月 4
目の前に立ちふさがる黒い壁。堤防の影に饅頭笠が吸い込まれた。俺は不安になって街灯の下に乞食坊主の姿を探した。どこに隠れたのか、人影はおろか猫の子一匹見当たらない。そのまますることもなく歩き回っているうちに進入禁止の道路標識の影、堤防に登る階段を見つけた。月の光は黒い筋を浮き上がらせ、堤防を登る階段に俺を誘う。きっとこの階段を使ったのだろう。俺はそう直感して、勢いに任せて急な堤防の階段を駆け上がった。堤防の上は湿った海からの風が絶えることなく吹き続けている。川原に広がる運動場の周りに生える葦がそれになびいて俺に頭を下げる。緩やかに続く堤防の勾配を下り、そのまま運動場の上を歩いた。こんなもの何の為にあるのだろう、少なくともこうして酔い覚ましの散歩の為にあるわけじゃないだろう。月の光に照らされた水面が、蛍光灯の破片のように細かく危うい光を俺に向かって浴びせかけてくる。
そんな光を避けるように思わず天を仰いだ。見ると言うわけでもなく頭の上に輝く無様なほどに丸い月が目に入ってきた。何だってこんなに丸いんだろう?何だってこんなに光っているんだろう?死に掛けた街の残りかすのような光にかすんだ星達の恨みを晴らすかのように、鼻の頭に現れた笑いが顔から腹へ瞬時に伝わっていくのを感じた。そのまま転げまわって笑えたとしたらどんなにか気持ちの晴れることだろう。
急に気が楽になって俺はどこかの暇人が堤防の上に等間隔で並べた空き缶を一つ一つ見苦しいほどに透明な光を放つ川に向かって蹴りこんだ。アルミでできた軟弱な缶はどれもこれも人を呆れさせるような間の抜けた音を立てると放物線を描きながら、散り散りになった月の光の中に消えていった。
そして、最後に透明なガラス瓶を蹴ったときだった。それまでの感覚を一瞬失ったように、俺の足はその瓶の口を叩くにとどまり、瓶は真下に転がって砕ける。目標を失った足は水分の多い空間を切り裂き、俺の股関節を何者も存在しない空間へと引きずれ込まれていった。腰骨に軽い痛みが走り、荒く風化したコンクリートに体が叩きつけられたことが判る。軽く手足を動かして俺は重力への無駄な抵抗をする。しかしそれが一体何になるのだろうか。俺の体は黒く輝く水面に吸い込まれていた。
粘り気のある水。体に絡み付いてくるその触手は別に俺をその奥へ引きずり込むつもりなど毛頭ないようで、俺の左足がさび付いた感触をした鉄の梯子に引っかかる。頭からは水が滴り落ちる。そう簡単に人間が死ねるものか、思わず零れ落ちた苦笑いで水面に目玉の形の波紋が浮き上がった。目玉の形は果てしなく続き、今でもこうして俺の周りに広がっている。目の前を歩く二人連れが俺を指差して、不快そうな顔をして足早に通り過ぎる。あの時以来、俺の右腕はろくに動きもしない。襤褸屑と大して違いのないようなジャケットに浮かび上がるシミ、あの川の水の染み付いた靴下。俺はこうしてここにいる。そして俺の目の前は商店街に置かれたビデオカメラのように移り変わる広場の風景をただ映し出している。
噴水の影の黒い固まり。あれは一体何なんだろう。急に不安になって目を凝らそうとする。人のようにも見えるその固まりの姿をゆっくりとなぞっているうちに、それが笠のようなものを被っているのが判ってきた。あの手に持っている杖のようなものは錫杖だろうか。
急にその笠が持ち上げられ、丸い顔が俺の目にも見えるようになった。よく見えないがあの鈍く光る目は、影でわからないが潰れかけた鼻は、髭に隠れてはいるがあの開かれた口は、俺の頭の中の部品が一つ一つあるべき場所を手に入れて、喜びに沸き立っているのが判る。だからといって俺に何ができるんだろう。俺はもはや歩く事すらできやしない。なにかを投げつけようにも、俺の腹の上の新聞紙が俺の全財産だ。せめてこうして睨み返すことくらいしか・・・、俺はそのとき初めて坊主の顔を顔として眺めた。街灯の光が笠で遮られているせいが、やたらと色黒に見えるがたぶんその黒さの相当部分は肌の上に積もった垢のなせる業だろう。時折、頭や背中を左右両手を使って掻きまくっているのが何よりの証拠だ。
襤褸雑巾のように、何一つ身構えているようには見えないその姿が、なぜこれ程までに俺には美しく見えるのであろうか。そう思った瞬間だった。




