちゃう!」
そう言うと、彼女は腰につけていた可愛らしいポーチに手を入れた。しかし、そこから出てきたのは金貨や銀貨ではなく、色とりどりの綺麗な石や、風の模様が刻まれた木の札といった、お世辞にも通貨には見えないものばかりだった。
「あれ…?」
「これはなに!?」
「えへへ…ちょっとしたコレクション、みたいな…?」
バツが悪そうに笑いながら、ポーチから取り出したガラクタ…もとい宝物たちを慌ててしまい始めた。
「だ、大丈夫! お金もちゃんと持ってるから! これはその…別のお財布というか…!」
ごそごそとポーチの奥を探り、ようやく指先に触れた硬い感触。取り出されたのは、使い込まれて少し黒ずんだ革の財布だった。
「ふぅ…よかった。はい、これ! 中に金貨が結構入ってるはずだから、好きなだけ使っていいよ!」
少しだけ顔を赤らめながら、財布を大樹へと差し出した。天才で自由奔放な彼女の、意外な一面が垣間見えた瞬間だった。
「本当にありがとう!必ず返すから!」
「ううん、いいのに気にしなくて。これは私からのプレゼントってことで!」
フィリーはひらひらと手を振って笑う。その笑顔は、先ほどの失態を誤魔化すというよりも、純粋に大樹を応援したいという気持ちの表れだった。
「それより、早くお肉買わないと! どれがいいかなー、ワイバーンのもも肉はジューシーで美味しいし、ロックボアのバラ肉も煮込みにすると最高なんだよね!」
話題を切り替えるように、目の前の肉屋を指さす。店先には、見たこともないような巨大な肉の塊が吊るされていた。
「いちばん安いのを買えるだけ!」
「いちばん安いのでいいの?」
フィリーの眉が、わずかにハの字に下がる。彼女の基準からすれば、どんな高級食材でも「ちょっと奮発すれば手が届くもの」だ。
「遠慮しなくてもいいのに。私のお金なんだから、気にしないで選んでいいんだよ? 一番いいお肉で、すっごい豪華な料理作ってよ!」
そう言いながら、店主に声をかけようとする。だが、大樹は黙って首を横に振るだけだった。その真剣な眼差しに、フィリーは何かを感じ取ったのか、少し寂しそうに口を噤む。
「……わかった。じゃあ、一番安くて、でも一番新鮮そうなお肉を選ぼう!」
彼女は気を取り直して店主の前に立つと、風を操って肉の質を素早くチェックし始める。その横顔は、真剣そのものだった。
肉屋でのやり取りを皮切りに、二人の買い物は続いた。
フィリーは相変わらずおしゃべりで、「ねえねえ、あっちの雑貨屋さん、可愛いアクセサリーがあるんだよ!」「あ、見て見て! あの果物、甘くてすっごく酸っぱいんだ!」と、目に映るもの全てを大樹に共有しようとした。
対照的に、大樹はあまり多くを語らなかった。ただ、時折フィリーの言葉に短く相槌を打ち、リストと店の品物を見比べ、必要なものを黙々と選ぶ。
「キャリーバッグ」は、革製品を扱う店で見つかった。旅人や行商人が使う、頑丈でシンプルな作りのもの。大人が一人、ギリギリ入れるくらいの大きさだ。
「毛布」も、雑多な品が並ぶ露天商の店で手触りの良いウールの毛布を数枚。
「鏡」は少し値が張ったが、金属製品を専門に扱う店で真鍮の手鏡を購入した。
そして「笛」。楽器店で様々な種類の笛が並ぶ中、小さくて首にぶら下げられる大きさで、素朴な木彫りの笛を選んだ。
リストにあったものが一つずつ、彼女が持つ財布から支払われ、大小さまざまな荷物となっていく。
その全てが、これから始まる大樹の「研究」に使われるものだと思うと、フィリーは尽きない好奇心を抑えきれなかった。
「いやー、結構買ったね! でも、これだけのもので一体何ができるんだろう? まるで、どこかに旅に出るみたいな荷物だけど…」
「フィリー…俺はしばらく学校を休む。でも必ず戻ってくる。その時は一番最初に声をかけに行くから。」
「え…?」
楽しげに弾んでいた彼女の足が、不意に止まる。抱えていた荷物が、がさりと音を立てた。
「学校を…休む? い、いつまで…?」
冗談だと言ってほしそうに、笑顔が引きつっている。風がざわめき、いつもは快活な彼女の周りだけ、空気が淀んだように静かになる。
「一番最初に声をかけるって…それ、どういう意味? 『研究』って、そんなに長くかかるものなの…?」
「1年かな……」
「い……っ!?」
息を呑む音が、喧騒の中でもはっきりと聞こえた。フィリーは信じられないというように、大きく目を見開いて大樹を見つめている。いつもはくるくると変わるその顔から、完全に血の気が引いていた。
「いちねんって……嘘でしょ? 冗談きついよ、それ…」
絞り出すような声は、か細く震えている。彼女は抱えた荷物を思わず強く握りしめた。買ったばかりの肉や毛布の感触が、やけに現実的だ。
「なんで…!? なんでそんなに長い期間、学園を離れなきゃいけないの!? 説明してよ、大樹! その研究って一体なんなの!? 私たちに言えないことなの!?」
風が渦を巻き始めた。それは彼女の動揺と混乱の現れだ。周囲の人々が何事かと二人をちらりと見る。明るく自由な天才少女の、見たことのない取り乱した姿だった。
「……待っててくれる?」
待っててくれる?…その言葉は問いかけの形をしていたけれど、有無を言わさぬ決定事項のようにも聞こえた。
フィリーの瞳が、傷ついたように揺れる。
「待ってるに決まってるよ…! でも…!」
彼女は一歩踏み出し、ほとんど懇願するように大樹を見上げた。その距離は近すぎて、通行人が奇妙なものを見るように二人を避けて通っていく。
「でも、理由も、どこで何をするのかも、何も教えてくれないの…?」
不安げな声。風は凪ぎ、彼女の髪が力なく垂れ下がる。まるで、風の精霊たちでさえ、主人の心の乱れを映して静まり返ってしまったかのようだった。
「約束して。一年後、必ず帰ってきて、全部話してくれるって。…そして、また私と一緒にいてくれるって…」
彼女の言葉は最後には囁きのようになり、潤んだ瞳で必死に大樹を捉えて離さなかった。
約束する。
「……ほんと?」
潤んでいた瞳から、ぽろりと一粒の涙がこぼれ落ちた。しかし、それはすぐに彼女の意志の強さで拭われる。しゃくりあげそうになるのをぐっとこらえ、もう一度、確かめるように問い返した。
「絶対に…絶対に約束、守ってくれるんだね…?」
大樹が黙って頷くのを見て、彼女は震える息をついた。張り詰めていた空気が、わずかに緩む。
「……わかった。信じる。大樹のこと、信じてるから」
フィリーはゆっくりと後ずさり、少しだけ離れた場所で深呼吸をした。無理に作った笑顔は、まだぎこちなく、泣き笑いのように見えた。




