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差し出した野草をモシャモシャ口を動かし食べる妖兎は、とてもかわいい。
ステータスの数値はいじっていないから、鋭い角も牙もそのままなのに、襲いかかってこないというだけで、こんなにも印象が変わるものなのだろうか。
なんと言うか、癒される感じ。
この妖兎は、‘’魔勿‘’と変えられたことで、ようは悪いことをしない種族になったんだよね。
悪いことって、なんだろ。
人の迷惑になるようなことをしない、とか、人を騙したり傷付けるようなウソをつかない、とか。
そういうのって全部、人が主軸になった考え方なんだよね。
魔物にとっての悪いことって、なんだろう。
人間も魔物も、食べなきゃ生きていけないのだから、別の種族を害することは、生きていく上で仕方のないことだ。
それを仕方がないと、判断するかしないかで、‘’魔勿‘’も人を襲うかどうかが変わってくる。
それじゃあ、それらを仕方がないのかどうかを決めるのは、一体誰なんだろう。
やっぱり、神様なのかな。
妖兎は今のところ、葉っぱを持っているボクの指まで齧ろうとはしてこない。
このまま葉っぱを離さずにいたら、ガブッとされるのかな。
試してみたいような、怖いから離したいような。
……痛そうだから、次の草をあげよう。
キラリと光る牙を見たら、多分指先が無くなるだけじゃ済まない気がしてきたので、好奇心は閉まっておくことにした。
「魔物も太古の時代には、人を無闇矢鱈と襲うような事は無かったとされていますし、精霊様と敵対する‘’悪しきもの‘’の影響を受ける前の状態に戻るのではないでしょうか」
「魔物は人間に限らず、他の生物を執拗に排除しようとするからね。
生きていく上で必要な殺し以外はしない、とか」
「この妖兎を見ていると、草や木の実以外は食べない存在になった、とも考えられないでしょうか」
三者三様の答えだけど、皆共通して、悪さとは殺すことだと考えているんだね。
魔物との戦いにおいて、沢山殺せばその分、人は褒め称えるというのに。
魔物が人を殺すのは悪いことなんだ。
異種族間なら、敵対する相手を殺せば殺すほど、英雄のように扱われるのだと思ってた。
三英雄だって、沢山の魔物と戦って勝ったから、今もなお語り継がれているんでしょ。
なのに‘’魔勿‘’には、人を襲わないことを求めるんだ。
不思議。
贔屓しているのではなく、母さんの意見に賛成かな。
必要以上には殺さないってやつ。
お腹がすいた時の空腹を満たすため、自分たちの住処を守るため。
そういう時以外の殺しはしないってことだと、ボクも思う。
ようは、人間が主張する正当化された暴力を振るう理由だ。
もしかしたら、人間の中にもいるように、今後生み出す‘’魔勿‘’の中にも、変わった子が出てくるかもしれないけどね。
着飾るために殺すとか、憂さ晴らしに害するとか、そういうの。
人間みたいに、オシャレをするためなんて理由で他種族を襲うような魔物は、聞いたことがないけれど、もしかしたらそんな理由で襲ってくる‘’魔勿‘’もいるかもしれない。
完全に人を襲わない、という意見はアステルからしか出てこなかったな。
既に大人しい妖兎にメロメロになっているから、そんな贔屓目もあるかもしれない。
さすがに今生息している魔物を全て‘’魔勿‘’に変えるのは難しいだろうり
一人でやるには、あまりにも世界は広すぎる。
だけどもし、それが出来たとしても、その時に、‘’魔勿‘’が全員植物や木の実しか食べなくなるとなれば、森が禿げて草は無くなり、人間の田畑を荒らす‘’魔勿‘’が出てくるのは明白だ。
それを悪いことだと人間は認識するだろう。
人を襲わなくても、間接的に害してくれば、やはり人間は‘’魔勿‘’を排除しようと動くと思う。
良き隣人になるためには、棲み分けをする以外の方法はないのかな。
とは言え、人間に住み心地のいい立地って、きっと魔物にとっても住み心地がいいはずなんだよね。
安心して飲める水があって、肥沃な土地で作物がよく育ち、家畜を育てられる見晴らしが良くて広い空間が確保出来ること。
あとは酷く荒れた天候が定期的に訪れるような場所は、嫌だよね。
農業をする魔物なんて聞いたことがないけれど、栄養たっぷりの土地なら、自然と作物は育つのだし。
そういう場所を共有して使うのは……どうだろうり
難しいだろうな。
人間同士ですら、決めごとをしておかないと、争いになるのだもの。
「ウチの畑はロクな野菜が育たないのに、なんでアンタの所はそんなスクスクと育つんだ!? 嫌がらせでもしてるのか!?」と鼻息を荒くしていた人を見かけたことがある。
被害妄想が激しい人だったな。
そういう人って、もう自分の中で答えが決まってしまっているから、他の人がどれだけ「違う」「そうじゃない」と否定しても、聞き入れてはくれないんだよね。
いつの間にかいなくなっていたのは、付き合いきれないと自分から出ていったのか、それとも、争いの火種になるからと村人から追い出されたのか。
人間でさえこうなのだ。
言葉の通じない‘’魔勿‘’とならば、余計だろう。
その上元魔物ならばと、先入観で見下す人や、魔物と同一視して憎む人だって出てくるのは、想像にやすい。
魔物に親兄弟を殺された人は、ごまんといるもの。
自分を害された人なんかも、山ほどいる。
無害化したとしても、少なからず争いは起きる。
この際、ボクはこのスキルをどのように使えばいいのだろう。
人間に害があるからと、可能な限り魔物を弱くして殲滅する?
