第一話 最初の目覚め
――ピッ、ピッ、ピッ。
規則正しい電子音が聞こえる。
何だ、この音。
やけに耳障りだ。
「意識レベル低下! 先生、急いでください!」
「血圧は!?」
「下がっています!」
誰かが叫んでいる。
慌ただしく行き交う足音。金属のぶつかる音。そして、鼻を突く消毒液の匂い。
どうやら、病院らしい。
……いや、どうやらって何だよ。
俺は何で病院にいるんだ?
「……っ」
目を開けようとする。
しかし、まぶたが重い。
全身が鉛になったように動かず、指先にさえ力が入らなかった。
かろうじて開いた視界には、真っ白な天井が映っていた。
天井の蛍光灯が、次々と後ろへ流れていく。
どうやら俺は、ストレッチャーに乗せられて運ばれているらしい。
「……あ、の」
声を出したつもりだった。
だが、喉から漏れたのは、かすれた息だけ。
おいおい。
ちょっと待てよ。
何だよ、この状況。
昨日、何してたっけ。
学校に行って……帰って……それから……。
思い出せない。
まるで、記憶の一部分だけをハサミで切り取られたようだった。
「手術室、準備できています!」
手術室?
え、俺、手術すんの?
いやいやいや、聞いてないんだけど。
せめて説明くらいしてくれよ。
……もっとも、説明されたところで、今の俺には返事もできそうにない。
視界がぐらりと揺れる。
そのときだった。
「こちらも意識レベルが低下しています!」
すぐ隣から、別の声が聞こえた。
重たい首を、ほんの少しだけ横に向ける。
そこには、もう一台のストレッチャーがあった。
俺と同じように運ばれている、一人の少女。
年齢は、俺と同じくらいだろうか。
長い髪が白いシーツの上に広がっている。
顔色は悪く、目を閉じたまま動かない。
……誰だ?
知らない女の子だ。
少なくとも、見覚えはない。
なのに。
なぜだろう。
妙に気になった。
「急いで! 時間がありません!」
医師の声が響く。
少女の乗ったストレッチャーが、俺の隣を通り過ぎていく。
その一瞬。
彼女の指先が、わずかに動いた気がした。
……生きてる、よな。
当たり前だ。
病院に運ばれてるんだから。
そんなことを考えている場合じゃない。
俺だって、どうなるかわからないんだぞ。
なのに、なぜか。
彼女から目を離せなかった。
「――!」
突然、耳鳴りがした。
キィィィィン、と。
頭の奥を直接かき回されるような、不快な音。
視界に映る蛍光灯が、ぐにゃりと歪む。
何だ……これ。
医師たちの声が遠ざかっていく。
天井がぼやける。
少女の姿も、白い光の向こうへ消えていった。
待て。
まだ……。
俺、何も……。
――そこで、意識が途切れた。
◇ ◇ ◇
――風が吹いていた。
「……ん」
頬を撫でる、柔らかな風。
鼻先をくすぐる草の匂い。
遠くから聞こえる鳥のさえずり。
……鳥?
病院に鳥なんていたっけ。
いや、いないだろ。
いたら衛生的に大問題だ。
「……んん?」
ゆっくりと目を開ける。
最初に見えたのは、青空だった。
どこまでも広がる、澄み切った青。
雲がゆったりと流れている。
「…………」
俺はしばらく、その空を眺めていた。
そして、思った。
……天井、どこいった?
「いや、待て待て待て」
勢いよく上体を起こす。
途端に、視界がぐらついた。
「うおっ!?」
危うく後ろへ倒れそうになる。
地面に手をつき、何とか体勢を立て直した。
手のひらに触れたのは、柔らかい草。
土の匂い。
確かな感触。
どうやら俺は、どこかの草むらに寝転がっていたらしい。
「……は?」
思わず、間抜けな声が漏れた。
病院は?
医者は?
手術は?
というか、俺、生きてる?
