月 5
視線の中の坊主の指先が天を指さしていることに気付いた。左手で笠を持ち上げてまるで月かなにかを見上げているみたいに・・・、そうだ月だ。俺は最後の力を振り絞ってビルの谷間の狭い空を見上げた。
雲一つ無く晴れ上がった空に、ただ、月が一つ、他の星の光の恨みを晴らすかのように、おぼろに輝いてみせる。いつもならその光をかすめとって化粧してみせるスモッグの粒子も、この強い風に洗い流され、ただ真円をなす黄色い円盤がその自己顕示欲の強さを人が呆れるのもかまわずに黄色い光を垂れ流し続けていた。
だからなんだって言うんだ。
一人のコートを着た女。俺の前を相変わらず俺に軽蔑の視線を浴びせながら通り過ぎようとする。俺から三メートルくらいの距離を正確に取りながら俺を避けて通ろうというのだろう。女が俺と噴水の中間点に立ったときだった。俺の懐から十円玉がこぼれ落ちた。かつて、俺が酒屋の親父のごつい作りの手から受け取ったぴかぴか光っていた十円玉。今では俺と同じく、黒いシミを浮かべた十円玉がころころと俺の膝を伝って、コンクリートの上に滑り落ちた。
その軽薄な響きが俺の右耳から左耳へ通り過ぎるのと女の膝まであるブーツの上の辺りが不自然な曲がり方をしたのはほぼ同時に見えた。女はそのまま気でも失ったようにガクリと膝を折って大地に突っ伏した。
女の身体はまるでガラス細工か何かのように大地に当たって粉々に砕け散っていた。それが合図だったのだろうか、公園一杯の人影が次々とまるで機関銃の掃射でも受けたみたいにして、大地に倒れこみ始めた。彼らは地面にいとおしそうに接吻を済ませると粉々になって土に帰っていった。コートの袖を意味ありげに引っ張り上げながら信号を待っていた四十そこそこの眼鏡のサラリーマンも、革ジャンの襟から赤いTシャツをはみ出させながら小走りに走り抜けようとしていた大学生も、浮ついた笑いで寒さを紛らわしながら会社の噂話に花を咲かせていたOLも、膝から、踝から、腕から。透明な粉を撒き散らしながら時を惜しむように次々と壊れていった。
人間が一通り崩れ終わった時、崩壊は物へと伝染し始めた。ビルも、車も、街灯も、電柱も。俺の視界の中のありとあらゆるものが、ガラスの割れるような耳障りな音を立てて、一つ一つ丁寧に形を失っていく。俺の目の前の噴水も、一瞬凍てついたように見えた後、ビルとその崩れる早さを競っているかのように粉々に砕け散った。
視界にあったものが砕け終わった後、不意に肩が軽くなったような感じがしたので足元を見下ろしてみると、新聞紙の破片が文字を中心としてジグソーパズルの破片のように崩れて行くところだった。シミだらけのジャケットが緩やかな風に吹かれてその姿を失っていく。どうやら俺って奴も砕け散ってしまったらしい。その隣の砂山はきっとそんな残骸だ。
俺はぼんやりと周りを眺めてみた。あたり一面何も無い地平線だ。軽く目を動かすようにして視界を動かしてみた、奇妙なもので、肉体などというものが失われたというのに、俺にはその時の感覚が抜けきっていないようで、丁度百二十度の視界の中ただ緩やかに弧を描いている地平線を見ると、なぜか妙に走り出したいような気になってくる。
しかし、俺はそんな衝動を押さえつけるとゆっくりと月へと浮き上がっていった。月は月で、相変わらず、にやけた光を何も無い地上にぶちまけ続けていた。




