ファイル10 太田莉奈:中編
待ち合わせ場所に着くと、先崎君はすでに来ていた。
いつものボサボサ頭に、黒い革ジャンを羽織っている。目があうと、ニコッと笑ったので、つられて私も微笑んだ。
「お久しぶりです。お元気でしたか?」
「うん、本当に、その節はありがとう。」
「なんか、雰囲気変わられましたね。顔色もすごく良くなってます!」
先崎君は、「良かったです」と言うと、なんか食べたいものありますか?と聞いた。
「実は、お礼も兼ねてぜひご馳走させて欲しいの。」
内緒で、昔から、父と母によく連れて来てもらった地元の焼肉店を予約していた。
「俺から誘ったのに、すみません。」
「いいから、いいから。」
沢山話したいことがあった。
啓介先生のこと、セラピーのこと、それから無事に離婚ができたことも。
「昔、父と母に連れてきてもらったの。ピアノの発表会の時とか、受験に合格した時とか。お祝いの時にね。」
店に着くと、4人がけのボックス席に、品よくウエイターが案内してくれた。
「仙台の牛タンとは違うかもしれないけど、ここのお肉もすごく美味しいんだよ。」
メニューを見ながらおすすすめを言うと、じゃあこれにしますと、ランチセットに、追加で特上ハラミと牛タンセットを頼んだ。
「今日は時間大丈夫なの?」
「はい。6時に渋谷に着けばいいので、全然時間あります。」
おしぼりで手を拭きながら、はぁっと息を吐くと先崎君は、しげしげと私の顔を見た。
「本当に変わられましたね。田島先生、ずっと顔色悪かったから、俺心配してたんです。」
「ありがとう。うん、色々あったんだけどね。あ、そう。私ねもう田島じゃないの。太田に戻ったから。」
離婚したことを伝えると、先崎君は、一瞬目を見開いた。
「あの、おめでとうございます。」と、軽く頭を下げ、安心したとばかりに、はぁっと深い息を吐いた。
「良かったです。俺、先生と莉奈ちゃんの顔見たとき、本当に大変なんだなって、わかっちゃって。」
ウェイターが、お待たせしました。と、特上ハラミの乗った皿をテーブルに置いた。
美味しそうな盛り付けを見て、会話が中断されたが、「まぁまず、焼きましょうか。」と先崎君が鉄板に肉をおいた。
ジューっと肉汁が弾け、厚切りの特上ハラミの香りが食欲をそそる。
分厚い肉のしたたりに「すごっ」と声を漏らすと「いただきます」と箸を伸ばした。
「美味しいです。」噛み切った肉をまだ飲み込む前に、感想を言うと、白米を頬張りまた「美味いです。」と、同じ感想を言った。
「喜んでもらえて、良かった。」
美味しそうに頬張る顔を見て、安堵した。
ジューっと焼ける肉を皿にとり、ゆっくりと口に運んだ。
「さっきの続きなんですけど、」ご飯を飲み込むと、思い出したかのように話しだした。
「俺の家、親父が開業医で家のすぐ隣で長いこと病院やってるんです。内科と小児科だから親子連れも来るんです。でも時々、虐待されてるんだろうなって人も来るんです。」
手元のウーロン茶を飲むと、また話し出した。
「親父、警察を呼んだこともあるんです。かくまった方が良いって判断することもあって。
でも、虐待されてる本人が、大丈夫ですって拒否しちゃうと親父は何もできなくて。
悔しいって言う事結構あるんです。
俺、一度そういうお母さん見たことあるんですけど、その人の顔が、その、先生の顔に似てたんです。だから、もしかして。って」
決まりの悪そうに、頭を掻くと、トングで鉄板の肉をひっくり返した。
「そうだったんだ…」
「俺、頭悪いから、医者にはなれないけど、音楽で心が傷ついた人を助けられたら良いなって思って。それで、音大に入ったんです。」
そうか。彼にはわかっていたのだ。
彼の優しい告白に涙が溢れそうになった。
「え、先生どうして、なんで?」
「ううん、感動しちゃって。本当に、偉いなって思って。」
「何も偉くないですよ! あ、肉焦げちゃう、先生、これ食べてください。」
空の取り皿に肉を入れ、力つけてくださいよ!と、笑わせた。
食後のコーヒーが運ばれてきた時、先崎君が徐に聞いた。
「そういえば、莉奈ちゃんは、元気ですか?」
「うん、元気だけど、ちょっと寂しそうでね。前の学校のお友達とお別れもできなかったし。あの子気遣いする子だから…」
離婚した事で名前が変わる。
他の子供たちから色々揶揄されるのを避けるため、学校に相談に行った際、5年生に上がりクラス替えをするまでの間、「田島」と名乗るようにしてもらった。
担任の先生からは、「莉奈ちゃんは、勉強にはついてきているが、大人しく、クラスでも発言しない。」と言われていた。
元々あまり活発な方ではなかったが、よく気を使う子だ。私に似て見える体質ですらある。転校して1ヶ月以上経つが、まだ、親しい友達はできていない。
「転校生ってだけで好奇の目で見られますからね。」
うーんと、考えると先崎君は、
「莉奈ちゃんも、大変だったんだから、カウンセリングが必要かもしれないですね。」
と、カップを置いた。
「でも、子供のカウンセリングなんて、誰に頼ったら良いか。相談した相手が、永沢さんみたいな人だったら?」
また余計な心配が頭をよぎる。セラピーを受け悪夢や恐怖から解放されたものの、これから一人で莉奈を守らねばと思うと、前にもまして人を疑うようになっていた。
「先生。俺、先生はもっと人を頼ったほうが良いと思うんです。DV被害者って、長いこと周りとの関係を遮断されてきたから、一人で考える事が癖になってるそうです。永沢の件は、ただの事故です。あんな奴もう出てきません。俺がそう言ったから、そうなんです。怖いことは終わったんです。だから、俺でも良いし、友達でも良いし、みんなに話して、頼ってください。」
空になったコーヒーカップを脇におき、ウェイターに水を持ってきてもらうように手をあげた。
「先崎君ってすごいね。私よりも年下なんて思えないよ。」
心の中を全て見透かされているような気がする。この人はどうして、こんなにも温かいのだろうか。
「あははは。俺は全然!」
「ううん。すごいよ。莉奈の事、相談してみようって気になったから。」
「そう思ってもらえたなら、良かったです。」
ウェイターがグラスに水を注ぐ。
一口飲むと、「一緒に遊ぶくらいの事なら俺はするんで、全然頼ってください。」と言った。
「うん。ありがとう」
次は莉奈ちゃんと3人で会おうと約束をし、店を出た。
結局「たまピカセラピー」の話はできなかった。
また次に会ったときに話せば良いと思い、駅に向かった。ホームに着くとちょうど渋谷行きの急行が止まった。
二人で電車に乗り、ドア付近に立ったまま学芸大学駅までの景色を眺める。家々の流れる優しい時間が、ゆっくりと流れた。
先崎君と別れ、学芸大学駅の西口改札を抜けた時、ふと啓介先生と、畠中先生の顔が頭をよぎった。
二人に相談してみても良いかもしれない。
そう思い、家路へと急いだ。