自分の胸に手を当てる。
トクン、トクン。
心臓は動いている。
「……よし、生きてるな」
いや、よしじゃねえよ。
何一つ解決してないだろ。
俺は立ち上がり、辺りを見回した。
そして。
「…………は?」
本日二度目の間抜けな声が出た。
目の前には、見たこともない街並みが広がっていた。
石畳の道。
赤茶色の屋根が並ぶ建物。
尖塔を持つ巨大な教会らしき建造物。
遠くには、白い城壁と、その向こうにそびえる壮麗な城。
まるで中世ヨーロッパ。
いや、ゲームの中に出てきそうな街だ。
「……何だ、ここ」
思わず呟く。
さらに驚いたのは、その規模だった。
街が、どこまでも続いている。
建物の隙間を縫うように道が走り、その先にも、そのまた先にも、無数の建造物が並んでいた。
そして、遥か遠方。
空に、巨大な何かが浮かんでいた。
「……雲?」
違う。
雲じゃない。
建物だ。
雲の上に、建物が建っている。
「……いやいやいや」
思わず目をこする。
もう一度見る。
やっぱり浮かんでいる。
「何だよ、あれ!」
思わず叫んでしまった。
いや、だってそうだろ。
空に建物が浮いてるんだぞ?
現代建築もびっくりだ。
物理法則はどこへ行った。
俺の知ってるニュートンは、こんなこと許してないはずだ。
「……夢、か?」
そうだ。
夢だ。
それしか考えられない。
病院で意識を失って、変な夢を見ている。
うん。
実に合理的な説明だ。
「よし、寝よう」
俺は再び草むらに寝転がった。
目を閉じる。
五秒。
十秒。
三十秒。
「…………」
目を開ける。
青空。
「……変わんねえ」
もう一度閉じる。
そして開ける。
青空。
「…………」
……どうしよう。
夢って、どうやったら覚めるんだっけ。
◇ ◇ ◇
結局、俺は街へ向かうことにした。
ここで寝転がっていても、何も始まらない。
それに、腹も減ってきた。
夢のくせに腹が減るとは、なかなか凝った仕様である。
石畳の大通りに出ると、そこには大勢の人々が行き交っていた。
露店で果物らしきものを売る商人。
大きな荷物を背負った旅人。
剣を腰に下げた男。
長いローブをまとった女性。
……うん。
完全にファンタジーだ。
剣を持って歩いてる人がいる時点で、俺の知ってる日本ではない。
「すげえな……」
思わず感嘆の声が漏れる。
建物も、人も、景色も。
何もかもが現実離れしていた。
だが、不思議なことに、違和感はなかった。
風の温度も、足元の感触も、通り過ぎる人々の話し声も。
すべてが、あまりにも自然だった。
まるで、本当にそこに存在しているかのように。
「……いや、夢だろ」
自分に言い聞かせる。
そうじゃなきゃ困る。
俺は日本人だ。
普通の日本人。
ちょっとだらしなくて、面倒くさがりで、特にこれといった取り柄もない。
そんな俺が、突然ファンタジー世界に来る理由なんてない。
……いや、ラノベならよくあるけどさ。
「おい、兄ちゃん!」
「うおっ!?」
突然、横から声をかけられた。
振り向くと、露店の店主らしき男がこちらを見ていた。
「さっきから何をキョロキョロしてるんだ?」
「あ、いや……ちょっと道に迷って」
「道に迷った? どこへ行きたいんだ?」
……どこへ?
そりゃ、決まってる。
「日本に帰りたいんですけど」
「……ニホン?」
男が首をかしげた。
「何だ、そりゃ」
「え?」
「店の名前か?」
「いやいや、国ですよ。日本。ジャパン」
「ジャパン……?」
男はますます不思議そうな顔をした。
「聞いたことねえな」
「…………」
……は?
