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黒い粒の異変

そのうち飽きてしまわないか心配すぎます。


メキシコシティ空港にいよいよ着陸するため、機体は前方に傾いた。黒島は飛行機の外を眺めていたが、やがて雲しか見えなくなってしまった。その白い水蒸気を見ていると、段々それが「塵」と重なって見えた。あの頃、全身から出ていた「塵」。痛みで叫んでも、誰も彼の痛みを気にしなかった頃。両手から立ち込めるそれを見上げて何度絶望し、叫び、気を失ったのだろう。


***


全ての原因となった手術を、今でもはっきりと覚えている。あれは桜がちょうど散り終わった頃だった。桜は咲いていないが梅雨も来ていない、名もない時期。

黒島は手術室にいた。

患者は52歳、男性。電車の中で激しい腹痛で気絶し、搬送されてきたらしい。最初はただの盲腸かと思われたが、41度もの発熱の症状があったため他の病気にも罹っているのではないか、と言われていた。

しかし盲腸以外、検査では何も出てこなかった。とりあえずそのまま手術しようということで黒島が担当になったのだ。


手術は順調だった。原因となる虫垂を根本から結ぶところまでスムーズに行った。だが、事が起きたのはついに虫垂の根本を切ろうとしていた時だった。

ピチャっとわずかな音が聞こえると同時に、黒島の左手中指の腹あたりに、チクっとする痛みが走った。本当に小さなものだった。爪楊枝で、少し力を入れて刺されたぐらいの痛み。黒島は慌てて手を引き上げて眺めた。ゴム手袋に、ゴマくらいの大きさの穴が空いていた。なんだったんだ?彼は首を傾げた。

だが、とりあえず今は手術だ。彼は再びメスを構えた。


結局、その患者は原因不明の発熱が手術後にも続き、意識が回復しないまま亡くなった。

黒島はその後もたまに左手の中指を眺めたが特に変化は無く、日々は順調に進んでいった。針にでも掠ったんだろう、と彼は考え、この件は忘れ去られた。


そして一ヶ月が経った。いよいよ梅雨入りした。

その日も雨が降り、病院内は蒸し暑かった。黒島は手術室の横にある椅子に座り、首元につたる大量の汗を白いハンカチで拭いていた。ようやく気持ちがさっぱりしてきた。そしてこめかみから垂れる一滴の汗を手で拭き、ハンカチでその手を拭った。だが、ハンカチの手を拭ったところがわずかに黒くなったことに気付いた。薄めた墨を筆でちょん、とハンカチにつけたかのような具合である。

さっき首を拭いていた時は黒くならなかった。顔が汚れているのかもしれない。どこで汚れたんだろう、と考えながらも、黒島はハンカチで顔を拭いてみた。だが黒くはならない。代わりに手で持っていた方の面が、墨につけたかのように黒く汚れた。汚れていたのは手のほうだったのだ。彼は手を目に近づけてじっくり観察した。そして気づいてしまった。小さな黒い粒たちが、手の甲から漂っている。それらはまるであらゆる毛穴から出てきているかのようだった。重力を無視するように、ゆっくりと上昇していく。そしてわずかな風に任せて漂う。


黒島はしばらく呆然とした。手を目の前に上げたまま、ぽかんとする。が、すぐにトイレに向かい、手を洗った。しかしどんなに洗っても、蛇口から出た水は薄い墨のような色になるだけで一向に綺麗にならない。固形墨を永遠に洗っているような気分だった。


やがて黒島は諦めて同僚たちに相談した。だが誰も原因がわからないと言う。腐っても医療従事者のはずなのに、「そんな些細なこと気にするとか、暇なんだな。」と呆れてくる奴もいた。

「ずっと手を洗ってないからなんじゃねえの。」

と高田が言ってきた。黒島と同い年の外科医で、仕事の時はカロリーメイトしか食べていないことを自慢に思っている男だった。黒島は高田の発言で苛立ちがピークになり、もうどうにでもなれ、という気持ちで手の件を放置することに決めた。彼は一度決心すると、最後までそれをやり遂げるタイプの人間だった。普通ならばそれはむしろ、人より努力できたり揺るがない目標を保てたりするための良い習性だ。しかし今回ばかりは、それが悪い方向に働いてしまった。


手のひらから黒い粒の放出が明らかに酷くなったのは一週間後の、連日オペで疲れ切った日のことだった。その日は夜勤だったため、仮眠室で黒島はベッドの上に横になっていた。目を閉じ、できる限り早く眠りにつけるよう難しいことを考える。さっき読んだ医療書について思いを巡らせているうちに、彼はようやく段々眠くなってきた。体が重くなり、呼吸が規則的になってきたのがわかる。もう少ししたら眠れそうだった。彼の体は実質もう眠っていたのだ。なのに、ドアが激しくノックされて彼は起こされた。


「黒島先生!先生が先程手術を担当していた住田さんの容態が急変しました!至急お願いします!」

黒島は心臓が飛び出るほど驚いた。こんなに驚いたのは久しぶりだった。すると彼の体の中で、何かが暴れ出した。胸の奥底のようなところで、何かが渦巻いている。それは衝動と呼べそうなものだった。体が自己防御の一貫で暴れたがっている。理屈ではない。直感で分かった。

だがありえない。そんな話は聞いた事がない。それでも衝動はむずむずと這い上がってくる。腹から胸へ、そして手足へ、、、。何かが爆発した気がした。

彼の意識は一瞬、途切れた。


気づいたらあたり一面が真っ黒だった。あの黒い粒が黒島を中心に、竜巻のように回り、暴れている。部屋には椅子と机とベッドしかなかったが、椅子はバキバキに折れて粒の奔流の一部と化した。


黒島は驚きと恐怖でその場から動けなかった。一歩でも動いたらあの粒の渦に巻き込まれて自分もバラバラにされてしまう。黒島は突然、腕に激痛を感じた。腕の全てが悲鳴をあげる。今まで驚きや状況の処理で追いついてこなかった痛覚がようやく戻ってきたといった風だった。しかも痛みはどんどんひどくなる。黒島はうめき声をあげた。とりあえず自分の腕を確認しようと右腕があるべき場所を見下ろした。腕はなかった。肩の付け根のところで、黒い粒が大量にくっつき、その周囲にも大量の粒が漂っているだけだった。つまり、腕が消えた。左腕も同様だった。


「腕は、、、?」

黒島は自分でも意外なほど弱々しい声を出し、周囲の床を見渡した。反射的に、腕が床に落ちているのではないか、と考えたのだ。だがその間にも痛みはどんどん激しくなる。遂に腕を気にする余裕も無くなり、黒島は床に蹲って、そのまま気絶した。

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