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『クレア』

 囁くような声で、誰かが名前を呼んでいる。頬を優しく撫でる指先の感触が心地よく、クレアは無防備に微笑む。

 ―――おかあさま?

 尋ねれば、くすりと誰かが面白そうに笑い、眠るクレアの額へ口づけをする。

『おやすみ』

 ああ。どうかこの幸せな気分のまま、永遠に目覚めなければいいのに………。

 そう願った途端、意識がふわりと浮上し、否応なく覚醒へと導かれていく。

「――――っ」

 ぱちりと瞼を開けると、クレアは寝室のベッドにいた。体が鉛のように重く、頭がぼんやりとしている。何か良い夢を見ていたような気もするが、思い出せそうにない。天井を見つめたまま、暫く瞬きを繰り返していると、どこからともなくふわりと甘い香りがして、クレアは周囲に視線を巡らせた。

 原因はすぐに判明し、枕元に置かれた一輪の美しい白薔薇の存在へとたどり着く。シシルが摘み取ったのだろうか。思わず手を伸ばそうとして、ぎくりとする。サイドテーブルに肘をつき、ゆったりと椅子に座る男の存在に気づいたからだ。

「起きたのか」

 抑揚のない声で尋ねられ、眠りの余韻から一気に抜け出したクレアは、意味もなく彼の名前を呼んだ。

「フリード」

 どうして彼がそこにいるのだろうかと考えてから、クレアはようやく己が置かれた不可解な状況に思い至る。確か自分はドレス選びの途中、疲れ果てて自室の長椅子で眠ってしまったはずだ。

 いつになく穏やかな瞳でこちらを見つめるフリードの視線から逃れるように窓の向こうへ目を向ければ、昼間であったはずの外はすっかり夜の帳に包まれており、クレアはますます困惑する羽目になる。クレアの内心を察したのだろう。フリードは手にしていた本を閉じ、静かに語り出した。

「………お前をここに運ぶようにと、シシルに頼まれた。あまりにぐっすりと眠っていて、起こすのは忍びないからと」

「―――っ」

 クレアは羞恥のあまり言葉もなかった。夫婦とはいえ、決して打ち解ける事のない相手の腕に抱き上げられた挙げ句、寝場所が変わっても気づきもせず、今の今まで暢気に眠りこけていただなんて。

「面倒をかけてごめんなさい。そんなに疲れていたのかしら………? 全然気付かなかった」

 信じがたい事実を聞かされ、クレアは赤く染まった頬を手で隠しながらうつむいた。フリードはくつろいだ様子で椅子の肘掛けに頬杖をつき、そんなクレアの仕草を面白がるわけでもなく、いつも通りの無表情のまま眺めている。

 けれど、気のせいだろうか。クレアの姿を映すその紫水晶の瞳が、常よりもほんのわずかに優しげな熱を帯びているように見えるのは。言葉に出来ない居心地の悪さを感じたクレアは、寝乱れた長い金髪を直しながら、話を切り替える事にした。

「あの、素敵なドレスを沢山ありがとう。お言葉に甘えて、好きな物をいくつか選ばせてもらったわ」

 素直に感謝の気持ちを述べたクレアに、フリードは少し意外そうな顔をした。クレアが初めて反抗的な態度を潜めた事で、驚いたのかもしれない。

「でも、本当に良かったの? どれもとても高価な品ばかりだったわ」

 特にクレアが選んだ水色のドレスは、シンプルなデザインながらも生地の素材や長いスカートの絶妙なラインに相当な手間がかかっている一級品だ。

 しかし、フリードは眉一つ動かす事はなく、平然と言い放った。

「お前が気にする必要はない。あの程度の散財でエルジア家の財政は揺らがないからな」

 その言葉に、クレアの脳裏にナターシャの件がよぎったが、賢明にもそれを口にする事はしなかった。フリードにとってナターシャの名前が禁句である事は、昨晩の夕食時の件ではっきりしている。フリードが彼女に怒りを抱くのは当然だ。貴族同士の婚姻に恋愛感情は存在しない。代わりに夫婦の関係を繋ぐのは互いへの信頼だが、金遣いが荒く、不倫をしていたというナターシャとフリードの間にそんな感情があったとは思えない。

 それは今のクレアとフリードの関係にも言える事で、二人の間を繋ぎ止めるものは何もない。この先、自分達は一体どうなっていくのだろう。答えのない疑問はいつまでもクレアの心の中にくすぶり続け、長い間消える事はなかった。



* * * * *



 ―――舞踏会当日。

 クレアは鏡の前に立ち、己の姿をじっくりと見つめた。腰を過ぎるほどに長い金髪は複雑に結い上げられ、白い花の髪飾りが至るところに散りばめられている。いつもより入念に化粧を施した透き通るように白い顔は緊張で青ざめ、薄く噛みしめた唇の血のような赤さをぞっとするほど際だたせている。露わになった首筋は折れそうなほどに華奢で、くっきりと表れた鎖骨の下に続く豊かな胸が、むき出しの肩と腕の細さを強調し、水色のドレスに包まれた肢体を妖艶に見せている。

 初めて見る自分の新しい一面に気分が高揚する反面、この先に待ち受けている地獄のような時間を思い、クレアは繊細なレースのグローブに覆われた手で己の体を守るように抱きしめた。

「準備はできたか?」

 ドアの向こうからフリードの声が聞こえ、クレアははっと我に返った。先程シシルがクレアの支度が終わった事をフリードに知らせに行ったのだった。

「ええ。今行くわ」

 どうか声の震えが伝わっていませんように―――。祈りながら振り返れば、ゆっくりとドアが開き、フリードが現れた。華やかな漆黒の正装に身を包んだその姿は相変わらず美しく、クレアはほうとため息をつきそうになる。普段は無造作に流している前髪を上げて額を出し、惜しげもなく晒された涼しげな菫色の瞳と秀麗な顔立ちに多くの女性の視線が釘付けになる事だろう。その隣に並び立ち、嫉妬と嘲笑の的にされるのかと思うと、クレアは不快感のあまり気が遠くなりそうだった。

「………そのドレスは」

 不意に、フリードがクレアの姿を眺めながら言った。こちらが見つめていた分、フリードにも同じように観察されていた事に今更ながら気づき、クレアは慌てて目をそらした。シシルが長い時間をかけて丁寧に仕上げてくれたため、どこにもおかしな点はないはずだが、フリードは何故か驚いたように目を瞠り、何とも言えない奇妙な表情をしていた。

「お気に召さなかったかしら?」

「いや………何でもない。よく似合っている」

 思いがけず真摯な声で告げられた率直な賛辞に、クレアの横顔が赤く染まった。フリードのために着飾ったわけではないが、初めて彼に女として褒められ、素直に嬉しいと感じた。そんな二人の様子を少し離れたところから見守っていたシシルが満足げな顔をして言った。

「さあ、お二人方。そろそろご出発のお時間です。ジゼルが玄関に馬車を待たせております」

 今夜ジゼルは御者として、主人の護衛もかねて王宮まで同行する事が決まっている。シシルの声に、二人の間に微かに漂っていた親密な空気が霧散し、いつもの硬質な表情を取り戻したフリードは、無言でクレアに腕を差し出した。クレアは一瞬躊躇ったものの、その腕にそっと自分の手を添えると、シシルから愛用の杖を受け取り、緩やかに歩き出したフリードの背中を追いかけた。


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