被験体N(3)
夏休みがちょうど終わった秋の頃だった。黒島はその日、大学の近くにあるいつものお気に入りのカフェにいた。ほとんどシャッター街となった商店街の隣にある、老夫婦とアルバイトの女の子三人で経営している小さなカフェだった。そこのカツサンドが美味しくて黒島は4日に一度はここへ来ていたのだ。その日も端の席に座り、注文を済ませると彼は本を読み始めた。この時間がお気に入りだった。コーヒーの匂いに包まれ、頭を空っぽにして文章に集中できる。周囲は静けさそのものだった。
しばらくすると客が入ってきた。黒島は何気なく顔をあげ、その客の顔を認識すると慌ててすぐにうつ向いた。なんと相手が、同じ講義を取っている男だったからだ。
男の名は、確か福井だったか。あいつは大して勉強もせずに大学に受かったんだ、という噂がある天才だった。教授は彼を一目置き、福井自身もそれを理解しているらしく期待に応えて更に好かれていた。
だが福井は友達は少ないイメージだった。ほとんどいつも誰かと一緒にはいるが、全員ただの好奇心から福井に話しかけるだけで、親しい感じは全く見受けられなかった。
福井は黒いシンプルなTシャツに、これまたシンプルなジーパンを履き、白いリュックサックを背負っていた。シンプルな格好だったが、それが彼にはよく似合っていた。彼は厨房に近い席に腰かけると、注文を済ませ、文庫本をリュックから取り出して読み始めた。5cmほどもある分厚いやつだ。日に焼けて紙の色が茶色くなっている。本に夢中になっていて、向かい側にいる黒島には全く気付いていない。黒島はやってきたカツサンドをすぐに平らげると、さっさと店を出ていった。
だが4日後。またしても福井がやってきた。彼は今度は黒島に気付いたらしく、目が合うと小さくお辞儀してきた。黒島もお辞儀し返すとレポートを取り出してさも熱中しているかのように頭を埋めてそれを修正し始めた。
だがその5日後もやはり福井に会った。今度は目が合うと、福井も流石に少し気まずそうだった。
なんで突然こんな店に来たんだろう、と黒島は少しイライラしながら考えた。俺と出会うことは向こうだって嫌なはずだ。なら俺の行きつけの店に来なきゃいい。
彼は音を立ててコーヒーカップを机に置くと、レジに向かった。視界の端で福井は医学書に顔を埋めていた。
一週間後。またしても店内に入ってきた福井は、まっすぐ黒島の方へ歩いてきた。
「相席、いいかな?」
黒島は少し面食らったが、
「どうぞ」
と言うしかなかった。
福井はメニューを眺め、黒島の食べかけのカツサンドを見た。
「いつもそれ食べてるよな。美味しいの?」
「美味しいよ。しかもコーヒーをつけたら最高になる。俺はいつも頼んでるよ。」
「じゃあ僕もそれにしようかな。」
福井はアルバイトの女の子を呼んでカツサンドとコーヒーを頼むと黒島の手元の本を見てきた。
「あ、「ペスト」だ。カミュが好きなのか?」
「別にそういうわけではないな。」
「主人公が医者だから、とか?」
「、、、あらすじに惹かれただけだよ。」
黒島は少しぶっきらぼうにそう言った。
福井はじっと黒島の手元を見つめてきた。まるで一緒に本を読んでいるかのようだった。黒島は人に見つめられていると集中できないタイプだったが、福井の視線はまるでただの通り抜ける風のようで、黒島は全く気にならなかった。
彼がちょうど1ページ読み終わり、ページを捲ろうとした時、再び福井が話しかけてきた。
「今さらなんだけどさ、僕のこと覚えてる?同じ講義取ってた福井ってヤツなんだけど。」
「覚えてなかったら、相席なんて承諾してないさ。こんながらんどうの店内、相席とか普通警戒して拒否するだろ。」
たしかに、と言って福井は笑った。真っ白できれいな歯だった。
「君は黒島くんだよね?」
福井がそう訊ねてきたので黒島はいささか驚いて福井をまじまじと見た。
「...俺のこと、名前まで知ってんのか。」
「うん、まあ記憶力は良いからさ。それに、この前表彰されてたから。学部優秀賞だっけ?本当にすごいよ。いつも図書館で勉強してるし、やっぱ秀才ってすごいね。」
「...ありがとう。まさか、出会って早々に褒められるとは思っていなかったけど。」