「いや、そんなわけないでしょ。日本ですよ? 東京とか、大阪とか、京都とか」
「トーキョー? オーサカ?」
「え、知らないんですか?」
「知らねえなあ」
男は腕を組み、少し考え込んだ。
「遠くの地区の名前か?」
「地区……?」
「お前さん、どこから来たんだ?」
「だから、日本から……」
「そんな場所、聞いたことねえよ」
……何だ、それ。
いや、まあ。
夢なんだから、知らなくてもおかしくない。
俺の夢に出てくる登場人物が、日本の地理に詳しいとは限らないし。
そうだ。
そういうことだ。
「……じゃあ、ここはどこなんですか?」
「はあ?」
男は目を丸くした。
「お前、そんなことも知らねえのか?」
「……はい」
「ここは天空都市デースだよ」
「……天空都市?」
「そうだ。女王ZERO様が治める、偉大なる都だ」
天空都市デース。
女王ZERO。
……名前からしてファンタジーすぎる。
「へ、へえ……」
「お前、本当に大丈夫か?」
「あはは……たぶん」
全然大丈夫じゃない。
むしろ、今すぐ病院に戻りたい。
ああ、そうだ。
病院。
そういえば、あの女の子はどうなったんだろう。
俺と同じように運ばれていた、あの少女。
……無事だといいけど。
「おい、兄ちゃん」
「はい?」
「顔色悪いぞ。少し休んだ方がいいんじゃねえか?」
「ああ……ありがとうございます」
男に礼を言い、俺はその場を離れた。
親切な人だった。
少なくとも、夢の登場人物にしては。
◇ ◇ ◇
それから、どれくらい歩いただろうか。
街はどこまでも続いていた。
どれだけ歩いても、見知らぬ景色ばかり。
日本語は通じる。
なのに、日本という国を誰も知らない。
何人かに尋ねてみたが、返ってくる答えは同じだった。
『知らない』
『聞いたことがない』
『そんな場所は存在しない』
……おかしい。
あまりにも、おかしい。
最初は夢だと思っていた。
けれど。
夢にしては、長すぎないか?
歩けば足が疲れる。
腹は減る。
喉も渇く。
石畳に躓けば、普通に痛い。
しかも、ここにいる人間は、俺の知らないことを当たり前のように知っている。
俺が想像したこともない歴史。
聞いたこともない地名。
見たこともない文化。
夢って、こんなに細かく作れるものなのか?
「……まさかな」
嫌な考えが頭をよぎる。
もし。
もしも、これが夢じゃなかったら?
俺は……。
「……いや、ないない」
首を横に振る。
そんなこと、あるわけない。
だって、俺はさっきまで日本にいたんだぞ?
病院に運ばれて。
手術室に向かって。
それで……。
……それで?
「…………」
思い出せない。
なぜ病院にいたのか。
何が起きたのか。
どうして、あんな状態になっていたのか。
肝心な部分だけが、ぽっかりと抜け落ちている。
「……何なんだよ、これ」
胸の奥が、ざわついた。
そのとき。
――カラン、カラン。
遠くで鐘の音が鳴った。
街の中央にそびえる巨大な塔。
その頂上から、重々しい鐘の音が響き渡る。
道を歩いていた人々が、次々と足を止めた。
そして。
皆、一斉に同じ方向へ顔を向けた。
「……ん?」
何だ?
何か始まるのか?
周囲を見回す。
すると、近くにいた老人が、胸の前で両手を組んでいた。
祈るような姿勢。
その隣の女性も。
向かいの商人も。
通りを歩いていた子供までも。
皆、同じ姿勢を取っている。
「……何これ」
俺だけが、立ち尽くしていた。
やがて、人々の口から同じ言葉が漏れ始める。
「聖なる神族に、感謝を」
「偉大なる宇宙樹に、祝福を」
「我らに永遠の安寧を」
……宗教?
何だか、妙な雰囲気だ。
さっきまで賑やかだった通りが、嘘のように静まり返っている。
俺も真似した方がいいのだろうか。
いや、でも。
いきなり祈れと言われても困る。
そもそも、誰に祈ってるんだ?
「……おい」
不意に、低い声がした。
振り向く。
そこには、鎧をまとった男が立っていた。
銀色の胸当て。
腰には長剣。
そして、鋭い眼差し。
……兵士?
「貴様、何をしている」
「え? いや、何って……」
「祈りの鐘が鳴っている」
「あ、はい。そうですね」
「なぜ祈らない?」
「…………」
……え。
祈らないとダメなの?