それならばアステルの『勇者』としての義務が果たせるから、その手伝いとして収まるにはちょうどいい。
ボク一人の力なんてたかが知れているから、弱体化と倒すのを同時進行では出来ない。
この四人で実行するなら、とても効率よく出来そうだ。
なにせ『勇者』は魔物を引き寄せる声質があるのだし。
別大陸に生息するような魔物まで飛んでくるのだから、その効果は絶大だろう。
望まれているのだから。
それを理由に――自分の意思を度外視して決めたことを、後悔せずにいられるか聞かれたら、ちょっと自信がない。
目につく魔物を片っ端から無害化する?
見た目が魔物と‘’魔勿‘’は同じだ。
安全な‘’魔勿‘’に変化させても、人間が‘’魔勿‘’を襲ったり、魔物に襲われたりしたら、意味がない。
結果として魔物の殲滅と似たような状態になるだけだ。
襲ってきた魔物を無力化するという意味でなら、無駄な殺生をしなくて済む分いいかもしれないけれど、‘’魔勿‘’が本当にその後一生人を襲わないのなら、また凶暴性がなりを潜めるのならば、自然界で生きていくのは酷く難しい。
月下として自分が手を下すわけではないから、気持ち的には少し楽になるけれど、間接的に殺す結果になってしまう。
やはり、想像するだけで気になる。
だからといって、‘’魔勿‘’を保護するような施設や土地は、用意出来ない。
どうするべきなのだろう。
「生け捕りとなると、難しいですものね」
「妖兎や妖狐程度ならまだしも、毒持ちの妖蛇蝎とか、どデカい大魔熊なんかは、コッチの危険が大きくなるからねぇ」
「実体のある魔物ならまだ良いですよ。
世の中、悪霊や悪妖のように、肉体を持たないものもいますからね。
その手の死霊系や妖精系の魔物の場合、生け捕りはほぼ不可能です」
「そんな魔物もいるんだ……」
他にも魔物を媒介としている寄生虫や病原菌なんかもいる。
捕食したりされたりして、増えたり減ったりを繰り返し、均衡が保たれている今の世の中に、「魔物がいなくなれば平和になる」なんて安易な気持ちで手を出せば、平和よりも先に、一部の魔物の絶滅やそれによる生態系のバランスの崩壊が訪れる。
だから辞めるようにと、『賢者』は断言した。
父さんとしての立場ではなく、第三者の意見として、ってことだよね。
父親の立場としては、倒すのではなく無害化する方向でなんとか出来ないか考えたボクの優しさを評価したい気持ちはあるそうだけど、やはりリスクが大きいし、何より‘’魔勿‘’化させられるのは、ボク一人しかいない。
ボクの負担が大きすぎるから、そういう意味でも止めたいと言われた。
世界には具体的に、どれくらいの魔物が生息しているのかなんて考えたことなかったな。
正確には分かっていないけれど、確認済みの種類だけで一〇〇万は軽く超えると言われた。
ひゃくまん。
いち、じゅく、ひゃく……七桁の計算は、足し算ですらやったことがないよ。
そんなに多いんだ。
森の奥深くや火山の内部のように、まだ人類が未踏の地もあるし、予想ではその三十倍は余裕でいると言われているそうだけど。
そうなるともう、考えることを放棄したくなる数字だね。
それこそ、研究されていないから分類としては同じにされているけれど、妖兎なんかは、角が二本ある個体もいれば、身体の模様が違うものもいる。
二本の前歯が尖っているものもいれば、真っ直ぐなものもいる。
それらを調べたらもしかしたら別の種類と見なされて、もっとずっと大きな数字になる可能性も、無きにしも非ずだとか。
種類だけでその数、となると、具体的な生息数なんて、数え切れるわけがないね。
一列にいい子で並んで貰ったとしても、ボクの一生を‘’魔勿‘’化に捧げなくれはならなくなるくらいの量になりそう。
そもそも、そんな大人しかったら‘’魔勿‘’化なんてしなくていいことになるけれど。
全部の魔物、と考えると、確かにこの大陸の外の魔物も相手にしなきゃいけなくなるんだ。
女神教とのいざこざを回避するために、この大陸から離れるつもりでいた。
‘’魔勿‘’化させるのなら、それはある意味丁度いいと思ったのだけど……
だけど父さんが見せてくれた世界の地図を見ると、ルミエール大陸は、全体の十分の一にすら満たない領土だった。
そんな広い世の中の、見たことのない魔物を相手にしなければならなくなると考えると、かなり胃が痛くなるね。
まだ始めてすらいないのに。
誰か仕切ってくれる人がいればいいのにな。