「君のことは前から知ってたからさ。でも正直、小説を読むタイプだとは思わなかったな。どちらかと言うと教科書に毎日顔をくっつけて過ごしてそうだったから。」
「...それ、褒めてんの?」
福井と黒島は、しばらく選択した講義や教授について喋った。優等生に見える福井も、意外と普通の学生のように教授の笑い話や、単位の取りやすい授業の話などに興味を持って楽しそうに喋ることに、黒島は少し警戒を解いた。
しばらくすると福井のコーヒーとカツサンドがやってきた。アルバイトの女の子はいつも通り、その切れ長の目をほとんど糸のように細めてにっこり笑うと、お辞儀して立ち去った。
福井はしばらくその後ろ姿を見送ったあと、コーヒーを一口啜り、サンドイッチにかぶりついた。そしてよく噛み、飲み込んだ。喉の内側でカツサンドが落ちていくのが見えた気がした。
福井はコーヒーに角砂糖を3つ入れ、それを一口飲んで頷いた。
「美味しいね、このコーヒー。確かにカツサンドと合うけど、それ言うならなんとでも合いそうだ。」
黒島はしばらくそんな福井を眺め、最初に福井と会った時に感じた疑問を思い出した。
「そういえば、福井はどうしてこの店に来たんだ?一度ならともかく、四回もさ。しかも全部俺と会ってるし。まさか俺を尾けてるとかないよな?」
黒島はたまに冗談を言う。分かりにくいし、面白味もない冗談でおまけに黒島は無表情でそういうことを言うから、言われた相手はよく困惑して沈黙してしまう。
だが福井は彼のつまらない冗談に少し笑ってくれた。
「まさか。それだったら店内にわざわざ入らないよ。僕は毎日この店に来てるんだ。バイト先がこのカフェの向かいの古本屋になったから、昼食場所もついでにここにしたんだ。君が常連客だとは本当に知らなかったよ。」
「なるほど。」
福井と黒島はしばらく黙って食事をしていた。福井は本当に旨そうに物を食べる。両手でしっかりとカツサンドを持ち、こぼさないように口を大きく開けてかぶりつく。そして何度も大袈裟なほど咀嚼し、飲み込む。平均して26回ぐらい咀嚼する福井を、黒島は少し奇異なものを見つめる眼差しで眺めた。
「そういえば黒島くんはさ、バイトしてるの?」
咀嚼が一段落すると、福井は頬杖をついて聞いてきた。
「教授の手伝いをしてるよ。実験の準備とか片付けとか、あとは、資料整理とか。」
「やっぱり優秀なんだね。教授に好かれてる。」
「いやいや、優秀だからでは、、、」
「優秀じゃなきゃ、そういうの頼まれないでしょ。なんで謙遜するのかなぁ。」
「君と比べたら、俺はトンビと鷹のうちのトンビのようなもんだからだよ。」
「また謙遜してる。」
福井はそう言って笑った。
福井は黒島のバイト内容について知りたがり、黒島はたくさん話してやった。教授がよく言う口癖だとか、態度が強い学生にビビって一度単位をあげてしまった話だとか。福井は頷き、リアクションをし、笑い、次をどんどん促してくれるので喋りやすかった。
店を出た頃には二人ともかなり打ち解け、連絡先も交換した。あの日から二人は友達になったのだ。遊びに行くこともよくあった。黒島は福井がいれば十分だったし、福井もいつの間にか、他の学生と話さなくなっていた。
だが、黒島は医者になったが、福井は研究職に就いた。今では彼は世界でも有名な研究者だ。連絡を取り合うことも少なくなり、最後に会ってからもう3年が経つ。
最後に会った時にはハリー・ポッター風の眼鏡ではなく、コンタクトレンズをつけていた。
「あいつがワンチャン助けてくれねえかなあー、、、」
そう呟きながら、黒島は洗面台の上にあった紙コップを手に取り、蛇口から水を注いで一気に飲み干した。そして一気にベッドに倒れこんだ。
想像以上にマットレスが薄く、背中を打ち付けてしまいかなり痛かった。彼は右手を上に掲げて眺めた。わずかな黒い粒が、まだ出ている。まるで黒島はそのうち、全身黒い粒に分解されて消えていくとでも言う風に、彼らはどんどん上昇していった。
黒島はぼんやりとそれを眺めていた。想像もつかないことが起こりすぎて、彼は全く情報処理が追い付かなかった。二時間ほど前に起きたばかりなのに、もう眠くなっている。
彼はそのまま目を閉じて、意識がゆっくり沈んでいくのに身を委ねた。