「あ、いや、その……初めてで」
「初めて?」
兵士の眉が動いた。
「貴様、どこの地区の者だ?」
「えっと……」
まずい。
何だか、嫌な予感がする。
「日本、ですけど……」
「……何?」
「いや、だから、日本っていう国から来て……」
その瞬間。
兵士の表情が変わった。
「……もう一度言え」
「え?」
「今、何と言った?」
「日本……ですけど」
兵士は黙り込んだ。
そして、俺の顔をじっと見つめる。
……何だよ。
そんな怖い顔しなくてもいいだろ。
すると、兵士は突然、俺の腕を掴んだ。
「いっ!?」
「貴様、身分証を見せろ」
「み、身分証!?」
「早くしろ!」
「いや、持ってないです!」
そんなもん、あるわけないだろ!
日本の学生証なら、もしかしたら……。
いや、そもそも俺、何も持ってないじゃん!
「身分証がない……?」
兵士の目が細くなる。
「所属地区は?」
「わ、わかりません!」
「家族は?」
「日本に……」
「またその言葉か」
兵士は、腰に下げた小さな金属製の道具を取り出した。
何かの紋章が刻まれている。
その道具を、俺の胸元に近づけた。
「……ん?」
突然。
道具の表面に、淡い光が灯った。
青白い光。
それは一瞬で赤く変わり、激しく点滅し始める。
「……なっ!?」
兵士の顔色が変わった。
「お、おい! どうした!」
近くにいた別の兵士が駆け寄ってくる。
「反応が……!」
「何だと?」
「識別できない! こんな反応、見たことがない!」
……識別?
何の話だ?
兵士たちは、俺を囲むように立った。
周囲の人々が、ざわざわと騒ぎ始める。
「何だ?」
「何かあったのか?」
「不審者らしいぞ」
いやいや。
待ってくれ。
俺、何もしてないんだけど。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
腕を振りほどこうとする。
だが、兵士の力は強かった。
「動くな!」
「いや、だから! 俺はただ、道を聞いただけで……!」
「黙れ!」
もう一人の兵士が、俺の背後に回る。
逃げ道が塞がれた。
……おいおい。
何だよ、これ。
いくら夢でも、展開が理不尽すぎないか?
兵士の一人が、赤く点滅する道具を見つめながら、震える声で言った。
「まさか……」
そして。
俺を見た。
まるで、見てはいけないものを見てしまったかのような顔で。
「……ナンバー?」
「……は?」
聞き慣れない言葉だった。
ナンバー?
番号?
何だ、それ。
俺のことか?
「間違いないのか!?」
「わからん! だが、この反応は……!」
「上に報告しろ! 急げ!」
兵士たちが一斉に動き出す。
俺の両腕が、強く掴まれた。
「おい! ちょっと待てって!」
必死に抵抗する。
だが、びくともしない。
「何なんだよ! 俺が何したっていうんだ!」
誰も答えない。
ただ、冷たい鎧の感触だけが腕に食い込んでいた。
人々が道を開ける。
その視線が、一斉に俺へ向けられる。
恐怖。
困惑。
そして、嫌悪。
……何で。
何で、そんな目で見るんだよ。
俺は、ただ。
家に帰りたいだけなのに。
「……くそっ!」
抵抗もむなしく、俺は連れていかれた。
見知らぬ街の中を。
見知らぬ兵士たちに囲まれて。
何一つ、理解できないまま。
◇ ◇ ◇
――天空都市デース。
神聖なる神族に統治され、十億もの人々が暮らす巨大都市。
そこでは、争いは少なく、人々は永遠の安寧を享受している。
誰もが、この世界を理想郷だと信じていた。
だが。
その理想郷には、一つの絶対的な法則が存在する。
この世界に、存在してはならない者がいる。
そして、その日。
一人の少年が、世界の管理者たちに発見された。
少年の名は、ヴァン・スルト。
彼はまだ知らない。
自分がなぜ、この世界に来たのか。
自分がなぜ、ナンバーと呼ばれたのか。
そして。
この世界が、誰のために作られたものなのかを。
――これは、一人の少年が、永遠に続く夢を終わらせるまでの物語。
読んでくださりありがとうございます!
「おもしろい!」
「続きを見たい!」
「世界観の雰囲気好き!」
と少しでも思ったら、星、ブックマークで応援してくれるとありがたいです。
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